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映画『壬生義士伝』とは何だったのか|新選組を支えた父親の物語

壬生義士伝 父親 映画解読

映画『壬生義士伝』は、新選組の映画である。

しかし、本当に描かれているのは、幕末の英雄譚ではない。

吉村貫一郎は、歴史を変えるために戦った男ではない。
名を残すために剣を振った男でもない。

彼が守ろうとしたのは、国でも、思想でも、武士の美学でもなく、遠く離れた郷里にいる妻と子どもたちだった。

これは、家族を食わせるために武士であり続けた、一人の父親の物語である。

だからこの映画は、順風満帆ではなかった男に刺さる。

氷河期世代、ロスジェネ世代、あるいはどの世代であっても、人生が思い通りに進まないまま父親になった男は、吉村貫一郎の姿に涙するはずである。

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『壬生義士伝』の簡単なあらすじ

映画『壬生義士伝』は、浅田次郎の同名小説を原作とした時代劇である。

物語の中心にいるのは、南部藩を脱藩し、新選組に加わった吉村貫一郎だ。

新選組といえば、近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一といった人物たちの名前がよく知られている。幕末の京都で剣を取り、時代の大きな流れに抗った男たち。その姿には、今もどこか「かっこいい新選組」というイメージがつきまとう。

だが、『壬生義士伝』が描く新選組は、それだけではない。

吉村貫一郎は、華やかな英雄として新選組に入った男ではない。郷里に妻と子どもを残し、家族を食わせるために脱藩し、京へ出て、新選組に加わった男である。

彼は剣の腕を持ちながらも、金に細かく、仕送りにこだわり、人からどう見られるかよりも家族の暮らしを考える。

新選組というと、どうしても「誠」「剣」「忠義」「滅びの美学」といった言葉で語られやすい。

しかし、その集団を支えていたのは、近藤や土方のように歴史の前面に立った男たちだけではなかったはずだ。

吉村貫一郎のように、名を上げるためではなく、生きるために剣を取った男。
思想のためではなく、家族の飯のために戦った男。
武士の美学よりも、遠く離れた家族への仕送りを考えた男。

そういう男たちもまた、新選組という組織の底にいたのではないか。

『壬生義士伝』は、かっこいい新選組の物語でありながら、その裏側にいた生活者としての武士を描いている。

そして、その生活者としての武士の姿こそが、吉村貫一郎を「父親の物語」にしている。

映画『壬生義士伝』は、新選組映画であって父親の映画である

この映画が描くのは、思想のために死ぬ男ではない。

むしろ、どこか泥臭い。金に細かい。頭を下げる。人からどう見られるかよりも、郷里に残した家族へ金を送ることを考えている。

武士として見れば、あまり格好よくない。

だが、父親として見ると、これほど胸に迫る姿はない。

彼は貧しい郷里に家族を残している。妻がいる。子どもがいる。暮らしがある。寒さがある。飢えがある。

その現実の前で、武士の誇りだけでは家族を守れない。

だから吉村は脱藩する。

もちろん、脱藩は武士にとって重い行為である。藩を捨てることは、自分の身分や名誉を傷つけることでもある。しかし、家族が食えないなら、父親はその名誉を守っている場合ではない。

ここに『壬生義士伝』の本当のテーマがある。

吉村貫一郎は、自分の夢のために家を出た男ではない。自分の名を上げるために新選組に入った男でもない。

家族を食わせるために、武士としての面目を一度壊した男である。

この姿は、現代の父親にも重なる。

思い描いた仕事に就けなかった男。
十分な給料を得られなかった男。
家族にもっと良い暮らしをさせたいと思いながら、それができなかった男。
それでも働き続けるしかなかった男。

