Netflix『地獄に堕ちるわよ』の後半に、「安永正隆」という老人が登場する。
細木数子が近づいていくこの人物は、単なる金持ちの老人としては描かれていない。
政治家や財界人から一目置かれ、「活学」を説く大物思想家である。
安永正隆のモデルとなったのが、実在した思想家・安岡正篤(やすおか・まさひろ)である。
では、安岡正篤とは何者だったのか。
調べていくと、細木数子との晩年の婚姻騒動だけでは到底収まらない人物だったことがわかる。
昭和天皇が終戦を国民に告げた「終戦の詔書」の修正に関わり、戦後には多くの政治家や財界人が教えを請い、自民党の名門派閥「宏池会」の名を付けたともされる。
さらに笹川良一とも親交があった。
その安岡が生涯を通じて説き続けたものの一つが、ドラマにも登場する「活学」だった。
安岡正篤とは何者なのか
安岡正篤は1898年(明治31年)、大阪に生まれた。
東京帝国大学法学部政治学科を卒業。若いころから中国古典や東洋思想に傾倒し、『王陽明研究』『日本精神の研究』などを著している。
1920年代には東洋思想研究所を設立し、1927年には金鶏学院、1931年には埼玉県に日本農士学校を創設した。
研究者として本を書くことだけを目的にした人物ではない。
安岡が強い関心を持っていたのは、人を育てることだった。
特に、政治、行政、経済など社会の重要な場所に立つ人間が、どのような思想を持ち、どのように判断すべきなのか。
そのために東洋の古典を使おうとした。
ここに安岡正篤という人物を理解するための言葉が出てくる。
「活学」である。
安岡正篤が説いた「活学」とは何か
活学とは何か。
難しく考える必要はない。
学問を知識として覚えるだけで終わらせず、現実の人生に生かすことである。
安岡は中国古典や歴史を読み、それを単なる教養として蓄えるのではなく、
人間はどう生きるべきなのか。
組織の上に立つ者はどう判断すべきなのか。
危機に遭遇したとき、何を基準に決断するのか。
そうした現実の問題へつなげようとした。
現在、安岡の思想を継承する郷学研修所も、安岡が古典と歴史に学び、それを実生活に生かす「活学」を重視したと説明している。
これは、安岡が政治家や経営者に支持された理由ともつながっている。
政治家に必要なのは、古典の試験で満点を取る能力ではない。
最後には、
「では、自分はどう決断するのか」
が問われる。
安岡が教えようとしたのは、そこだった。
Netflix『地獄に堕ちるわよ』で「活学」という言葉が印象的に使われるのも、安岡正篤を描くうえで偶然ではないのである。
安岡正篤がいう「活学」を、本人の言葉でもう少し深く知りたいなら、『活眼 活学』が入り口になる。
古典や歴史を知識として覚えるのではなく、現実を見る眼を養い、自分の判断や生き方にどう結びつけるのか。この記事で触れてきた安岡の思想を、本人の著書からたどることができる。
金鶏学院と日本農士学校|安岡は「人物」を育てようとした
安岡は1927年に金鶏学院を設立した。
さらに1931年には日本農士学校を開校する。
日本農士学校が目指したのは、単なる農業技術者の養成ではなかった。
東洋の古典や哲学を学び、自らを修めながら、地域や国家に役立つ人材を育てようとする教育機関だった。
郷学研修所は、その理想を「無名にして有力なる」人材の育成だったと説明している。
有名になることではない。
肩書きを得ることでもない。
社会の中で実際に役に立つ人間を作る。
これも「活学」の発想とつながっている。
ただし、安岡の活動を単なる人格教育として見るだけでは、昭和史の中での位置を見失う。
安岡が育て、交流した人間の中には、官僚や政治家など国家権力の中枢に近い人物も多かった。
戦前の安岡正篤|思想家は国家の中枢へ近づいていった
昭和初期、日本は軍国主義と国家主義の色を急速に強めていく。
安岡もその時代の外側にいたわけではない。
金鶏学院のほか、有力官僚らが参加した国維会を組織し、政治や国家のあり方に関する思想活動を行った。
国維会には後藤文夫、藤井真信、河田烈など、実際に政府中枢へ入っていく人物が参加していた。
つまり安岡は、大学の研究室から政治を論評していた思想家ではない。
政治を実際に動かす人間たちと接触し、その人間形成や思想に関わろうとした人物だった。
そして戦争末期になると、安岡自身も大東亜省に関わる。
その延長線上に、日本史上でも特に有名な文章が現れる。
終戦の詔書と安岡正篤|「堪え難きを堪え」の言葉に関わった
1945年8月15日。
昭和天皇の声がラジオを通じて全国に流れた。
いわゆる玉音放送である。
そこで読み上げられたのが「終戦の詔書」だった。
その中でも、
「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ」
