三島由紀夫について語るとき、多くの場合、まず作家としての評価が前面に出る。『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』を書いた戦後文学の巨人としての三島である。
しかしこの記事では、あえて作家としての三島ではなく、右翼としての三島由紀夫を見ていく。
三島由紀夫は、しばしば「右翼作家」と呼ばれる。
楯の会を結成し、自衛隊員に決起を呼びかけ、市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。その最期だけを見れば、三島を右翼と呼ぶことに大きな違和感はない。
しかし、三島由紀夫の右翼性は、単なる政治思想として理解できるものだったのだろうか。
彼が右に立ったのは、最初から保守思想に忠実だったからというより、当時の左翼運動が「反抗の美」を握っていたからではないか。もし時代の熱が右ではなく左に集中していなかったなら、三島は別の形の反抗を選んでいた可能性もある。
三島にとって重要だったのは、右か左かという陣営そのものではなく、時代に対してどの位置から最も美しく反抗できるかだった。
この記事では、三島由紀夫の右翼性を「左翼の時代」へのアンチテーゼとして読み解いていく。
三島由紀夫はなぜ右翼作家と呼ばれるのか
三島由紀夫が右翼作家と呼ばれる理由は、きわめてわかりやすい。
彼は天皇を語った。
戦後憲法を批判した。
自衛隊に強い関心を持った。
楯の会を結成した。
そして1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地で自衛隊員に決起を呼びかけ、最後は割腹自殺した。
これだけを並べれば、三島を右翼ではないと言う方が難しい。
しかし、問題は「三島は右翼だったかどうか」ではない。
問題は、三島はどのような意味で右翼だったのかである。
三島は、現実の保守政治に素直に乗った人間ではなかった。戦後日本の体制をそのまま肯定していたわけでもない。むしろ、経済成長、平和主義、戦後民主主義、消費社会へと向かっていく日本に、強い違和感を抱いていた。
その意味で三島は、単なる体制側の右翼ではない。
彼は、左翼とは逆の方向から戦後日本を否定した。
つまり、反体制としての右翼だった。
左翼が「反抗の美」を握っていた時代
三島由紀夫の最期を考えるとき、当時の時代背景は避けて通れない。
1960年代後半から1970年前後の日本では、学生運動や左翼運動が大きな熱を帯びていた。大学、街頭、出版、演劇、映画、思想の世界で、反体制や革命の言葉が強い存在感を持っていた。
左翼は、単なる政治思想ではなかった。
若さ。正義。反抗。知性。怒り。未来。
そうしたものをまとった、一つの時代の美学でもあった。
ここで重要なのは、三島がその美学を知らなかったはずがないということだ。三島は時代の空気に鈍感な作家ではなかった。むしろ、時代の空気を過敏なほどに嗅ぎ取る人間だった。
だからこそ、彼は左翼の側に立たなかったのではないか。
時代が左へ熱狂するなら、自分は右へ立つ。
左翼が革命の美を語るなら、自分は殉死の美を語る。
左翼が未来を語るなら、自分は失われた過去を語る。
左翼が人民を語るなら、自分は天皇を語る。
これは単なる政治的対立ではない。
三島は、時代の中心にある美学に対して、反対側から別の美学をぶつけようとしたのである。
その視点で見るなら、映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』は非常に重要な作品である。
この映画では、三島由紀夫が東大全共闘の学生たちと真正面から議論する姿を見ることができる。
そこに映っているのは、単純な「右翼作家」と「左翼学生」の対立ではない。
むしろ、互いに戦後日本への違和感を抱えながら、まったく別の言葉で世界を変えようとした者同士の奇妙な対話である。
三島がなぜ左翼ではなく、右翼という反対側の美を選んだのか。
その輪郭を知るうえで、この討論映像は一つの手がかりになる。
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檄文は「右翼の声明」なのか
三島由紀夫の檄文は、しばしば彼の右翼思想を示す文書として読まれる。
