児玉誉士夫と聞くと、まずロッキード事件を思い浮かべる人が多いかもしれない。
田中角栄の逮捕へとつながった戦後最大級の疑獄事件。その裏側にいた「昭和の黒幕」。児玉誉士夫は、長くそのような人物として語られてきた。
だが、ロッキード事件だけを見ていると、児玉誉士夫という人物の本当の不気味さは見えてこない。
児玉は政治家ではなかった。
暴力団組長でもなかった。
愚連隊の頭でもなかった。
右翼団体の単なる活動家でもなかった。
にもかかわらず、戦後日本の政治、右翼、暴力団、愚連隊、興行、企業社会のあいだに通路を持っていた。
本記事では、ロッキード事件の詳細ではなく、暴力団・愚連隊・右翼との関係から、児玉誉士夫とは何者だったのかを見ていく。
児玉誉士夫とは何者か
児玉誉士夫は、戦前から右翼活動に関わり、戦中には中国大陸で活動した人物として知られている。戦後はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに入るが、釈放後は政財界、右翼、裏社会に通じるフィクサーとして存在感を強めていった。
まず、児玉誉士夫の特徴を整理すると、わかりやすい。
児玉誉士夫の主な顔
・戦前からの右翼活動家
・戦中の大陸人脈を持つ人物
・戦後政財界のフィクサー
・右翼団体を束ねた黒幕的存在
・暴力団の親分層とも接点を持った人物
・ロッキード事件で表に名前が出た人物
ここで重要なのは、児玉がひとつの肩書きに収まらない人物だったということだ。
政治家ではない。
しかし政治に近い。
暴力団ではない。
しかし暴力団と話ができる。
右翼活動家ではある。
しかし街頭で叫ぶだけの人物ではない。
児玉誉士夫は、戦後日本の表と裏のあいだにいた。
児玉誉士夫と並んで、戦後日本の右翼・政財界・公益事業の交差点に立った人物として、笹川良一の存在も無視できない。
笹川は「一日一善」のイメージで知られる一方、戦前・戦後の政治運動、競艇、財団、国際交流事業などを通じて、児玉とはまた違う形で戦後日本の裏側に影を落とした人物だった。
詳しくは、笹川良一とは何者だったのかで整理している。
暴力団を支配したのではなく、親分たちと話せる男だった
児玉誉士夫を語るとき、注意しなければならないことがある。
それは、児玉が暴力団を直接支配していたわけではないという点である。
山口組には山口組の親分がいた。
稲川会には稲川会の親分がいた。
東声会には町井久之がいた。
児玉が一声かければ全国の暴力団が動いた、というような単純な話ではない。そう書いてしまうと、ただの陰謀論になってしまう。
児玉の影響力は、命令する力ではなく、つなぐ力にあった。
暴力団の親分層と話ができる。
右翼団体に影響力を持つ。
政財界の人間とも接点がある。
戦中からの資金と人脈を持っている。
この位置が、児玉誉士夫を特別な存在にした。
つまり児玉は、暴力団の上に立つ親分ではなかった。
むしろ、暴力団の親分たちが近づきたい「上の世界」への扉だった。
町井久之と東声会|児玉に近かった暴力団
児玉誉士夫と暴力団の関係を見るうえで、重要な人物が町井久之である。
町井久之は、東声会を率いた人物である。東声会は戦後東京の裏社会で大きな存在感を持ち、在日韓国人社会、興行、右翼、政財界との接点を持った組織として知られている。
児玉誉士夫と町井久之の関係は、戦後日本の裏面史を見るうえで象徴的である。
町井は、街の暴力を持っていた。
児玉は、政治と右翼と資金の世界に通じていた。
この二人が近い位置にいたことで、東声会は単なる暴力団ではなくなる。東京の裏社会が、右翼や政財界へ接続していくための装置として見えてくる。
ここに、児玉誉士夫の本質がある。
自分で組を率いるのではない。
自分で街を歩いて縄張りを守るのでもない。
だが、街の暴力を持つ者と、政治や資金の世界をつなげることができる。
だから児玉は、暴力団そのものではないのに、暴力団にとって無視できない人物だった。
関連記事:東声会とは何だったのか
全愛会議とは何か|児玉誉士夫が右翼を束ねた場所
児玉誉士夫の右翼への影響力を見るうえで、重要なのが全愛会議である。
全愛会議とは、正式には全日本愛国者団体会議という。戦後右翼団体を横につなぐための連合体のようなもので、1959年に発足したとされる。
個別の右翼団体は、それぞれに主張も看板も違う。
赤尾敏の大日本愛国党のように街頭演説で知られた団体もあれば、より行動色の強い団体もあった。
だが、赤尾敏のような戦後右翼の人物たちと児玉誉士夫は、同じ右翼の地図の中にいた。
児玉誉士夫の強さは、ひとつの団体を率いることではなく、そうした団体を広く束ねる場所にいたことだった。
全愛会議を通して見ると、児玉の右翼への影響力はかなりわかりやすい。
全愛会議から見える児玉誉士夫の力
・個別の右翼団体を横につなぐ
・反共運動の大きな流れを作る
・街宣や抗議活動の動員力に関わる
・暴力団や愚連隊出身者とも接点を持つ
・政財界に近い右翼の窓口になる
つまり全愛会議は、単なる思想団体ではなかった。
そこには、戦後右翼の「人を動かす力」が集まっていた。
児玉誉士夫は、その上流にいた人物だった。
ここを押さえると、児玉誉士夫がなぜ「右翼の黒幕」と呼ばれたのかが見えてくる。