吉村貫一郎は、幕末の武士の姿をしている。

だが、その背中には、現代の父親たちの影も重なっている。

家族を食わせるために、みっともなくても生きようとした男たちに。

金に細かい吉村貫一郎に、なぜ泣けるのか

吉村貫一郎は、金に細かい男として描かれる。

それは、武士の美学から見れば卑しく見えるかもしれない。

だが、父親として見れば違う。

金に細かいのは、自分の贅沢のためではなく、家族に送るためである。
遠く離れた妻と子どもたちを生かすためである。

子どもの飯代。
妻の暮らし。
冬を越すための金。
家を守るための金。

それを考えたら、格好など気にしていられない。

男は、家族を持った瞬間から、自分だけの人生を生きられなくなる。
腹が減っても、疲れても、恥をかいても、家族の生活を考えなければならない。

吉村貫一郎の金への執着は、欲深さではなく、父親としての切実さである。

だから泣ける。

彼が立派だから泣けるのではない。
彼が格好悪いから泣ける。
頭を下げ、金を惜しみ、家族のために必死になる姿があまりにも人間的だから泣ける。

世の中には、きれいな父親ばかりではない。

立派な会社に勤め、十分な収入があり、家族を安心させられる父親ばかりではない。
むしろ、そうではない父親の方が多い。

足りない。
余裕がない。
誇れるものがない。
それでも、家族の前では父親でいなければならない。

吉村貫一郎の姿は、そういう男たちの胸に刺さる。

氷河期世代・ロスジェネ世代にとっての『壬生義士伝』

氷河期世代やロスジェネ世代の男性にとって、『壬生義士伝』は単なる時代劇ではない。

この世代は、若い頃から「努力すれば報われる」という物語を信じにくい場所に置かれてきた。

就職の椅子が少なかった。
正社員になれなかった。
なれても給料が伸びなかった。
結婚が遅れた。
家を持てなかった。
親世代のような人生設計ができなかった。

もちろん、すべての人が同じ人生を歩んだわけではない。

それでも、この世代には「社会に入る最初の段階で、すでに負け戦を背負わされた」という感覚がある。

ここがまさに、映画の中で中井貴一扮する吉村貫一郎が死を覚悟して敵陣に突っ込む場面に重なる。

十分な収入がない。
誇れる肩書きもない。
誰かに勝った実感もない。
それでも、子どもに飯を食わせなければならない。

自分自身が報われていないのに、誰かを守る側に立たなければならない。

さらに社会の中でも、安住の地はなく、常に戦わなければならなかった。

ここで吉村貫一郎は、幕末の武士ではなく、現代の父親になる。

派遣、非正規、中小企業、現場仕事、夜勤、借金、養育費、住宅ローン、親の介護。

そうしたものを背負いながら、それでも社会の中では戦い、家族の前では父親でいようとする男たちの姿が、吉村貫一郎に重なる。

まとめ|『壬生義士伝』は、新選組の映画ではない

『壬生義士伝』は、単純な新選組の映画ではない。

立派であろうとして、しかし生活に追われ、金に追われ、家族への思いに追われた男の映画である。

吉村貫一郎は、勝った男ではない。
報われた男でもない。
歴史の勝者でもない。

だが、最後まで父親であろうとした。

だからこの映画は、順風満帆ではなかった男に刺さる。
自分の人生に勝利の実感を持てないまま、それでも家族を守ろうとしてきた男に刺さる。

すべての父親に見てほしい。
特に、胸を張って成功者だと言えない父親にこそ見てほしい。

この映画は、そういう男たちのための物語である。

もちろん映画『壬生義士伝』は、新選組映画としても見応えがある作品である。

しかし、父親という視点で見ると、物語の重みはまったく違って見えてくる。

吉村貫一郎の生き方に、順風満帆ではなかった父親の姿を見るなら、映画版から入るのがもっともわかりやすい。

※映画『壬生義士伝』はPrime Video内の+松竹チャンネルの無料体験でも観ることが出来る。

映画を見たあとに、浅田次郎の原作を読むと、吉村貫一郎という人物の奥行きがさらに見えてくる。

映画では描ききれない人物の記憶、語り、時代の空気に触れたい場合は、原作もあわせて読んでおきたい。

小説『壬生義士伝』

『壬生義士伝』を父親の物語として見るとき、もう一つ思い出す作品がある。

千原ジュニア主演の映画『ごっこ』である。

『ごっこ』もまた、血縁や正しさだけでは語れない父と子の物語だった。

父親とは何か。
家族とは何か。
不完全な男が、誰かを守ろうとするとき、そこに何が生まれるのか。

その問いは、『壬生義士伝』にも『ごっこ』にも通じている。

映画『ごっこ』については、こちらの記事で詳しく書いている。

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