もちろん、それは間違いではない。
檄文には、自衛隊、憲法、天皇、国家、名誉、決起といった言葉が並ぶ。内容だけを見れば、明らかに右翼的な声明文である。
だが、それだけでは足りない。
檄文をよく見ると、そこには単なる保守の言葉ではなく、戦後日本そのものへの怒りがある。三島は、自衛隊を批判しているようでいて、同時に自衛隊に対して強烈な期待をかけている。彼にとって自衛隊は、戦後日本に残された最後の「肉体」のようなものだった。
言葉だけになった日本。
経済だけになった日本。
安全だけを求める日本。
死を遠ざけた日本。
その中で、自衛隊だけが、かろうじて肉体と規律と死の可能性を残しているように見えたのだろう。
だから三島は、自衛隊員に呼びかけた。
左翼が大学や街頭で叫んだように、三島は自衛隊の中で叫んだ。
左翼が学生に呼びかけたように、三島は隊員に呼びかけた。
左翼が革命を呼んだように、三島は決起を呼んだ。
向いている方向は真逆である。
しかし、形式は驚くほど似ている。
檄文とは、右翼の声明であると同時に、左翼の時代に対して書かれた逆向きの革命文書だった。
三島は体制側の人間ではなかった
三島由紀夫を右翼と呼ぶと、どうしても体制側の人間のように見えてしまう。
しかし、三島は戦後日本の体制に満足していたわけではない。
むしろ彼は、戦後日本を強く嫌悪していた。
左翼が「国家が人間を抑圧している」と考えたのに対し、三島は「国家が空洞になっている」と考えた。
左翼が「権力を倒せ」と叫んだのに対し、三島は「権威が失われた」と嘆いた。
左翼が「未来を作れ」と言ったのに対し、三島は「失われた緊張を取り戻せ」と願った。
つまり、三島と左翼は、戦後日本への違和感という点では奇妙に重なっている。
ただし、向かった方向が違った。
左翼は、戦後日本を乗り越えるために未来へ向かった。
三島は、戦後日本を乗り越えるために過去へ向かった。
左翼は、革命によって世界を変えようとした。
三島は、殉死によって世界に裂け目を入れようとした。
ここに、三島の右翼性の本質がある。
彼は守ろうとしたのではない。
むしろ壊そうとした。
ただし、その壊し方が左翼とは逆だった。
この点で三島由紀夫は、児玉誉士夫や笹川良一のような戦後右翼の実力者とは異なる。
児玉や笹川が、政治、反共、人脈、資金、裏側の権力構造と結びついた人物だったとすれば、三島はそこから外れた場所にいた。彼は体制を動かす右翼ではなく、体制に美学的な亀裂を入れようとした右翼だった。
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右か左かではなく、どちらに美があるか
三島由紀夫を考えるとき、忘れてはいけないのは、彼がまず作家だったということである。
作家にとって思想は、単なる政策ではない。
思想は、言葉であり、姿勢であり、身振りであり、死に方でもある。
三島にとって右翼とは、単なる政治的所属ではなかった。
それは、時代に対して自分をどこに置くかという、作家としての選択だった。
当時、左翼には美があった。
デモ、バリケード、連帯、革命、若者、怒り。
それらは、戦後日本の退屈さを破るものとして、多くの人を引きつけた。
だが、三島はそこに乗らなかった。
なぜなら、時代の美にそのまま乗ることは、三島にとって自分を凡庸にすることでもあったからだ。
三島は、時代の中心に立つのではなく、時代の反対側に立とうとした。
時代が左翼に熱を与えるなら、自分は右翼に熱を与える。
左翼が反抗を独占するなら、自分は右から反抗する。
そう考えると、三島の右翼性は少し違って見えてくる。
彼は右翼だった。
しかし、右翼という陣営にただ従ったのではない。
三島にとって右翼とは、左翼の時代に抗うための、最も美しい反対側だった。
もし左翼が弱かったら、三島はどうしたのか
ここで一つの仮説が浮かぶ。
もし当時、左翼運動が時代の熱を握っていなかったら、三島由紀夫は同じように右翼へ向かったのだろうか。
もちろん、これは断定できない。
三島には天皇への強い関心があり、武士道や古典的な美への傾斜もあった。だから、左翼運動が弱かったとしても、三島が保守的な美意識に惹かれた可能性は高い。
