映画『ONODA 一万夜を越えて』を観た。
この映画の小野田寛郎少尉は寡黙である。何を考え、なぜ約30年間もフィリピンのルバング島に残り続けたのか、その内面はほとんど説明されない。
映画を観ながら、次のような疑問を持った人もいるだろう。
小野田少尉は、本当に日本の敗戦を知らなかったのか。
新聞や捜索隊の呼びかけを目にしても、なぜ戦争が終わったと信じなかったのか。
それとも、本当は終戦を知りながら山を下りなかったのか。
小野田少尉の物語は、長く「上官の命令を守り続けた最後の日本兵」として語られてきた。しかし、ルバング島で起きたことを調べると、単純な英雄物語だけでは説明できない事実が見えてくる。
今回は、小野田少尉をめぐる「嘘」と「真実」を整理してみたい。
小野田寛郎少尉とは
小野田寛郎は1922年、和歌山県に生まれた。
1944年に福岡県久留米市の第一陸軍予備士官学校を卒業した後、陸軍中野学校二俣分校に入学した。二俣分校は、戦況の悪化を受けて遊撃戦、いわゆるゲリラ戦の要員を育成するためにつくられた学校である。
小野田は同年、フィリピンのルバング島へ派遣された。
与えられた任務は、敵軍が島を占領した後も生き延び、情報収集や後方撹乱、遊撃戦を続けることであった。一般の日本兵に求められた玉砕とは異なり、生き続けて任務を遂行することを命じられていたのである。
1945年8月に日本は降伏した。
しかし、小野田と仲間たちはルバング島の山中に残り、戦争が続いていると考えて行動した。
仲間の赤津勇一は1950年に投降し、島田庄一は1954年にフィリピン側との銃撃で死亡した。最後まで小野田と行動した小塚金七も、1972年の銃撃戦で死亡している。
小野田は一人になった後も山中生活を続け、1974年3月、かつての上官から正式な任務解除命令を受けて投降した。
「終戦を知らなかった」という説明は正確なのか
小野田少尉については、しばしば「戦争が終わったことを知らず、約30年間ジャングルで戦い続けた」と説明される。
しかし、この表現は正確ではない。
小野田たちは、終戦を知らせるビラを何度も目にしていた。日本政府による捜索隊も派遣され、家族が拡声器を使って投降を呼びかけている。
捜索隊は日本の新聞なども山中に残した。
つまり、小野田は外部から完全に隔絶され、終戦に関する情報を一度も得られなかったわけではない。
問題は、その情報を信じなかったことである。
小野田たちは、ビラに記された細かな誤りや、自分たちに対する報道内容の食い違いを見つけると、それを敵による謀略の証拠だと考えた。
戦争が終わったという情報そのものを知らなかったのではない。
終戦を示す情報には接していたが、それを真実として受け入れなかったのである。日本政府による捜索が行われても、小野田らはビラの誤りなどから「謀略にかからぬよう」警戒し、姿を現さなかった。
小野田少尉は嘘をついていたのか
ここから「小野田少尉は本当は終戦を知っていたのではないか」という疑問が生まれる。
小野田の体験記『わがルバン島の30年戦争』を代筆したのが、作家の津田信である。※現在は『たった一人の30年戦争』の題名で文庫化されている。
津田は1974年5月から約3カ月間、小野田と共同生活をしながら話を聞き、その内容を文章にまとめた。
ところが津田は後に、執筆の過程で小野田の話に矛盾や疑問を感じていたことを明かし、『小野田少尉との三ヵ月「幻想の英雄」』を出版した。津田自身は、最初の手記で真実をゆがめてしまったという意識を抱いていたという。
津田は、小野田が本当は日本の敗戦を理解していた可能性を疑っている。
ただし、津田の疑念をそのまま事実とすることはできない。
小野田が終戦を示す情報を得ていたことは確認できる。しかし、本人が内心では敗戦を事実だと理解しながら、意図的に嘘をつき続けていたことを証明する資料はない。
ここは分けて考える必要がある。
「終戦を示す情報を知っていた」ことと、「終戦を事実として認識していた」ことは同じではない。
小野田の説明をすべて真実と断定することもできないが、すべてが計算された嘘だったと断定することもできないのである。
