堀尾昌志という名前は、現在では細木数子との関係から語られることが多い。
しかし、堀尾の人生をたどっていくと、それだけではこの人物の輪郭をほとんど捉えられないことがわかる。
堀尾は、戦後の新宿に縄張りを持っていた博徒組織・小金井一家で頭角を現し、「新宿五代目」を継承した。
その後、小金井一家八代目総長となり、さらに小金井一家など複数の博徒組織によって構成された二率会の会長にまで上りつめている。
戦後の新宿には、昔ながらの博徒だけではなく、愚連隊、テキヤ、住吉会系、極東会系など、さまざまな勢力が入り乱れていた。
堀尾昌志は、その時代を生きた。
そして彼の人生をたどると、小金井一家という古い博徒組織が、戦後の暴力団社会のなかでどのように生き残ろうとしたのかも見えてくる。
九州から東京へ出て小金井一家に入る
堀尾昌志は、1928年生まれ。
九州に生まれ、若いころ東京へ出て、小金井一家新宿四代目・田中松太郎の若い衆になったとされている。
小金井一家は、幕末の侠客として知られる小金井小次郎を祖とする古い博徒組織だった。
しかし一つの本部からすべてを統率する現代的な暴力団組織とは違い、新宿、十二社、四軒寺、川崎など、各地にそれぞれ「貸元」の系統が存在していた。
そのうち新宿の系譜は、
矢島仁太郎
↓
平松兼三郎
↓
市川三吉
↓
田中松太郎
↓
堀尾昌志
と続いたとされる。
堀尾は田中松太郎の跡を継ぎ、
小金井一家新宿五代目
となった。
後に小金井一家八代目総長、二率会会長にまで上がる堀尾の出発点は、この新宿だった。
「新宿五代目」とは何だったのか
現在、「新宿を縄張りにしていた」と聞けば、一つの暴力団が街全体を支配していたような印象を受けるかもしれない。
しかし実際の新宿はもっと複雑だった。
戦前から続く博徒組織に加え、戦後には愚連隊やテキヤ系組織、新興の暴力団が流入した。
とりわけ戦後の都市で存在感を強めたのが、既存の博徒やテキヤとは異なる「愚連隊」と呼ばれた若者たちである。組織の成り立ちも、社会との距離も、昔ながらの博徒とは違っていた。
そこには小金井一家だけではない、複数の勢力が存在していた。
そのなかで、小金井一家には昔から保有してきた「縄張り」があった。
小金井一家の新宿系統は、四谷、三光町、番衆町、花園など、新宿東側を中心とする地域を受け持っていたとされる。
さらに堀尾は後に「十二社」の縄張りも預かったとされ、結果として新宿東側だけではなく、新宿全体にまたがる小金井一家の縄張りを預かる立場になった可能性がある。
ただし、これは「新宿に存在するすべての暴力団を堀尾が支配していた」という意味ではない。
むしろ興味深いのは逆である。
戦後、新宿には他団体が次々と進出してきた。
それでも小金井一家は、古くから持つ縄張りについて、
他団体に奪われたのではなく、貸している
という論理を用いて権利を残そうとしたとされる。
暴力団ジャーナリストの鈴木智彦は、小金井一家新宿が広大な縄張りを持ちながら、戦後には住吉会や極東会などとの競合を余儀なくされ、「貸し縄張り」という形で縄張りを維持していたと説明している。
堀尾が受け継いだのは、単なる一組織の役職ではない。
幕末以来の博徒社会から続いてきた、「この土地は誰の縄張りなのか」という権利そのものだった。
鈴木は長年にわたって暴力団を取材してきたジャーナリストであり、その取材経験をまとめた『ヤクザ1000人に会いました!』では、関東と関西で異なる縄張りの考え方についても触れている。
小金井一家八代目総長へ
1969年、小金井一家は大きな転換点を迎える。
小金井一家、中杉一家、辺見一家などが国粋睦を離脱し、その後、八王子一家、親之助一家とともに二率会を結成した。
初代会長には、小金井一家七代目総長・納谷富蔵が就いた。
当時の小金井一家は決して小さな組織ではなかった。
旧日本国粋会時代の資料では、小金井一家は構成員482人とされ、生井一家に次ぐ規模だったとされている。さらに中央線沿線、新宿、川崎など広い地域に縄張りを持っていた。
1970年1月3日、七代目総長・納谷富蔵が死去する。
