1999年9月29日、山口県下関市のJR下関駅で、突然、乗用車が歩行者をはねながら駅構内へ突入した。
運転していた男は車を降りると、今度は包丁を手に駅のホームへ向かい、そこにいた人々を次々と襲った。
5人が死亡し、10人が負傷。
「下関通り魔殺人事件」と呼ばれる無差別殺傷事件である。
犯人として現場で逮捕されたのは、当時35歳の上部康明(うわべ・やすあき)だった。
しかし、上部のそれまでの経歴を見ると、無差別殺人犯という言葉から想像される人物像とは少し異なる。
両親はともに教員。大学は九州大学工学部建築学科を卒業、一級建築士の資格を取得。自ら建築設計事務所を開業し、結婚もしていた。
社会から最初から離れていた人物ではない。
むしろ、学歴を得て、専門資格を取得し、仕事を持ち、家庭を築こうとしていた人物だった。
では、上部康明の人生はどこから変わっていったのだろうか。
上部康明は1964年に生まれた
上部康明は1964年3月6日、山口県下関市に生まれた。
父親と母親はいずれも教員で、一男一女の第1子だった。
高校時代には医師になることを考えていた。
一審判決によれば、当初は医学部進学を目指していたものの、共通一次試験の結果から医学部受験を断念。高校卒業時に大学を受験したが不合格となり、北九州市内の予備校で浪人生活を送った。
翌年の共通一次試験では医学部合格も考えられる得点を取ったが、父親から確実に合格できる大学・学部を受験するよう勧められ、工学部建築学科へ進んだ。
判決文では大学名が匿名化されているが、複数の事件資料では、この大学は九州大学、学部は工学部建築学科だったとされている。
1983年に入学し、1987年3月に卒業した。
少なくとも学歴だけを見れば、上部は社会から脱落していた青年ではない。
九州大学の建築学科を卒業し、やがて一級建築士になるだけの能力を持っていた人物である。
だが、大学生活のころから別の問題を抱えるようになっていた。
大学時代から人間関係に悩む
大学進学後、上部は福岡市内で一人暮らしを始めた。
しかし友人はあまりできず、次第に人と視線が合っただけでも「自分を嫌っているのではないか」と考えるようになった。
本人は自分を対人恐怖症だと考えるようになり、卒業が近づいても就職活動をほとんどしなかった。
1987年に大学を卒業すると実家へ戻ったが、すぐには就職しなかった。
その後、民間療法を試し、1988年には東京の医療機関へ入院。退院後は福岡市に戻り、精神科へ通院しながら複数の会社で働いた。
しかし、人間関係に悩み、仕事は長続きしなかった。
転機となったのは1989年である。
福岡市内の小さな建築設計事務所に就職した。
所長と上部の2人だけの職場で、営業は所長が担当していた。そのため上部自身が外部との交渉をする必要が少なかった。
この環境は上部に合っていた。
仕事を続けるうちに精神状態も落ち着き、1991年には通院しなくても日常生活を送れる程度になっていた。
一級建築士に合格し、独立する
1991年12月、上部は結婚相談所を通じて後に妻となる女性と知り合った。
翌1992年には女性との交際を続けながら、それまで勤務していた建築設計事務所を退職。一級建築士の資格取得を目指して勉強し、試験に合格した。
同年12月には、福岡市内の建築構造設計事務所に就職した。
このとき上部は久留米市に住んでおり、福岡市まで通勤していた。しかし、新しい職場は所員5人と以前より人間関係が複雑で、長時間の通勤も重なったことから、再び対人恐怖や視線への不安が強くなっていった。
1993年2月には精神科への通院を再開する。
その後、生活環境を変えるため、父親から援助を受けるなどして久留米市から福岡市へ転居し、福岡市内で自ら建築設計事務所を開業した。
仕事も当初は順調だった。
同年9月にはニュージーランドで結婚式を挙げ、10月から妻との新婚生活を始めている。
九州大学卒。
一級建築士。
設計事務所を独立開業。
そして結婚。
後に5人を殺害することになる人物の20代後半から30歳前後の経歴だけを見ると、その後の事件を予想することは難しい。
設計事務所の仕事が減っていく
生活が大きく変わったのは1995年だった。
仕事を紹介してもらっていた建築設計事務所の所長とトラブルになり、仕事を回してもらえなくなった。
収入は半減した。
自ら営業して仕事を獲得することも上部には難しく、仕事はさらに減少していった。
1997年ごろには、自分の設計事務所は事実上の廃業状態となっていた。
生活は妻の収入や実家からの仕送りによって支えられるようになる。
一級建築士の資格を取り、独立までした自分が仕事を失っていく。
判決では、上部がそんな自分を情けないと考える一方、周囲の人々から軽蔑されていると思い込み、苛立ちを強めていったと認定されている。
上部夫妻は、ニュージーランドへの移住も考えるようになった。
人間関係そのものから離れようとしたのである。
しかし英語の問題などもあり、計画は進まなかった。
1998年2月、上部は妻を福岡に残し、単身で山口県の実家へ戻った。