なぜ終戦を信じられなかったのか
小野田が終戦を信じなかった最大の理由として挙げられるのが、軍の命令である。
小野田は帰還時の記者会見で、上官の命令がない限り島から出ることはできず、投降もできなかったと説明している。
自分に与えられた任務は遊撃戦、情報収集、後方撹乱であり、元上官から正式に任務を解除されたため投降したというのが、小野田本人の説明であった。
実際、1974年に青年旅行家の鈴木紀夫と出会った後も、小野田はすぐには山を下りていない。
かつての上官である谷口義美がルバング島を訪れ、正式に作戦任務の解除を命じたことで、ようやく武器を置いている。
この行動だけを見れば、小野田が「上官の命令が必要だった」と考えていたことには一貫性がある。
ただし、それだけで約30年間のすべてを説明できるかどうかは別問題である。
長い山中生活の中で、小野田たちは独自の世界観をつくり上げていた。
自分たちの考えと合わない情報は敵の謀略であり、情報の一部に誤りがあれば、全体が偽物である。
疑いが疑いを補強し、外部から届く情報が、かえって「戦争は続いている」という確信を強めていった可能性がある。
ルバング島で続けられた「戦争」
小野田少尉の物語を考えるとき、見落としてはならないのがルバング島の住民である。
小野田たちが続けていたのは、山中で身を隠して暮らすだけの生活ではなかった。
食料や生活物資を得るために農作物や家畜を奪い、住民を襲い、農地や家屋に火をつけることもあった。
小野田本人は、島民が開墾によって生活範囲を広げてくることを、自分たちの「領土」への侵入と考えていた。姿を見られた場合には、自衛のため相手を殺したとも説明している。
フィリピン当局の発表によると、ルバング島に残った日本兵の攻撃によって、島民30人が死亡し、100人が負傷したとされる。家を焼かれたり、生活物資を奪われたりした住民もいた。
ただし、この30人すべてを小野田本人が殺害したと断定することはできない。
数字は小野田を含む残留日本兵の活動全体に関するフィリピン当局の発表であり、個々の事件について誰が発砲したのか明確でないものもある。
それでも、島民にとって小野田たちが恐怖の存在であったことは間違いない。
日本では「孤独に耐えた最後の日本兵」という物語が注目されたが、島民にとっては戦争が終わった後も農作物を奪い、人を撃つ武装集団だったのである。
小野田少尉は犯罪者になることを恐れていたのか
津田信の本などからは、小野田が島民への攻撃を罪に問われることを恐れ、山を下りなかったのではないかという見方も生まれている。
確かに、投降すれば過去の行為について事情を聴かれ、刑事責任を問われる可能性はあった。
1974年に小野田が投降した際、フィリピンのフェルディナンド・マルコス大統領は、小野田の行為に対して恩赦を与えている。
日本政府も特別機を用意し、小野田は国賓に近い待遇を受けて帰国した。その対応は、ほかの残留日本兵と比べても異例であった。
しかし、小野田が最初から恩赦や英雄としての帰国を条件に山に残っていたことを示す証拠は確認できない。
「犯罪者として処罰されるのが怖かったから出てこなかった」という説明は、一つの推測にすぎない。
同様に、小野田への恩赦と引き換えに日本政府がフィリピンへ援助を行ったと断定できる資料も見当たらない。
確認できるのは、マルコス政権が当時、対日友好政策を進めていたことと、その政治的環境の中で小野田が厚遇されたという事実である。
日本ではなぜ英雄になったのか
小野田の帰還は、日本中の大きな関心を集めた。
新聞やテレビは、約30年間生き延びた強靱な精神、上官の命令を守った忠誠心、年老いた両親との再会を大きく報じた。
日本政府も小野田の救出を国家的な使命として扱い、帰国のために特別機を手配している。
その一方で、ルバング島の被害者についての報道は限られていた。
広島市立大学広島平和研究所の永井均は、日本の報道が小野田を中心とする物語をつくり、島民、とりわけ被害者の声が日本に届きにくい状態になったと指摘している。マルコス大統領による厚遇も、当時の対日友好政策の一環だったと考えられている。