その後、八代目を継いだのが堀尾昌志だった。
九州から東京へ出てきた若者は、
田中松太郎の若い衆
↓
小金井一家新宿五代目
↓
小金井一家八代目総長
と階段を上がったことになる。
ここから堀尾は、新宿の一地域を預かる貸元ではなく、小金井一家全体のトップとなった。
安藤組出身の矢島武信を迎え入れる
堀尾昌志の人生を考えるうえで、もう一人重要な人物がいる。
矢島武信である。
矢島は安藤昇率いる安藤組、正式名称「東興業」の出身だった。
安藤組は戦後東京を象徴する愚連隊系組織の一つだったが、安藤昇の引退によって1964年に解散している。
その安藤組にいた矢島を小金井一家へ迎えたのが堀尾だった。
1970年7月、堀尾と矢島は養子縁組を行い、矢島は小金井一家へ移籍したとされる。
堀尾は矢島に「跡目代行」のポストを与え、後には自身が預かっていた新宿東側の縄張りを譲った。
矢島は「小金井一家新宿東初代」を名乗った。
ここには戦後暴力団史の興味深い断面がある。
小金井一家は幕末以来の系譜を持つ「博徒」である。
一方、安藤組は戦後の混乱から生まれた「愚連隊」の象徴だった。
古い博徒社会を背負う堀尾が、戦後型の愚連隊から出てきた矢島を自分の後継者の一人として取り込んでいる。
二つの時代が、ここで交差している。
関連記事:安藤組とは何だったのか|安藤昇と東興業が作った“戦後アウトローの原型”
細木数子との30年以上にわたる関係
堀尾昌志の名前が現在まで残っている最大の理由は、細木数子との関係だろう。
細木は後に「六星占術」で巨大な知名度を得るが、それ以前から東京の歓楽街や芸能界周辺で活動していた。
ノンフィクション作家・溝口敦の取材によれば、細木は堀尾と関係を持ち、事実上の「姐さん」と呼べる立場になったという。
当時、堀尾は小金井一家八代目総長であり、二率会会長代行だった。
二人は法律上の夫婦ではなかった。
しかし、その関係は30年以上にわたって続いたとされている。
ここで注意したいのは、堀尾の人生を「細木数子の内縁の夫」という肩書きから逆算しないことである。
二人が出会った時点で、堀尾はすでに新宿の貸元を継ぎ、小金井一家の頂点に立っていた。
細木が有名人になったから後世では立場が逆転して見えるだけで、当時の関係を理解するためには、むしろ小金井一家総長・堀尾昌志の世界に細木数子が入ってきたと考える方がわかりやすい。
島倉千代子の債務整理にも登場する
堀尾と細木の関係を追うと、歌手・島倉千代子の巨額債務問題にも行き着く。
島倉は知人の保証人になったことなどから多額の借金を抱え、細木がその問題に深く関わるようになった。
この際の債権者会議を仕切ったのが堀尾だった。
さらに実際の整理に関わった人物として、堀尾が新宿の縄張りを譲った矢島武信も登場する。
つまり、
堀尾昌志
↓
矢島武信
↓
小金井一家新宿東
という組織上の線と、
堀尾昌志
↓
細木数子
↓
島倉千代子
という芸能界側の線が、この事件で交差する。
堀尾という人物が、単に暴力団内部だけで生きていたわけではなかったことがわかる。
1990年、八王子抗争が起きる
堀尾の晩年、小金井一家が所属する二率会は大きな事件に直面した。
1990年の八王子抗争である。
二率会八王子一家と、五代目山口組の有力組織だった宅見組との間で抗争が発生した。
当時、山口組は関西から東京への進出を強めていた。
一方、東京には住吉会、稲川会、二率会など既存の関東組織が存在していた。
八王子抗争は、その境界線が崩れていく象徴的な事件となった。
最終的には、五代目山口組若頭・宅見勝と二率会会長・宮本高三の話し合いによって抗争終結に至ったとされる。
そして堀尾昌志は、その宅見勝と兄弟盃を交わした。
ここにも堀尾という人物の立ち位置が表れている。
新宿という土地に根を張る古い博徒の親分でありながら、関西最大勢力となった山口組の若頭とも関係を結んでいた。
時代はすでに、地域ごとの古い縄張りだけでは暴力団社会が成立しないところまで来ていた。
二率会四代目会長へ