「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」
という言葉は、現在まで終戦を象徴する一節として残っている。
そして、この文章の成立過程に安岡正篤が関わっている。
国立公文書館によれば、詔書の「第三案」でこれらの重要な言葉が加えられ、この修正は当時、大東亜省嘱託だった安岡正篤によって行われたといわれている。
ただし、「終戦の詔書を安岡正篤が書いた」とまで言ってしまうのは正確ではない。
終戦の詔書は政府内部で何度も草案と修正を重ね、8月14日の閣議でもさらに修正された文章である。
安岡はその成立過程の中で、東洋思想や漢学の素養を生かして重要な文言の修正に関わった人物の一人だった。
古典を現実に生かす「活学」を説いた思想家が、最後には国家が戦争を終える際に天皇が国民へ語る文章にまで関わったのである。
安岡の思想と政治との距離が、どれほど近かったのかを象徴する出来事でもある。
戦後、なぜ政治家や財界人は安岡正篤を頼ったのか
敗戦によって、安岡の影響力が消えたわけではなかった。
むしろ戦後も、安岡の周囲には政治家や経営者が集まった。
1949年には師友会を設立し、その後、全国師友協会へと発展する。
安岡は企業で講義を行い、政治家や経営者との勉強会を続けた。
吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳らとの関係が知られ、特に佐藤栄作とは深い関係にあったとされている。
ここでも、安岡の武器は権力そのものではなかった。
選挙を仕切るわけではない。
巨額の政治資金を配るわけでもない。
暴力装置を持っているわけでもない。
安岡が提供したのは、
「指導者は何を基準に判断するべきなのか」
という思想だった。
だからこそ、政治家だけではなく財界人も安岡のもとへ集まった。
「宏池会」という名前を付けた安岡正篤
安岡と戦後政治との関係を象徴するものの一つが、自民党の宏池会である。
宏池会は1957年、池田勇人を中心に結成された。
後に大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一、岸田文雄らへつながっていく、自民党を代表する政治集団である。
その「宏池会」という名前を付けた人物が安岡正篤だったとされている。
名称は後漢の学者・馬融の文章に由来し、一方で「宏」を池田の出身地である広島の「広」、「池」を池田勇人の「池」に掛けたともいわれる。
一思想家が、後世まで続く自民党派閥の名前まで残している。
安岡正篤と戦後保守政治との距離を考えるうえで、象徴的なエピソードである。
笹川良一と安岡正篤の関係
安岡正篤の周囲にいたのは政治家だけではない。
戦後日本を代表する人物の一人、笹川良一とも直接の親交があった。
笹川良一の息子である笹川陽平は、安岡について、父・良一と仲が良く、互いの家を行き来することもたびたびあったと回想している。
当時、両家は東京・小石川周辺に住んでいた。
笹川良一が挨拶をする際、その文章を安岡に書いてもらったこともあったという。
単に「同じ時代の保守人脈に名前がある」というだけではない。
私的な往来を伴う関係だったことがわかる。
ただし、二人の性格はかなり違う。
安岡が古典や人物学を通じて指導者に影響を与えた思想家だとすれば、笹川良一は政治運動、競艇、日本船舶振興会など、実際の組織と巨大な資金の流れを作った実行型の人物だった。
笹川良一については、別記事でその戦前右翼から競艇、日本財団、反共人脈までを詳しく整理している。
関連記事:笹川良一とは何者か|競艇・日本財団・右翼人脈をつないだ戦後日本の怪物
そして笹川をたどると、もう一人の人物が出てくる。
児玉誉士夫である。
笹川と児玉には戦前から接点があり、児玉は戦後になると政財界、右翼、裏社会を横断するフィクサーとして存在感を強めていった。
安岡と児玉を直接の盟友だったと見る根拠は乏しい。
しかし、安岡、笹川、児玉という三人が、戦前から戦後へ続く保守・右翼・反共人脈のそれぞれ異なる場所にいたことは興味深い。
児玉誉士夫については、こちらの記事で整理している。
関連記事:児玉誉士夫とは何者だったのか|暴力団・愚連隊・右翼をつないだ戦後日本の裏面史
安岡は思想。
笹川は組織と制度。
児玉は政財界と裏社会をつなぐ調整力。
「昭和の黒幕」という同じ言葉で括られることがあっても、その力の形はまったく同じではなかった。
「平成」を考案したのは安岡正篤なのか
安岡正篤について調べると、頻繁に出てくる話がある。
「元号『平成』を考案した人物」
という説である。
安岡自身を顕彰する資料などでも、そのように紹介されてきた。
しかし、ここは少し注意が必要である。
