2024年、長年指名手配されていた人物を題材にした映画 桐島です が公開されました。
映画は、日本史上もっとも長く逃亡した指名手配犯の一人とされる 桐島聡 の人生をモチーフにした作品です。
ただし結論から言うと、この映画はほぼフィクションに近い作品と考えられています。
理由はシンプルです。
桐島聡は約50年間逃亡していたため、逃亡生活の詳細な記録がほとんど残っていないからです。
つまり映画に描かれる日常、心情、出会いなどの多くは、資料ではなく想像によって補われた部分になります。
では実際の桐島聡とは、どのような人物だったのでしょうか。
次の章では、日本社会を震撼させた連続企業爆破事件とともに、桐島聡という人物の実像を整理していきます。
桐島聡とは何者なのか
桐島聡が生きた1970年代は、日本で学生運動や新左翼運動が盛んだった時代でした。
ベトナム戦争や安保問題などを背景に、社会変革を求める若者たちが数多く現れました。
その中で一部のグループは、武装闘争という過激な方向へ進んでいきます。
桐島聡は、1970年代に活動していた新左翼過激派組織 東アジア反日武装戦線のメンバーとされています。
東アジア反日武装戦線も、そうした時代の中で生まれた組織でした。
この組織は、日本企業を「侵略企業」とみなし、爆弾テロによって社会を変えようとする思想を持つグループでした。
1974年の三菱重工爆破事件など、複数の企業爆破事件に関与したとされ、日本社会に大きな衝撃を与えました。
警察はメンバーの多くを逮捕しましたが、数人は逃亡。
その一人が桐島聡でした。
1975年、警察庁は桐島を重要指名手配犯として全国に手配します。
しかしその後、彼は長い逃亡生活に入ることになります。
桐島聡の人生は、1970年代という激動の時代が残した影を象徴するものと言えるかもしれません。
警察庁「重要指名手配犯」として追われた桐島聡
桐島聡は、警察庁の「重要指名手配犯」として長年全国に手配されていた人物でした。
重要指名手配とは、特に重大な事件に関与した容疑者を警察が全国規模で追跡する制度で、警察庁のポスターなどで広く公開されます。
駅や警察署などで見かける指名手配ポスターの中でも、特に重要な事件の容疑者が掲載されるのがこの重要指名手配犯です。
桐島聡の顔写真は1970年代から長年このポスターに掲載され続け、日本で最も有名な指名手配写真の一つとも言われていました。
しかし本人はその間、社会の中で身を潜めながら生活していたとみられています。
50年間貼られ続けた指名手配ポスター

桐島聡の顔写真は、警察庁の重要指名手配ポスターに長年掲載されていました。
駅や警察署などで見かける指名手配ポスターの中でも、桐島聡の写真は特に有名なものの一つです。
1970年代に撮影された若い頃の写真が、その後も長く使われ続けました。
そのため、多くの人にとって桐島聡は「ポスターの顔」として記憶されていた人物でもあります。
しかし実際の本人は、その間も社会の中で身を潜めながら生活していたとみられています。
桐島聡が関与したとされる事件
桐島聡は東アジア反日武装戦線の 「さそり」グループとされています。
関与が指名手配された事件は主にこれです。
① 1974年
三菱重工爆破事件
(東京・丸の内)
- 死者8
- 負傷376
これは大型の時限爆弾です。
② 1974年
三井物産爆破事件
- 時限爆弾
- 夜間爆破
③ 1974年
帝人中央研究所爆破事件
これも設置型爆弾です。
東アジア反日武装戦線とは
東アジア反日武装戦線は、1970年代の日本で活動していた過激派組織です。
その思想は非常に急進的で、
- 日本帝国主義への批判
- 大企業への攻撃
- 植民地支配への反発
といった主張を掲げていました。
組織はいくつかのグループに分かれており、
- 狼
- さそり
- 大地の牙
といった名前で活動していました。
桐島聡は、このうち 「さそり」グループに属していたとされています。
三菱重工爆破事件
1974年、東京・丸の内の三菱重工業本社ビルで爆弾が爆発しました。
この事件は日本社会に大きな衝撃を与えます。
被害は非常に大きく、
- 死者 8人
- 負傷者 300人以上
という、戦後日本でも最大級の爆弾テロ事件となりました。
この事件をきっかけに、警察は東アジア反日武装戦線のメンバーを次々と逮捕していきます。