日本人が見ていたのは、帰ってきた一人の日本兵である。
ルバング島民が見ていたのは、戦後も武器を持って襲ってくる日本兵であった。
同じ人物であっても、立つ場所によって物語はまったく違って見える。
『幻想の英雄』に書かれていることは真実なのか
津田信の『小野田少尉との三ヵ月「幻想の英雄」』は、小野田の英雄像を別の角度から見るための重要な一冊である。
帰国後の小野田と共同生活を送り、本人の体験記を代筆した人物だからこそ書けた内容がある。
ただし、この本だけを「本当の小野田少尉」と決めつけるのも危険である。
小野田本人の自伝には本人の自己正当化が入り得る。
津田の本にも、津田自身の失望や怒り、解釈が含まれている。
どちらか一冊に真実がすべて書かれているのではない。
小野田本人の説明、津田の証言、日本政府の記録、フィリピン当局の発表、ルバング島民の記憶を重ねることで、ようやく輪郭が見えてくるのである。
小野田少尉の嘘と真実
小野田少尉は、本当に終戦を知らなかったのか。
正確には、終戦を知らせる情報には何度も接していた。
しかし、それを事実として受け入れず、敵の謀略だと判断した。
本人が内心では敗戦を理解しながら意図的に嘘をついていたのかどうかは、現在残された資料だけでは断定できない。
一方で、ルバング島で住民への攻撃や略奪が行われ、多くの死傷者が出たことは、英雄物語の陰に隠してはならない事実である。
小野田寛郎は、軍の命令に人生を奪われた戦争の犠牲者であると同時に、戦後も島民に被害を与え続けた側の人間でもあった。
英雄か、犯罪者か。
真実か、嘘か。
そのどちらか一つだけを選ぶと、小野田少尉という人物は見えなくなる。
約30年間生き延びた生命力と精神力は驚異的である。しかし、その物語を称賛するときには、同じ島で命や生活を奪われた人々がいたことも忘れてはならない。
戦争は、兵士を被害者にも加害者にもする。
小野田少尉の物語が今も人を引きつけるのは、その矛盾が一人の人生の中に、消えない傷跡として残されているからなのだろう。
小野田寛郎のルバング島での約30年間を題材にした映画が、『ONODA 一万夜を越えて』である。
小野田の内面を詳しく説明する作品ではないが、ジャングルの中で戦争を続ける時間の長さと、外部の世界から切り離されていく感覚が静かに描かれている。
この記事も、映画を観て「小野田少尉は本当に終戦を知らなかったのか」と疑問を持ったことから書き始めたものである。
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小野田寛郎自身の視点からルバング島での約30年間をたどるなら、自伝『たった一人の30年戦争』がある。小野田が何を信じ、どのように戦争を理解していたのかを知るための出発点となる一冊である。
一方、小野田の英雄像を別の角度から検証したのが、手記を代筆した津田信の『小野田少尉との三ヵ月「幻想の英雄」』である。
小野田本人が語った物語と、それを文章にした津田が後に明かした疑問。二冊を読み比べることで、「最後の日本兵」という物語がどのようにつくられ、その陰に何が隠れていたのかが見えてくる。
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小野田寛郎と同じく、終戦後も長くジャングルで生き続けた日本兵に横井庄一がいる。
横井は1972年、グアム島で約28年ぶりに発見された。しかし、軍の命令を守りながら武装していた小野田とは異なり、横井は洞穴に身を潜め、ひたすら生き延びることを選んでいた。
同じ「残留日本兵」であっても、二人が戦後を生きた理由と、その後につくられた物語は大きく異なる。
一方、戦争が終わった後も、その責任を問い続けた元日本兵が奥崎謙三である。
映画『ゆきゆきて、神軍』では、奥崎がかつての上官たちを訪ね、ニューギニア戦線で起きた兵士の処刑や人肉食の真相を追及していく。
小野田寛郎が終戦後も一人で「戦争」を続けた人物であるなら、奥崎謙三は、戦後社会の中で終わったことにされた戦争を掘り返し続けた人物であった。




