ビートたけしとは何者か|なぜ日本一の人気者はカリスマになったのか

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ビートたけしとは何者か。

漫才師、司会者、俳優、作家、そして映画監督。肩書きを並べれば経歴は説明できる。しかし、それでは、なぜ一人の芸人が日本中を笑わせ、同時にその発言や生き方まで注目されるカリスマになったのかが見えてこない。

ビートたけしと北野武を一つの記事で語ると、かえって輪郭がぼやける。

本稿で追うのは、足立区に生まれた北野武が浅草でビートたけしとなり、テレビの頂点に立ち、1994年のバイク事故で生死の境をさまようまでである。

映画監督・北野武については、別の記事で扱う。

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ビートたけしの生い立ち|足立区から明治大学へ

ビートたけし、本名・北野武は、1947年1月18日、東京都足立区島根に生まれた。

父の菊次郎は塗装職人、母のさきは教育熱心な人物だった。父は酒を飲み、家計と子どもたちの教育を実質的に支えたのは母だった。たけしは後年、母が内職をしながら兄弟を学校へ行かせたこと、自分が大学を中退したことへの負い目を語っている。

1965年、明治大学工学部機械工学科へ進学した。意外に思われるかもしれないが、たけしは勉強のできない不良がそのまま芸人になった人物ではない。大学3年までに106単位を取得しており、決められた道を歩く能力は十分にあった。

それでも、学園紛争の時代に大学へ通う意味を見失い、やがて学校から離れた。

たけしの原点には、社会に入れなかった人間の挫折ではなく、社会に入ることはできたのに、自分からその道を外れたという感覚がある。

永山則夫と同じジャズ喫茶で働いていた

大学から離れたたけしは、新宿をさまよい、タクシー運転手や羽田空港の荷役など、さまざまな仕事を経験した。その一つが、新宿歌舞伎町にあったジャズ喫茶「ヴィレッジ・ヴァンガード」のボーイだった。

たけしは後年、連続ピストル射殺事件を起こした永山則夫と同じ店で働いていたと語っている。二人は別の時間帯を担当していたとされ、実際に言葉を交わしたかどうかは確認できない。

ここで二人を同じ種類の人間として結びつけるべきではない。永山は事件へ向かい、たけしは浅草へ向かった。ただ、戦後の貧困や家族からこぼれ落ちた若者が流れ込んだ1960年代末の新宿で、二人が同じ店の昼と夜にいたという事実は重い。

同じ場所に立ちながら、一人は四人を殺害し、もう一人はやがて日本中を笑わせることになる。人生が分かれる前の、わずかな交差である。

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中上健次とは羽田空港の荷役現場でつながる

たけしと中上健次を結ぶ場所は、新宿だけではない。二人はともに、羽田空港で航空貨物を積み降ろす荷役の仕事をしていた。

正確には、たけしは日航系のAGS、中上は全日空系のIAUに所属しており、雇用先は別だった。ただし、二人が立っていた仕事場はいずれも羽田空港の荷役現場である。勤務時期が重なっていたかははっきりせず、当時二人が顔を合わせたと確認できる資料もない。

それでも、これは単に「羽田で働いたことがある」という程度の共通点ではない。夜の空港で重い貨物を運び、ときには海外から送られてきた動物まで扱う。同じ種類の重労働を、ほぼ同世代の二人が同じ現場で経験していたのである。

中上は羽田での仕事を終えた明け方、新宿のジャズ喫茶「ヴィレッジ・ヴァンガード」に出入りしていたとされる。たけしもまた同じ店でボーイをしていた。羽田から新宿へ流れ、中上は文学へ、たけしは笑いへ向かった。まだ何者でもなかった二人は、同じ場所を通りながら、おそらく互いを知らなかった。

浅草フランス座|深見千三郎が芸人を作った

1972年の夏、25歳のたけしは浅草フランス座の門を叩いた。最初の仕事はエレベーターボーイだった。

そこで出会ったのが、浅草の芸人たちから一目置かれていた深見千三郎である。深見はコントだけでなく、芝居、歌、楽器、タップダンスまでこなす舞台芸人だった。テレビへ進まず、衰退しつつあった浅草の舞台に残ったため、全国的な知名度は高くなかったが、その芸は本物だった。

たけしは仕事の合間に深見の舞台を見て、タップを覚え、急に代役を命じられても舞台へ立った。深見から叩き込まれたのは、奇抜な格好で客に笑われるのではなく、自分の芸で客を笑わせるという姿勢である。

後のたけしは、テレビでどれほど無秩序に暴れているように見えても、間、言葉、身体の動きを外さなかった。その土台は浅草で作られた。ビートたけしはテレビが偶然生んだスターではない。消えかけていた浅草喜劇の技術を、テレビの速度へ持ち込んだ芸人だった。

たけしより先に、同じ浅草フランス座からテレビの世界へ進んだのが萩本欽一である。芸風も番組の作り方も違うが、舞台で身につけた笑いをテレビへ移し替えた点で二人はつながっている。萩本がテレビをどのように作ろうとしたのかは、映画『We Love Television?』に記録されている。

