YouTubeで、ホームレスへのインタビュー動画をよく見ている。その中でも一番好きなチャンネルは『アットホームチャンネル』という、青柳貴哉さんという福岡県出身の男性が、主に東京の色んなホームレスにインタビューをしている動画だ。
最初は好奇心だった。社会の底辺とされる人たちは、どんな人生を歩いてきたのか。何を考え、どう生きているのか。けれど、いつの間にか気づいた。私は彼らを「哀れんで」見ているのではない。どこかで憧れに近い感情を抱いている。
これは不謹慎なのだろうか。それとも、誰もが心の奥に抱えている感覚なのだろうか?
少しだけ深堀りしてみたい。
私たちが見ているのは「貧困」ではない
ホームレスのインタビュー動画で強く印象に残るのは、段ボールの寝床でも、汚れた服でもない。
- 驚くほど率直な言葉
- 過去を美化しない語り
- 成功や上昇を前提にしない視点
- ただ「生きている」という事実だけがある姿
そこには、社会で生きる私たちが常に背負わされている「役割」「期待」「評価」がほとんど存在しない。
私が惹かれているのは、路上生活そのものではなく、すべてを脱ぎ捨てた人間の状態なのだと思う。
憧れの正体① 社会的役割からの完全な解放
私たちは常に何かを求められている。
- ちゃんと働くこと
- 役に立つこと
- 成長すること
- 説明できる人生であること
ホームレスは、その要求から完全に外れている存在だ。
- 成果を出さなくていい
- 未来を語らなくていい
- 自分を正当化しなくていい
それは「自由」ではないかもしれない。だが、役割から免除された状態には、どこか息ができる感じがある。
私はそこに、無意識の安堵を感じている。
憧れの正体② 人生の物語が止まっている感じ
インタビューで彼らがよく口にする言葉がある。
「まあ、なるようになった」
「先のことは考えてない」
「今はこれでいい」
それは希望でも絶望でもない。
物語の停止だ。
私たちは常に、「これからどうするのか」「この先どうなるのか」を考え続けて生きている。その物語が、ある地点で完全に止まった人を見ると、羨ましさに近い感情が生まれる。
考え続けなくていい。
選び続けなくていい。
失敗を挽回する物語を作らなくていい。
それは逃避ではなく、思考からの一時的な解放への憧れなのかもしれない。
憧れの正体③ 覚悟が完了した人への畏敬
ホームレスの語りには、不思議な静けさがある。
- 社会を激しく恨まない
- 自分の転落を誇らない
- 未来を過剰に語らない
そこにあるのは、諦め切ったあとの落ち着きだ。私はその姿に、「自分にはまだ辿り着いていない地点」を見ている。
まだ戻れると信じている自分。
まだ別の可能性を捨てきれない自分。
だからこそ、すべてを失ったあとの静かな覚悟に、畏怖と憧れが混ざる。
私が本当に憧れているもの
正直に言えば、私は路上で寝る勇気はない。寒さも、危険も、視線も怖い。
それでも惹かれてしまうのは、社会の外に立つ想像力を彼らが体現しているからだ。
- もしすべてを失ったら、人はどうなるのか
- それでも人は生きていられるのか
- 自分はどこまで壊れても、自分でいられるのか
いつも動画を観ながら、私はホームレスになった自分を想像してしまう。だけど、これはロマン化ではない。境界線を確かめるための思考実験だろう。
憧れを否定しなくていい
この感覚は、口に出しづらい。不謹慎だと思われるかもしれない。上から目線だと誤解されるかもしれない。
でも、私は思う。
この憧れは、人間が社会の中で生きることに疲れきっている証拠でもある。
そして同時に、「それでもまだこちら側にいる」という自覚の表れでもある。
ホームレスに憧れているのではない。
すべてを剥ぎ取られた人間の静けさに、一瞬、救われているだけなのだ。
まとめ
私は今日も、室内で眠るだろう。鍵のかかる場所で、『アットホームチャンネル』を観て、社会の一員として目を閉じる。
それでも、ときどき思う。
もしすべてを失ったとしても、人は、ああいうふうに生きられるのかもしれない。
その想像が、今を生きる私たちを、かろうじて支えているのかもしれない。