しかし桐島聡は逮捕を逃れ、逃亡生活に入ることになります。
東アジア反日武装戦線の爆弾の特徴
東アジア反日武装戦線は1970年代の都市ゲリラ組織で、作戦はほぼすべて 設置型爆弾テロでした。
特徴
- 建物の前や内部に爆弾を置く
- 時限装置で爆発させる
- 夜間など人が少ない時間帯を狙うことが多い
当時の裁判資料や研究では
- ダイナマイト
- 火薬系爆薬
- 自作爆弾
- 時限装置
こういう組み合わせです。
さらに彼らは爆弾製造マニュアルとして
「腹腹時計」
という本を作っています。
これは
- 爆弾の作り方
- 起爆装置
- 時限装置
などを書いた地下出版物です。
東アジア反日武装戦線の内部マニュアル「腹腹時計」
東アジア反日武装戦線を語るうえで、しばしば話題になる資料があります。
それが 「腹腹時計(はらはらどけい)」と呼ばれる内部文書です。
この文書は、東アジア反日武装戦線のメンバーが作成したとされる手引き書で、爆弾製造や地下活動の方法などがまとめられていました。
内容は極めて具体的で、
- 爆弾の作り方
- 組織の運営方法
- 逃亡時の注意点
などが書かれていたといわれています。
1970年代の捜査では、この「腹腹時計」が過激派の活動マニュアルとして注目されました。
桐島聡がこの文書を実際に使用していたかどうかははっきりしていませんが、東アジア反日武装戦線の思想や活動を理解するうえで象徴的な資料の一つとされています。
逃亡生活の桐島聡は「普通の労働者」だった
桐島聡は1975年に指名手配されて以降、約50年間逃亡を続けました。
その間、彼は偽名を使いながら生活していたとされています。
手配ポスターに掲載され続けながら、彼は社会の中に紛れ込むようにして生活していたのです。
桐島聡の逃亡生活で特に注目されているのは、彼が長年「普通の労働者」として生活していたとされる点です。
報道によると、桐島は神奈川県藤沢市周辺で生活し、建設関係の仕事をしていた可能性があります。
近所の人の証言では、
- 寡黙で目立たない人物
- 音楽が好きでギターを弾いていた
といった話も出ています。
警察庁の重要指名手配ポスターに長年掲載されていた人物が、社会の中でひっそりと暮らしていた可能性があるのです。
なぜ50年も逃げ続けることができたのか
桐島聡が長年逃亡できた理由については、いくつかの要因が指摘されています。
まず、指名手配写真が若い頃のものであったこと。
50年という時間の中で顔つきは大きく変わります。
さらに当時の日本では、日雇い労働者の身元確認が現在ほど厳しくありませんでした。
そのため
- 偽名を使う
- 職を転々とする
- 目立たない生活を送る
といった方法で社会に溶け込むことが可能だったと考えられています。
2024年、病院での告白
2024年、神奈川県の病院で末期がんの治療を受けていた男性が、自ら桐島聡であると名乗り出ました。
その時、彼はすでに余命わずかの状態だったといいます。
警察は本人確認を進めましたが、その数日後に桐島聡は死亡しました。
約50年間続いた逃亡生活は、静かな形で終わりを迎えました。
桐島聡が最後に名乗った理由
桐島聡の人生で最も印象的なのは、逃亡生活の終わり方かもしれません。
報道によると、彼は神奈川県の病院で末期がんの治療を受けていた際、自ら桐島聡であることを明かしました。
そしてその理由について、「最期は本名で迎えたい」と話していたとされています。
1975年に指名手配されてから、およそ半世紀。
社会の中に紛れるように生き続けた男は、人生の終わりに自らの名前を取り戻しました。
桐島聡という人物の人生は、1970年代という時代が残した影を象徴するものとして語り継がれていくのかもしれません。
映画「桐島です」は事実とは違いますが、面白い映画であり、少しだけ桐島聡の匂いが感じられる映画になっています。
日本ではこれまでにも、社会を揺るがす事件の中で謎の人物が注目されてきました。
その一人が、警察庁長官狙撃事件で名前が挙がった中村泰です。
この記事は「アウトロー人物」特集の一篇です。
映画・書籍・事件・人物を横断し、逸脱者の物語を記録しています。
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