赤尾敏という名前には、どこか古い街宣車の音がまとわりついている。
日の丸、反共、数寄屋橋、街頭演説。
戦後右翼を語るとき、赤尾敏の名は必ずといっていいほど出てくる。
しかし、この人物を単に「右翼の大物」として片づけると、その輪郭はかえって見えなくなる。
赤尾敏は、金を持った黒幕ではなかった。政財界の奥に入り、裏側から政治を動かした人物でもなかった。
彼は最後まで、路上に立った。
声を張り上げ、選挙に出続け、落選し続け、それでも消えなかった。
その姿は、戦後日本の表通りに残された、ひとつの異物だった。
赤尾敏とは何者か
赤尾敏は、1899年に生まれ、1990年に亡くなった政治家・右翼活動家である。戦時中には衆議院議員を務め、戦後は大日本愛国党を結成した。
一般には、銀座数寄屋橋での街頭演説で知られる。
彼の人生で特徴的なのは、最初から右翼だったわけではないことだ。若いころの赤尾は社会主義運動に関わっていた。そこから、天皇を中心とした国家観へと転じ、やがて戦後の反共右翼を代表する人物になっていく。
つまり赤尾敏は、単純な保守の人間ではない。左から右へ移動した人間である。かつて自分が身を置いた思想を、のちに激しく批判する側へ回った。その転回が、彼の言葉に独特の熱としつこさを与えたのだろう。
赤尾の反共は、外から見た敵への怒りだけではなかった。かつて近くにいた思想への決別でもあった。
戦時中の赤尾敏
赤尾敏は、戦前・戦中の時代にも政治活動を行っていた。1942年の衆議院議員選挙で当選し、国会議員になっている。
ただし、ここでも赤尾は単純な体制派ではない。戦時中の空気の中で、彼は日米戦争に反対した人物としても知られる。右翼だから戦争を歓迎した、という雑な図式では捉えられない。
赤尾敏の思想には、国家や天皇への強い思いがあった。だが同時に、当時の政府や軍部の判断に全面的に従う人物でもなかった。彼の中には、愛国と反体制が奇妙に同居していた。
ここが、赤尾敏という人物をわかりにくくしている。
彼は国家を叫ぶ。だが、国家権力の飼い犬ではない。彼は天皇を語る。だが、体制の中で安定した地位を得ることには向かなかった。
戦後、その性格はさらに露骨になる。
大日本愛国党と数寄屋橋

戦後、赤尾敏は大日本愛国党を結成する。
大日本愛国党は、戦後右翼の象徴的な団体のひとつである。反共、愛国、親米。冷戦の中で、赤尾は共産主義を最大の敵として批判した。
彼の活動の舞台は、国会よりも街頭だった。
とくに有名なのが、銀座数寄屋橋での辻説法である。赤尾は街頭に立ち、通行人に向かって叫び続けた。
選挙にも何度も出馬した。だが、戦後に再び国会議員になることはなかった。普通なら、落選を重ねれば政治家としては終わる。だが赤尾敏は違った。彼にとって選挙は、当選だけを目的にした制度ではなかった。自分の言葉を世間に投げつけるための舞台でもあった。
赤尾は、議席を失ったあと、街頭を議場に変えたのである。
金を持たなかった右翼
赤尾敏を語るうえで面白いのは、彼が戦後右翼の大物でありながら、金を持った人物ではなかったことだ。
右翼の世界には、金と人脈で動く人物がいた。児玉誉士夫や笹川良一のように、政財界と結びつき、資金力を背景に影響力を持った人物たちである。
赤尾敏も、知名度だけならその世界に接続できた可能性はあった。衆議院議員経験があり、大日本愛国党総裁であり、街頭での存在感もあった。反共という旗は、戦後日本では資金や人脈を呼び込む看板にもなり得た。
だが赤尾は、そこへ深く入り込まなかった。
晩年の赤尾は、「金が欲しい、金がなければ何もできない、自分には財産がない、ステッキ一本が財産だ」という趣旨の言葉を残している。これは、単なる生活苦の告白ではない。むしろ、赤尾敏の人生そのものを表している。
彼は、金を得られなかっただけではない。金を得る道に、自分を置かなかった。
児玉誉士夫が裏側の右翼なら、赤尾敏は路上の右翼だった。笹川良一が資金を持った反共なら、赤尾敏は声だけで立った反共だった。
この違いは大きい。
赤尾敏の質素さは、美談としてだけ見れば薄くなる。むしろそれは、彼の政治スタイルそのものだった。金を持てば、裏に入れる。裏に入れば、街頭の声ではなくなる。
赤尾はおそらく、最後まで路上に残ることを選んだ。
言葉と暴力の境界
しかし、赤尾敏を「声だけの人」として美化することもできない。
大日本愛国党の名前を世間に強く刻んだのは、赤尾の街頭演説だけではなかった。党員・元党員による政治テロの記憶もまた、その存在感を大きくした。
代表的なのが、1960年の浅沼稲次郎刺殺事件である。

実行犯の山口二矢は、大日本愛国党に入党していた人物だった。犯行時にはすでに離党していたとされるが、赤尾敏の思想や演説の影響下にいたことは避けて通れない。
赤尾が直接指示したと断定することはできない。むしろ、山口二矢は赤尾に言えば止められる、党に迷惑がかかると考えて離党したともされる。
だが、世間はそこまで細かく分けて記憶しない。
大日本愛国党という名前は、赤尾敏の街頭演説とともに、党員・元党員による政治テロの衝撃によっても広がった。さらに、1975年の佐藤栄作元首相の国民葬で三木武夫首相が殴打された事件でも、大日本愛国党の党員が関係している。
ここに、赤尾敏という人物の危うさがある。
彼は言葉の人だった。だが、その言葉を聞いた若者の中には、実際に刃物や拳へ向かった者がいた。赤尾が命令者ではなかったとしても、彼の言葉が時代の中で火種になったことは否定しにくい。
言葉は、言葉のままでは終わらないことがある。赤尾敏は、その境界に立っていた。
まとめ|赤尾敏は何を残したのか
赤尾敏は、戦後日本の中心にいた人物ではない。総理大臣でもなければ、政財界の黒幕でもない。戦後に国会議員へ返り咲いたわけでもない。
それでも彼の名前は残った。
なぜか。
それは、赤尾敏が戦後日本の中で、消えない怒鳴り声のような存在だったからである。
高度成長の東京で、人々が豊かさへ向かい、テレビと消費と企業社会の中へ入っていく。その片隅で、赤尾敏は数寄屋橋に立ち続けた。古びた言葉で、国を語り、共産主義を罵り、選挙に出て、落ちて、また叫んだ。
彼は時代遅れだった。
しかし、時代遅れだからこそ、消えなかった。
赤尾敏の晩年に残ったものは、金ではなかった。組織の巨大化でもなかった。財産でもなかった。残ったのは、ステッキ一本と、路上で響いた声である。
赤尾敏とは、金を持たなかった右翼であり、言葉に人生を賭けた男だった。だが同時に、その言葉の周辺で暴力が生まれた人物でもある。
彼を美化する必要はない。
しかし、軽く見ることもできない。
赤尾敏は、戦後日本の路上に立ち続けた、ひとつの声だ。
その声は荒く、古く、危うく、そして妙に人間臭かった。
赤尾敏をさらに知りたいなら、評伝としては『愛の右翼 赤尾敏』がある。
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91歳の生涯で3万回以上の辻説法を行った「伝説の右翼」として、赤尾敏の晩年の姿、数寄屋橋での街頭演説、そして彼が何を信じ、何に取り憑かれていたのかをたどる一冊である。