児玉は、自分で街頭に立ち続けるタイプの右翼ではなかった。
しかし、街頭に立つ者、組織を動かす者、資金を出す者、裏で調整する者たちをつなぐ場所にいた。
全愛会議は、その象徴だった。
関連記事:赤尾敏とは何者か
児玉誉士夫がつないだもの
児玉誉士夫を「悪の親玉」のように見ると、かえってわかりにくくなる。
彼は、暴力団を直接率いた王ではない。
愚連隊をまとめた喧嘩師でもない。
右翼思想を語るだけの論客でもない。
児玉誉士夫の本質は、別々の世界を接続したことにある。
児玉誉士夫がつないだもの
・暴力団の実行力
・愚連隊の街場の暴力
・右翼の思想と動員力
・興行の人脈
・企業社会の資金
・政治の近くにある権力
これらは、表向きには別々の世界に見える。
しかし戦後日本の裏側では、完全には分かれていなかった。
むしろ、人脈の奥でつながっていた。
児玉誉士夫は、暴力団・愚連隊・右翼をつなぐ戦後日本の裏面史の中にいた。
なぜ児玉誉士夫のような人物が生まれたのか
では、なぜ児玉誉士夫のような人物が生まれたのか。
それは、戦後日本がまだ整った社会ではなかったからである。
敗戦直後の日本には、焼け跡、闇市、占領、物資不足、復興利権、反共運動、企業の再編、興行の混乱があった。
制度は存在していた。
警察もあった。
役所もあった。
企業もあった。
政治もあった。
しかし、現場を動かすには、きれいなルールだけでは足りなかった。
闇市を仕切る者が必要だった。
揉め事を処理する者が必要だった。
人を集める者が必要だった。
圧力をかける者が必要だった。
表に出せない話をまとめる者が必要だった。
そこに、暴力団や愚連隊の実行力が入り込んだ。
右翼は思想だけでなく、人を集め、声を上げ、圧力をかける動員装置にもなった。企業や政治の側も、表には出しにくい問題を処理するために、そうした裏の力を必要とした。
児玉誉士夫は、その時代のすき間に生まれた人物だった。
表の制度がまだ弱く、裏の力が現実を動かしていた時代。
政治、企業、右翼、暴力団、興行が、今ほどはっきり分かれていなかった時代。
その時代だからこそ、児玉のような「つなぐ人間」が力を持った。
児玉誉士夫を個人の異常さだけで見ると、この構造は見えない。
むしろ重要なのは、児玉のような人物を必要とした戦後日本の側である。
児玉誉士夫と勝共連合|戦後反共ネットワークの中の黒幕
児玉誉士夫の戦後を考えるうえで、勝共連合との接点は避けて通れない。
勝共連合は、旧統一教会系の政治団体として知られる反共組織である。しかし、それは単なる宗教団体の周辺組織ではなかった。そこには岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら、戦後保守・右翼人脈が重なっていた。
児玉は、戦中の児玉機関で資金と人脈を得て、戦後は政財界、右翼、暴力団をつなぐフィクサーとなった。その児玉が、冷戦期の反共運動の中で勝共連合と接続していたことは、彼が単なる国内の黒幕ではなく、東アジアの反共政治の一部にいたことを示している。
詳しくは、別記事「勝共連合とは何なのか|旧統一教会だけでは見えない戦後反共ネットワーク」で整理している。
まとめ|児玉誉士夫は戦後日本を裏側から動かした男だった
児玉誉士夫とは何者だったのか。
一言でいえば、戦後日本を裏側から動かした男である。
自分自身が暴力団組長だったわけではない。
自分自身が愚連隊の頭だったわけでもない。
自分自身が政治家として表に立ったわけでもない。
だが、誰と誰を会わせれば話が動くのか。
どの組織を使えば圧力になるのか。
どの金とどの人脈をつなげれば力になるのか。
児玉誉士夫は、それを知っていた。
もちろん、児玉誉士夫が日本のすべてを支配していたわけではない。だが、政治、右翼、暴力団、愚連隊、興行、企業社会がまだ今ほど分かれていなかった時代に、児玉はそのあいだを行き来できた。
児玉誉士夫は、その時代そのものが生んだ、もっとも象徴的な人物の一人だったのである。
児玉誉士夫は、どの本を読んでも一冊でつかみきれる人物ではない。
むしろ、複数の本を読みながら、戦後日本の裏側にあった暴力と権力の接続を少しずつ追う人物である。
児玉誉士夫の全体像をさらに知りたい場合は、大下英治『児玉誉士夫 黒幕の昭和史』が入口として読みやすい。
より資料的に読みたいなら、有馬哲夫『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』も参考になる。
ロッキード事件としての児玉誉士夫を知りたいなら、立花隆『田中角栄研究 全記録』などから入るのが自然だろう。
戦後右翼を考えるとき、街宣、反共、任侠、政財界との接点といった要素は避けて通れない。
しかし、その一方で、戦後右翼の流れのなかからは、既成右翼や街宣右翼とは異なる思想性を持った新右翼も生まれていった。反共保守だけではなく、反米、反体制、戦後日本への違和感を抱えた右派の流れである。
街宣右翼から新右翼へ、そして新右翼以後の右派運動へ。その流れについては、こちらの記事で整理している。
彼らは孤立した存在ではなく、ひとつの構造の中で生まれている。
個別の人生を並べることで、その輪郭が見えてくる。