だが、それでもなお、三島の右翼性には「反対側に立つ」という作家性が濃くある。
弱い肉体に対して、鍛え上げた肉体を置いた。
言葉だけの文学に対して、行動を置いた。
戦後民主主義に対して、天皇を置いた。
左翼の革命に対して、右翼の殉死を置いた。
三島はいつも、何かの反対側に自分を置いていた。
だからこそ、こう考えることもできる。
三島にとって重要だったのは、右翼であることそのものではなく、時代に対してどの位置から最も強く、美しく、異物として立てるかだったのではないか。
もし時代がまったく別の形をしていたなら、三島は別の反抗の形式を選んでいたかもしれない。
彼が求めていたのは、政治的な正解ではない。
美しい反抗の形だった。
檄文は三島の最後の文学だった
檄文は政治文書である。
しかし、それだけではない。
檄文は、三島由紀夫が最後に書いた文学でもある。
そこには、現実の政治運動としての勝算よりも、文章そのものの強度がある。自衛隊員を本当に決起させるための実務的文書というより、三島由紀夫という作家が、自分の思想と肉体と死を一つに束ねるための最終章のように見える。
実際、市ヶ谷事件は政治的には成功しなかった。
自衛隊員は動かなかった。
三島の呼びかけは、現実の政治を変えなかった。
だが、文学として見ればどうか。
作家が言葉を書き、肉体を鍛え、楯の会を作り、制服をまとい、自衛隊に入り、檄文を撒き、演説し、最後に死ぬ。
それは、あまりにも三島由紀夫的である。
普通、作家は作品を書いて死ぬ。
三島は、自分の死を作品の終章にしてしまった。
檄文とは、その終章の本文である。
市ヶ谷事件は「逆向きの学生運動」だった
市ヶ谷事件を、単なる右翼事件として見ると、三島の異様さは半分しか見えない。
むしろ、あれは「逆向きの学生運動」だったとも言える。
学生運動が大学を占拠した時代に、三島は自衛隊の総監室を占拠した。
学生運動が拡声器で革命を叫んだ時代に、三島はバルコニーから決起を叫んだ。
学生運動が集団の未来を語った時代に、三島は個人の死を完成させた。
左翼運動と三島の行動は、思想の向きは正反対である。
しかし、どちらも戦後日本への不満から生まれている。
どちらも言葉だけでは足りず、行動へ向かった。
どちらも日常の秩序を破り、歴史の場面を作ろうとした。
その意味で、三島は左翼とまったく別の存在だったのではない。
左翼の時代に、左翼とは逆の言葉で、同じように戦後日本へ反抗した存在だった。
まとめ|三島由紀夫は本当に右翼だったのか
では、三島由紀夫は本当に右翼だったのか。
答えは、やはり「右翼だった」でいい。
天皇を語り、自衛隊に呼びかけ、楯の会を結成し、檄文を残し、市ヶ谷で死んだ。これを右翼ではないと言うのは、さすがに無理がある。
しかし、三島の右翼性は、単なる政治的所属ではなかった。
それは、左翼が時代の熱を握っていたことへのアンチテーゼだった。
右か左か。
もちろん、それは重要である。
しかし三島にとって、それ以上に重要だったのは、時代に対してどのように立つかだったのではないか。
三島由紀夫を「右翼作家」とだけ見ると、彼の複雑さは見えにくい。
映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』では、三島が東大全共闘の学生たちと議論する姿を見ることができる。
そこには、右翼と左翼の単純な対立ではなく、戦後日本に違和感を抱いた者同士の緊張した対話がある。
三島がなぜ左翼ではなく、反対側の場所に立ったのか。
この記事のテーマをさらに深く考えるなら、見ておきたい一本である。
三島由紀夫の右翼性は、単なる政治思想ではなく、左翼の時代へのアンチテーゼとしての美意識だった。
この線で読むなら、次に見ておきたい人物は野村秋介である。野村もまた、言葉、行動、死を結びつけた新右翼の人物だった。三島の美学が、戦後の右翼思想の中でどのように受け継がれ、変質していったのかを見る手がかりになる。
一方で、対比として読んでおきたいのが児玉誉士夫である。児玉は、美学や殉死の人というより、戦後日本の裏側で政治、右翼、金、人脈を動かした現実の人間だった。
三島と野村が「美としての右翼」だとすれば、児玉は「権力としての右翼」である。
この二つを並べることで、戦後右翼の奥行きが見えてくる。