平成が正式に決められたのは1989年。
安岡はその6年前の1983年に亡くなっている。
生前の安岡が「平成」という元号案を考えていたとする説が広まり、長く「平成の考案者」といわれてきた。
一方、平成改元時に実際の選定作業を担当した内閣内政審議室長・的場順三は、後に「平成」の考案者は東洋史学者の山本達郎だったと証言している。
政府の公文書では考案者の氏名はいまも正式には公表されていない。
したがって、「安岡正篤が平成という元号を作った」と断定するのは避けた方がいい。
正確には、安岡が生前に「平成」という案を考えていたとする有名な説があるというところまでである。
なお、「平成」の出典そのものは『史記』の「内平かに外成る」と、『書経』の「地平かに天成る」であり、政府も公式に説明している。
細木数子と安岡正篤|晩年に起きた婚姻騒動
そして安岡正篤の人生は、最後に思わぬ人物と交差する。
細木数子である。
1983年。
安岡は85歳になっていた。
そこへ急接近したのが、当時45歳だった細木数子だった。
二人について婚姻届が提出され、安岡の家族との間で大きな問題へ発展する。
家族側は安岡に認知症の症状があったなどとして婚姻の有効性を争い、安岡の死後まで騒動は続いた。
この出来事が、Netflix『地獄に堕ちるわよ』に登場する「安永正隆」につながっている。
だが、ドラマだけを見ていると一つ見落としやすいことがある。
細木数子が近づいた相手は、単なる著名人でも、単なる高齢の資産家でもなかった。
終戦の詔書に関わり、戦後の首相や財界人と交流し、笹川良一とも親交を持っていた人物だったのである。
そこまで知ると、細木数子と安岡正篤の婚姻騒動が、なぜ当時これほど大きな話になったのかも見えてくる。
細木数子については、Netflixドラマの実在モデル、稲川会や山口組との関係、安岡正篤との婚姻騒動まで、別記事で詳しく整理している。
関連記事:細木数子とヤクザの関係|稲川会・山口組とNetflix『地獄に堕ちるわよ』の実在モデル
安岡正篤は「昭和の黒幕」だったのか
安岡正篤は、しばしば「昭和の黒幕」「政界の指南役」といった言葉で紹介される。
確かに、その人脈だけを並べれば黒幕という言葉を使いたくなる。
政治家。官僚。財界人。笹川良一。そして終戦の詔書。
しかし児玉誉士夫のような人物と比較すると、安岡の力は少し違う。
児玉が資金、人脈、政界工作などによって人をつないだ人物だとすれば、安岡が提供したものは思想的な権威だった。
安岡自身が首相になったわけではない。
巨大企業を経営したわけでもない。
競艇を動かした笹川良一のような資金装置も持っていない。
それでも権力を持つ人間たちが安岡のところへやって来た。
なぜなのか。
その答えは、結局「活学」に戻るのではないか。
古典を読む。
歴史を知る。
しかし、そこで終わらない。
その知識を使って、現実の世界でどう判断するのか。
安岡正篤は、それを生涯問い続けた人物だった。
まとめ|安岡正篤とは「権力者に考え方を教えた人」だった
安岡正篤とは何者だったのか。
陽明学者。
東洋思想家。
教育者。
昭和の黒幕。
歴代首相の指南役。
どれも間違いではない。
だが一つだけ選ぶなら、
権力を持つ人間に、どう考えるべきかを教えようとした人物
という表現が近い。
青年を育てるため金鶏学院や日本農士学校をつくった。
国家指導者の育成に関わった。
敗戦時には終戦の詔書の重要な言葉の修正に関与したとされる。
戦後には政治家や財界人が安岡のもとへ集まり、笹川良一とも交流した。
そして人生の最後には、40歳年下の細木数子との婚姻騒動によって、まったく別の形で世間の注目を浴びることになる。
その長い人生を一本につないでいるものがあるとすれば、やはり「活学」なのだろう。
学問は、本の中に置いておくものではない。
現実の人生で使うものである。
安岡正篤自身が、その思想を昭和という時代の中で実践し続けた。
安岡正篤の「活学」を本人の言葉で読む
Netflix『地獄に堕ちるわよ』から安岡正篤を知った人にとって、「活学」という言葉は少し抽象的に聞こえるかもしれない。
しかし安岡が政治家や経営者に求めたものを考えると、その意味は見えてくる。
知識を持っているだけでは足りない。
現実をどう見るのか。そして、そこでどう判断するのか。
安岡正篤の思想をさらに知りたいなら、著書『活眼 活学』を読んでみるといい。ドラマに出てきた「活学」という言葉が、安岡にとって何を意味していたのかがより具体的に見えてくる。
だから彼の名前をたどっていくと、思想史だけでは終わらない。
戦争、天皇、政治、財界、右翼、そして細木数子まで出てくる。
安岡正篤という一人の思想家を追うだけで、昭和日本の表と裏をつないでいた配線の一部が見えてくるのである。