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この時代をたけし自身の側から読むなら、自伝的小説『浅草キッド』が入口になる。深見千三郎との師弟関係だけでなく、売れる前のたけしが何を見ていたのかが分かる一冊である。

ツービート結成|毒ガス漫才は何を壊したのか

フランス座で出会った兼子二郎、後のビートきよしに誘われ、たけしは漫才の世界へ進んだ。二人は改名を重ねた末に「ツービート」となり、キャバレーや小さな演芸場を回った。

すぐに売れたわけではない。たけしが勝手に暴走し、きよしが「よしなさい」と止める形を固めるまでには、長い下積みがあった。

完成したのは、たけしが早口で毒を吐き続ける「毒ガス漫才」である。老人、権威、規則、善意、そして目の前の客まで攻撃した。現在の基準では、そのまま放送できない差別的なネタも少なくない。そこを無害な社会風刺として美化するべきではない。

それでも当時の観客が衝撃を受けたのは、テレビの中で守られていた建前を、たけしが次々と破壊したからである。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉は、集団になれば規則も責任も曖昧になる日本社会を、一息で笑いに変えた。

1980年、フジテレビの『THE MANZAI』をきっかけに漫才ブームが起こる。ツービートの速さと毒はテレビと相性がよく、長い下積みをしてきた二人は一気に全国区となった。

漫才ブームの中心には、ツービートとは異なる方法で観客を圧倒した横山やすし・西川きよしもいた。たけしが言葉の速さと毒で時代を切ったとすれば、横山やすしは、舞台上の緊張と爆発力そのものを漫才に持ち込んだ芸人である。
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1981年、漫才師からテレビの中心へ

漫才ブームが終われば、多くの漫才師は番組から消えていく。だが、たけしは残った。人気の中心がツービートからビートたけし個人へ移ったからである。

1981年には『オレたちひょうきん族』と『ビートたけしのオールナイトニッポン』が始まった。漫才の舞台を離れても、たけしはアドリブと瞬発力だけで番組の空気を変えることができた。

1983年には『スーパーJOCKEY』が始まり、周囲には若い弟子たちが集まって「たけし軍団」と呼ばれるようになった。彼は一人の出演者ではなく、自分を中心とする小さな世界までテレビの中へ持ち込んだ。

同年2月、師匠の深見千三郎がアパートの火災で亡くなった。一時は離れていた師弟だったが、売れた後のたけしは再び深見を訪ねるようになっていた。浅草で自分を芸人にした存在を失ったとき、弟子はすでに全国の人気者になっていた。

オールナイトニッポン|笑いではなく考え方を聴かれた

たけしを人気者からカリスマへ変えたのは、テレビだけではない。1981年から1990年まで続いた『ビートたけしのオールナイトニッポン』の存在が大きい。

高田文夫を相手に、たけしは芸能界の裏側、金、女、家族、政治、死、映画について話した。整った主張を述べるのではない。深刻な話を下品な冗談で崩し、立派な言葉の裏にある欲望を暴き、自分だけ安全な場所へ逃げることもしなかった。

リスナーが待っていたのは、単なる新しいギャグではない。今週起きた出来事を、たけしがどう見るかだった。彼は体系的な思想家ではない。しかし、世間の常識を一度ひっくり返して考える方法を持っていた。その方法に若者が熱狂した。

番組の熱を後からたどるなら、高田文夫の『TOKYO芸能帖 1981年のビートたけし』や『ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』がある。

なぜビートたけしは日本一の人気者になったのか

1985年には『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』、1986年には『風雲!たけし城』が始まった。いずれも既存の番組形式に収まらず、素人や子どもを巻き込み、街や巨大なセットそのものを遊び場に変える番組だった。

子どもは『たけし城』を見て、家族は『元気が出るテレビ』を見た。若者は深夜の『オールナイトニッポン』を聴いた。世代によって入口は違っても、その中心には同じたけしがいた。

視聴率や番組数だけで日本一を決めることはできない。それでも1980年代半ば、もっとも面白く、もっとも危なく、次に何を言うのかを待たれていた芸人は、ビートたけしだった。

テレビが国民共通の話題を作っていた時代である。ゴールデンタイムから深夜までを一人で横断し、どの番組でも世間を信用しきらず、偉い者を疑い、自分自身まで笑いものにした。人気の理由は露出の多さだけではない。たけしを見ることは、その番組を見ること以上に、たけしの世界の見方に触れることだった。

フライデー襲撃事件|カリスマが越えた一線

人気の絶頂にあった1986年12月9日、たけしは弟子たちと講談社の『フライデー』編集部へ押しかけ、編集部員らと乱闘になった。たけしと軍団の計12人は逮捕される。

発端は、たけしと親しかった女性に対する記者の強引な取材だった。当時の編集長も後年、行き過ぎた取材があったことを認めている。しかし、それによって編集部を襲撃した行為が正当化されるわけではない。

