重信房子とは、日本赤軍の元最高幹部として知られる人物である。
しかし、彼女を日本赤軍の事件史だけで見てしまうと、重信房子という人間そのものは見えにくくなる。
重信房子は、敗戦直後に生まれ、働きながら夜間大学に通い、学生運動に入り、日本を出て、遠いパレスチナに人生を賭けた女性。
若いころの重信房子は、美人としても知られていた。
さらに、逃亡生活の中で母となり、娘には無国籍という人生を背負わせることになった。
重信房子の人生は、思想が人間をどこまで遠くへ連れていくのかを示している。
そして同時に、どれほど国家を否定しても、人は最後には家族、国籍、名前の問題に戻ってくることも示している。
この記事では、日本赤軍という組織ではなく、重信房子自身の生い立ち、美貌、娘・重信メイ、そして現在までを追っていく。
敗戦直後に生まれた重信房子
重信房子は、1945年9月28日、東京都世田谷区に生まれた。
終戦は、1945年8月である。つまり、敗戦の翌月に生まれたことになる。
重信房子の人生は、戦後日本そのものの始まりと重なっている。
日本が焼け跡から再出発しようとしていた時代に、重信房子は生まれた。
高度経済成長へ向かう前の、まだ貧しさと戦争の記憶が濃く残る時代である。
彼女を単に「日本赤軍の女リーダー」としてだけ見ると、この出発点が抜け落ちる。
重信房子は、最初から国際武装闘争の人間だったわけではない。
敗戦後の日本に生まれた、戦後第一世代の一人だった。
父の影と貧しい家庭
重信房子の父は、戦前右翼的な思想を持つ人物だったとされる。
重信房子はのちに左翼革命家となるが、家庭の中には、むしろ戦前右翼の精神があった。父は血盟団周辺とのつながりを持っていたともされる人物であり、国家や大義に身を捧げるような思想的空気を持っていた。
もちろん、父が右翼だったから娘が左翼になった、という単純な話ではない。
ただ、思想の左右は違っても、「大義のために生きる」「個人の幸福よりも大きなものに身を投じる」という感覚には、奇妙な連続性がある。
重信房子は、戦前右翼の精神性を、戦後左翼の言葉で引き受け直した人物だったのかもしれない。
家庭は裕福ではなかった。父は食料品店などを営んでいたが、商売上手というより理想家肌の人物だったようで、家計は厳しかったとされる。重信房子は、幼いころから文学少女でもあった。
この「文学少女」という部分も見逃せない。
重信房子は、最初から銃や革命の人だったのではない。言葉を読み、世界を想像し、自分の置かれた場所の外側を見ようとする少女だった。
のちの彼女の人生が過激な政治運動へ向かうとしても、その根には、世界を別の形で見たいという欲望があったように思える。
キッコーマンで働き、明治大学二部へ
高校卒業後、重信房子はキッコーマンに就職した。
彼女は、すぐに学生運動の世界へ入ったわけではない。
まず社会に出て、働いている。
その後、働きながら明治大学二部文学部へ進学した。二部とは夜間部である。昼間は働き、夜は大学に通う。
重信房子は、戦後日本の勤勉な若者の一人だった。
彼女はもともと教師を目指していたともされる。
この時点の重信房子には、まだ現在の私たちが思い浮かべる「日本赤軍の最高幹部」の姿はない。会社で働き、夜に大学へ通い、自分の未来を切り開こうとする若い女性がいるだけである。
しかし、その勤勉さ、体力、意志の強さは、やがて別の方向へ燃え上がっていく。
普通の努力として始まったものが、時代の熱に触れ、政治運動へ流れ込んでいく。
重信房子の人生は、ここから大きく曲がり始める。
学生運動との出会い
1960年代後半の大学は、現在の大学とはまったく違う空気を持っていた。
ベトナム反戦運動、大学闘争、全共闘運動。学生たちは、自分たちが社会を変えることができると信じていた。政治が遠いものではなく、若者の生活と地続きにあった時代である。
重信房子も、その熱の中へ入っていく。
明治大学で学費問題や学生処分への抗議運動に関わり、やがて社会主義学生同盟、共産主義者同盟、赤軍派へと進んでいった。重信房子は赤軍派の中央委員、国際部として活動するようになる。
当時の学生運動に参加した若者たちの多くは、社会の不正義を正したい、戦争に反対したい、既成の権力を問い直したいという思いを持っていた。
重信房子も、その一人だった。
奥平剛士との偽装結婚
重信房子の人生の大きな転換点が、奥平剛士との偽装結婚である。
1971年、重信房子は奥平剛士と偽装結婚し、レバノン・ベイルートへ向かったとされる。これは、家庭を作るための結婚ではなかった。