八王子抗争当時の二率会会長は宮本高三だった。
二率会の歴代会長は、
初代 納谷富蔵
二代目 柴田義雄
三代目 宮本高三
四代目 堀尾昌志
五代目 岡澤和佳志
とされている。
堀尾は宮本の後を受けて、二率会四代目会長となった。
つまり晩年の肩書きを整理すると、
二率会四代目会長
小金井一家八代目総長
である。
かつて田中松太郎の若い衆として小金井一家に入った男が、最終的には複数の博徒一家を束ねる一次団体の頂点に立った。
堀尾昌志は「武闘派の大親分」だったのか
ここまでの肩書きだけを見ると、堀尾昌志は巨大な暴力によって新宿を支配した人物のようにも見える。
しかし、残されている人物評は少し違う。
堀尾の力を考えるときに重要なのは、
誰より喧嘩が強かったことではなく、古い博徒社会の正統な系譜と縄張りを継承したこと
ではないだろうか。
小金井一家には、新宿、十二社、川崎などに長い歴史を持つ縄張りがあった。
堀尾はその新宿五代目を継ぎ、小金井一家八代目となった。
そして戦後、新宿に別の暴力団が次々と入り込んでも、古くからの縄張りという権利は消えなかった。
それを「貸し縄張り」という奇妙な形に変えてまで維持した。
堀尾昌志は、暴力によって突然街を奪った人物というより、
すでに存在していた古い「新宿の権利」を相続した人物
と考えた方が、その実像に近い。
1992年12月、堀尾昌志死去
堀尾昌志は1992年12月に死去した。
64歳で亡くなった。
翌1993年、小金井一家九代目を岡澤和佳志が継承する。
岡澤はその後、二率会五代目会長にも就任した。
堀尾の死によって、一つの時代が終わった。
堀尾の死後、小金井一家は分裂する
ただし、小金井一家の歴史は堀尾の死で終わらなかった。
九代目・岡澤和佳志の時代まで二率会は続いた。
しかし2001年、二率会は解散する。
その過程で、小金井一家を構成していた各地域の勢力も別々の道を歩くことになる。
神奈川・川崎を中心とする系統は稲川会へ入り、現在の稲川会系小金井一家につながっていった。
一方、新宿など東京側の系統は住吉会側へ移っていく。
したがって、現在存在する「稲川会小金井一家」と堀尾昌志の時代の小金井一家を、そのまま同じ組織として捉えるのは正確ではない。
堀尾が率いていた小金井一家は、まだ独立した博徒一家として二率会の中核を担っていた時代の小金井一家だった。
古い博徒社会と戦後暴力団の間にいた男
堀尾昌志の人生をたどると、奇妙なほど多くの時代が交差する。
幕末の侠客・小金井小次郎から続く小金井一家。
戦後新宿。
安藤昇の安藤組。
安藤組出身の矢島武信。
芸能界と細木数子。
島倉千代子の巨額債務。
山口組の東京進出。
宅見勝。
そして二率会の終焉へ向かう時代。
そのすべての間に、堀尾昌志という人物がいる。
彼は新しい巨大組織を一から作った人物ではなかった。
むしろ逆だった。
すでに存在していた古い博徒社会を受け継ぎ、それを戦後の東京で生き残らせようとした人物だった。
九州から東京へ出て、田中松太郎の若い衆となり、新宿五代目を継ぐ。
そこから小金井一家八代目総長となり、最後には二率会会長まで上りつめた。
そして1992年12月に死去する。
その約9年後、二率会は消滅し、小金井一家も稲川会など複数の勢力へ分かれていった。
そう考えると、堀尾昌志の死は単に一人の暴力団総長が亡くなったという出来事だけではない。
幕末以来の縄張りと系譜を背負った「古い東京の博徒」が、戦後型の巨大暴力団へと塗り替えられていく。
堀尾昌志は、その境目に立っていた親分の一人だったのである。
堀尾昌志という人物をさらに追うなら、細木数子との関係は避けて通れない。
溝口敦の『細木数子 魔女の履歴書』では、堀尾との関係に一章が割かれており、細木数子側から見た堀尾昌志の姿や、当時の周辺関係を知るための重要な資料になっている。
この記事で触れた堀尾昌志の人生を、別の角度から確認したい人には一度読んでほしい。
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