1987年6月、東京地裁はたけしに懲役6か月、執行猶予2年を言い渡した。約8か月にわたって芸能活動を自粛した後、たけしはテレビへ戻った。

復帰後も人気は失われなかった。1989年には後の『ビートたけしのTVタックル』につながる番組が始まり、1990年には『世界まる見え!テレビ特捜部』が始まった。子どもの遊びから政治や国際映像まで、たけしの守備範囲はさらに広がった。

さらに毒を吐く場所として『オールナイトニッポン』終了後、『北野ファンクラブ』が始まった。ゴールデン番組では出せない毒や本音を高田文夫と語る場所のテレビ版だ。『北野ファンクラブ』は、1991年2月13日深夜の90分特番後、同年4月12日深夜からレギュラー放送が始まり、1996年3月まで続いた。

この事件は、たけしのカリスマを美しく証明した出来事ではない。むしろ、その危うさが現実の暴力になった事件である。ただし、視聴者にとって、彼が安全に管理されたテレビ上の反抗者ではないことも明らかになった。

普通なら失うことを恐れて踏みとどまる場所で、たけしは自分の地位まで投げ出すように一線を越えた。尊敬だけでなく、いつか本当に消えてしまうのではないかという恐れが、彼の周囲に生まれた。

ビートたけしはなぜカリスマになったのか

たけしが人気になったのは、単純に漫才が速く、面白かったからである。しかし、人気だけなら漫才ブームとともに終わっていたはずだ。

カリスマになった理由は、一つの人物の中に相反するものが同居していたからだ。明治大学工学部へ進む知性と、浅草の下品な笑い。権威を嫌う反抗心と、自らがテレビの権威になっていく矛盾。冷酷に見える毒舌と、師匠や家族、弟子に向ける情の深さ。成功への執念と、築いたものを自分で壊しかねない破滅性である。

たけしは、弱者の味方を名乗ることも、正義の代弁者になることもなかった。誰かを斬れば、次には自分も斬った。そのため、発言に賛成できなくても、きれいごとだけを語る人物には見えなかった。

人気者は、何をするか分かっているから安心して見られる。カリスマは、次に何をするか分からないから目を離せない。ビートたけしは、その両方を持っていた。

1994年のバイク事故|無敵の男が壊れた夜

1990年代に入っても、たけしはテレビの中心にいた。フライデー襲撃事件からも復帰し、芸人としての地位は揺らいでいなかった。一方では北野武名義で映画を撮り始め、もう一つの顔も現れ始めていた。

1994年8月2日午前1時40分ごろ、たけしは酒気を帯びた状態で原付バイクを運転し、東京都新宿区の安鎮坂付近でガードレールに衝突した。右側頭部の頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、顔面の骨折などを負い、生死の境をさまよった。

後に本人は、当時はうつ状態だったと振り返り、自殺未遂だったのではないかという問いを完全には打ち消していない。ただし、事故の意図を外部から断定することはできない。確認できるのは、酒を飲んでバイクに乗り、ほとんど死んでもおかしくない事故を起こしたという事実である。

約2か月後、たけしは顔面まひの残る姿で退院会見に現れた。以前とは違う顔を隠さず、その身体さえ自分の笑いへ変えようとした。

1994年8月2日は、映画監督・北野武が誕生した日ではない。だが、ビートたけしと北野武の人生を分けて読むなら、これほど明確な境界線はない。

北野武監督作品は、Amazonストアの専用ページにもまとめている。

北野武監督作品|映画一覧

無敵に見えたビートたけしが壊れ、それでも壊れた自分まで笑いに変えて戻ってきた。その先で、同じ男の中にいた北野武の輪郭が、さらに濃くなっていく。


ビートたけしと同じ漫才ブームの頂点に立ちながら、危うさを抱えたまま転落していった芸人が横山やすしである。たけしがバイク事故から戻り、やがて北野武として別の顔を確立したのに対し、横山やすしは破滅の流れを止められなかった。同じ時代にテレビを席巻した二人の違いからは、才能だけでは語れない芸人の生き方が見えてくる。

ビートたけしより先に、同じ浅草フランス座からテレビの頂点へ上り詰めた芸人がいる。萩本欽一である。

萩本が、家族そろって楽しめるテレビを作った男だとすれば、たけしは、そこへ毒と逸脱を持ち込み、完成されていたテレビの型を壊した男だった。笑いの方法は正反対であり、若いたけしは萩本の笑いを厳しく批判した。しかし後年には、バラエティの道を切り開き、芸人がゴールデン番組の司会を務められる地位を作ったのは萩本だと、その功績への敬意を語っている。

その萩本欽一が、もう一度テレビを作ろうともがく姿を記録したのが、映画『We Love Television?』である。テレビを作った男と、テレビの型を壊した男。同じ浅草から出た二人を並べると、戦後のテレビがたどった時間まで見えてくる。

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