目的は、出国のためである。
当時、重信房子はすでに公安に把握されていた活動家だった。そのままの名義で海外へ出ることは難しかったと考えられる。奥平剛士と戸籍上結婚し、姓を変えることで、出国の道を開こうとした。
つまり、この結婚は愛情の制度ではなく、革命へ向かうための通行証だった。
普通なら、結婚は人生を安定させる制度である。家庭を作り、生活を作り、名前を共有するためのものだ。
しかし重信房子にとっての結婚は、家庭へ入るためではなく、家庭からも国家からも離れていくための手段だった。
25歳で日本を出る
1971年、重信房子は日本を出国し、レバノンへ渡った。
このとき彼女は25歳である。
25歳で日本を出て、中東に向かう。そこから重信房子の人生は、日本国内の学生運動ではなく、パレスチナ解放闘争と結びついていく。
当時の新左翼運動は、国内で行き詰まりつつあった。学生運動の熱は退潮し、国内革命の現実性も薄れていた。そうした中で、重信房子たちは海外に革命の根拠地を求めた。
彼女にとってパレスチナは、単なる外国ではなかった。
そこは、世界革命の現場であり、日本で行き詰まった思想が、まだ燃え続けることのできる場所だった。
重信房子は、日本の中で革命を語る若者から、遠い中東に生きる活動家へと変わっていった。
だが、その選択は多くの人を傷つける暴力と結びついていく。
重信房子が関わった日本赤軍の事件については、別記事で詳しく整理している。
関連記事:日本赤軍とは何だったのか
パレスチナで母になる
重信房子の人生を考えるうえで、娘・重信メイの存在は避けられない。
重信メイは、1973年、レバノン・ベイルートで生まれた。母は重信房子。父はパレスチナ人男性である。
つまり重信房子は、革命家であると同時に、母にもなった。
しかし、その母娘関係は、普通の親子とはまったく違っていた。重信房子は国際手配される立場となり、娘は母の名前を隠しながら生きることになる。
重信メイは、無国籍のままアラブ社会で育った。母は日本人だが、当時の国籍制度や父の立場、出生地、母の逃亡生活が重なり、彼女は簡単にどこかの国家へ所属することができなかった。
重信房子は、国家を超える革命を語った。しかし、その娘は本当に国家の外側に置かれた。
思想として「国家を超える」と言うことと、現実に国籍を持たずに生きることは違う。前者は理念であり、後者は生活である。学校、移動、身分証明、将来、安心。国籍の不在は、日々の不安として子どもの人生にのしかかる。
重信房子の思想は、娘の人生にまで及んだ。
55歳で日本に戻り、逮捕される
重信房子は、長く中東にいた人物として知られていた。
しかし2000年11月、彼女は大阪府内で逮捕される。日本国内に潜伏していたのである。このとき重信房子は55歳だった。
25歳で日本を出て、55歳で日本に戻っていたことになる。
この30年という時間は長い。若き革命家として日本を出た女性が、55歳になって大阪に潜伏していた。そこには、単なる逃亡生活の終わりではないものがある。
重信房子は、ただ静かに逃げ切ろうとしていたのではないように見える。警察当局は、彼女の国内潜伏を日本赤軍の拠点を国内に移すための準備と見ていた。一方で重信本人は、今後は日本で本名で活動する条件を作りたかったという趣旨を語っている。
もちろん、指名手配中の人間が、そのまま本名で公然と活動できるはずはない。
だからこの言葉は、逃亡を続けながら表に出るという意味ではなく、逮捕や裁判も含めて、日本社会の前に再び自分を置くという意味だったのかもしれない。
本人にとっては「帰還」だった。
国家にとっては「潜伏」だった。
無国籍の娘が示すもの
重信メイは、無国籍でありながら教育を受け、ベイルート・アメリカン大学を卒業した。
この事実は、単純に「無国籍でも大学に行けた」という話ではない。
むしろ、国家に属さないまま、知性だけを頼りに生き抜いたということである。
重信メイは、母の思想の影の中で育ちながら、自分の言葉で中東を語る人物になった。
彼女の存在は、重信房子という人物を考えるうえで非常に重要である。
なぜなら、重信房子の人生が、本人一人のものではなかったことを示しているからだ。
革命家は、自分の人生を思想に捧げることができる。しかし、子どもは親の思想を選べない。
重信房子が選んだ道は、娘の人生をも巻き込んだ。活動家としての選択が、娘に重い影を落としたことも事実である。
娘の日本国籍取得との時系列
重信房子の逮捕と、娘・重信メイの日本国籍取得は、時期がかなり近い。
重信房子は2000年11月に逮捕された。
重信メイは2001年3月に日本国籍を取得し、同年4月に日本へ来たとされる。
この流れを見ると、重信房子の逮捕が、娘の国籍取得の大きな契機になったことは確かだろう。
ただし、重信房子が娘の国籍取得を目的として、意図的に逮捕されたとまで断定することはできない。そこまで言うには、はっきりした根拠が必要である。
むしろ重要なのは、別の点にある。
国家を超える革命に人生を賭けた重信房子が、最後には娘を日本国籍へ接続する入口になったということである。
国家を否定した母の存在が、娘に国家への道を開く。
これは、重信房子の人生における深い皮肉である。
人は、どれほど国家を批判しても、完全に国家の外だけで生きることは難しい。とくに子どもにとって、国籍は思想ではなく生活である。
重信房子の人生は、ここで革命の物語から、母娘の物語へと変わる。
重信房子の母親としての愛情は、重信房子・著『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』に記されている。
服役と出所
重信房子は逮捕後、裁判で争い、懲役20年の判決が確定した。
服役中の2001年には、日本赤軍の解散を宣言している。ただし、警察当局は、逃亡中のメンバーが残っていることなどから、日本赤軍の危険性が完全になくなったとは見ていない。
このあたりの組織論についても、詳しくは「日本赤軍とは」の記事に譲る。
重信房子個人の人生として見るなら、重要なのは、彼女が長い服役を経て、2022年5月に刑期満了で出所したことである。出所時の彼女は76歳だった。
25歳で日本を出た女性が、55歳で逮捕され、76歳で出所した。
重信房子の人生は、ほとんど丸ごと、戦後日本の政治的な夢と失敗に費やされたようにも見える。
出所後の重信房子と現在
出所後の重信房子は、武装闘争の指導者としてではなく、講演や著作、インタビューを通じて発信する人物になっている。
彼女はパレスチナ問題や反戦、市民運動について語っている。出所後の集会にも姿を見せ、過去の運動や獄中生活についても発言している。
ただし、現在の重信房子が特定の左翼党派や組織に正式に所属し、指導的に関与していると確認できる情報は限られている。
いまの重信房子は、「組織の人」というより、「記憶の人」に近い。
日本赤軍という過去を背負い、パレスチナ闘争の記憶を語り、老年になってもなお思想の場に立ち続けている人物である。
武器は置いた。
だが、言葉の戦線からは降りていない。
それが、出所後の重信房子の現在の姿だろう。
まとめ|重信房子とは何者だったのか
重信房子は、日本赤軍の最高幹部だった。
しかし、それだけでは彼女を説明したことにはならない。
彼女は、敗戦直後に生まれた戦後日本の娘だった。貧しい家庭で育ち、働きながら夜間大学に通い、教師を目指した若者だった。学生運動の熱の中で人生を変え、奥平剛士との偽装結婚によって日本を出た。
そして、遠いパレスチナで母になった。
その娘・重信メイは、無国籍のままアラブ社会で育ち、のちに日本国籍を取得することになる。
ここに、重信房子の人生の核心がある。
国家を超える革命を語った母。
国家を持たずに育った娘。
そして最後には、日本国籍へ接続される母娘。
重信房子の人生は、思想が人間をどこまで遠くへ連れていくのかを示している。だが同時に、思想だけでは人間を支えきれないことも示している。
人間には、名前がいる。
家族がいる。
国籍がいる。
帰る場所がいる。
重信房子は、国家を超えようとした。
しかし、その人生は最後に、国家と家族と名前の問題へ戻ってきた。
だから重信房子とは何者かと問うなら、こう言える。
彼女は、日本赤軍の元最高幹部である。
だがそれ以上に、戦後日本の理想主義が、遠いパレスチナまで行き、そこで母となり、やがて国家の前へ引き戻された一人の女性である。
重信房子の人生は、革命の物語である。
同時に、母と娘の物語でもある。
重信房子は、日本帰国後、旺盛な執筆活動をしている。日本赤軍、革命運動、パレスチナ問題、彼女が語ることはまだ山のようにある。どれか一冊でも読めば重信房子の実像に迫れることだろう。
また、娘の重信メイの著書『秘密 パレスチナから桜の国へ 母と私の28年』では、無国籍のまま生きた数奇な人生と、母としてのリアルな重信房子像を読むことが出来る。
日本赤軍についてはこちらの記事で詳しく整理している。
新左翼運動の全体像についてはこちらの記事で詳しく整理している。