妻とは離婚したわけではなく、妻がニュージーランドで1年間暮らした後に帰国し、上部の実家で再び一緒に生活するという話で折り合っていた。
同年5月、妻は単身でニュージーランドへ渡った。
夫婦は婚姻関係を保ったまま、別々に暮らすようになった。
軽貨物運送業で再出発する
実家に戻った上部は農作業を手伝った後、新しい仕事を探した。
そこで見つけたのが軽貨物運送業だった。
営業や複雑な交渉をする必要が少なく、一人で仕事をする時間が長い。
対人関係に悩んできた上部は、自分に向いている仕事だと考えた。
約160万円のローンで軽貨物車を購入し、1999年2月から自ら屋号を掲げて軽貨物運送業を始めた。
そして、この仕事は意外にも順調だった。
判決では、上部自身もこの仕事を気に入り、対人関係に悩まされることも少なかったと認定されている。
設計事務所を失った上部は、少なくとも仕事という面では再び生活を立て直し始めていたのである。
ところが1999年6月、帰国した妻から離婚を求められた。
上部は離婚を望んでいなかったが、最終的には承諾した。
両親が離婚に反対したため離婚届は提出されなかったものの、妻は同年7月にアメリカへ渡り、夫婦は事実上の離婚状態となった。
それでも上部は妻との関係を完全には諦めていなかった。妻がその時点で滞在していたのはアメリカだったが、上部は以前から夫婦で考えていたニュージーランドへの移住をなお将来の選択肢として考えていた。
軽貨物運送業を続けながら資金を貯め、ニュージーランドへ移住することを考え、9月には英会話の勉強も始めていた。
まだ、完全に将来を諦めていたわけではなかった。
台風18号で仕事の車を失う
その状況を大きく変えたのが、1999年9月24日に下関を通過した台風18号だった。
上部は仕事のため軽貨物車を運転していたが、高潮によって車が海水に浸かり、動かなくなった。
9月27日、修理工場から修理不能だと知らされた。
車両保険には加入しておらず、購入時のローンも約130万円残っていた。
新たな車を買えば、ニュージーランド移住のための資金を貯めることも難しくなる。
上部は両親にローンの肩代わりや金銭的な援助を求めたが、父親はこれを断り、実家の車を使って運送業を続けてローンを返すよう求めた。
ここで上部の考え方は大きく変わる。
自分がここまで追い詰められた原因を、上部は次第に両親や社会に求めるようになった。
しかし、その怒りは両親本人へ直接向かったわけではない。
上部が選んだのは、自分とは何の関係もない人々を殺すことだった。
両親や社会に衝撃を与えるために、無関係な第三者を犠牲にする。
そこには、恨みの対象を直接攻撃する犯罪とは異なるねじれがある。上部にとって被害者は憎しみの対象ではなく、自分の絶望や怒りを社会へ見せつけるために巻き込まれた存在だった。
判決は、上部が自殺を考えると同時に、自分だけが死ぬのではなく、大量殺人を起こすことで両親や社会に強い衝撃を与えようとしたと認定している。
怒りの向かう先と、実際に殺される人間が切り離されていた。
この点に、下関通り魔殺人事件の理不尽さがある。
下関駅で大量殺人を計画する
事件は、長い時間をかけて練り上げられた犯行ではなかった。
9月28日には包丁を購入し、JR下関駅周辺を下見した。
仕事用の車が修理不能だと知らされたのは、その前日の9月27日である。
つまり、生活の再建が難しくなったと感じてから、無差別大量殺人を具体的に計画するまで、ほとんど時間を置いていない。
もちろん、上部の不満や両親への怒り、妻との関係などはそれ以前から積み重なっていた。しかし、それまで将来のために英会話を学び、軽貨物運送業を続けていた人物が、車を失った翌日には包丁を買い、犯行現場を下見している。
この急激な転換も、上部康明という人物を考えるうえで無視できない。
上部は、当初、人出が多い1999年10月3日の日曜日を犯行日に決めていた。
駅の周辺や構内を確認し、自動車を使った後には包丁で人を襲うという計画まで立てていた。
その日の夜、自室のカレンダーの10月3日の欄には、人生から退場するという意味を込めた「スクランブルアウト」という言葉を書き込んでいる。
翌29日。
上部は父親に、壊れた軽貨物車の廃車手続きなどを代わりにしてほしいと頼んだ。
しかし、父親はこれを断った。
上部は怒りを爆発させ、10月3日まで待たず、その日のうちに事件を起こすことを決めた。
池袋通り魔事件を意識していた
下関事件を考えるうえで見逃せない事件がある。
下関事件のわずか3週間前、1999年9月8日に東京で発生した池袋通り魔殺人事件である。
池袋では造田博が繁華街で通行人を無差別に襲い、2人を殺害、6人に重軽傷を負わせた。
上部は後の取り調べで、この池袋事件を意識していたことを供述している。
公判資料によれば、上部は池袋事件を見て、刃物だけでは多数を殺害できないと考え、自動車を利用することを考えたという。
つまり、池袋事件と下関事件は単に発生時期が近かっただけではない。
先に起きた無差別殺傷事件が、後の犯人の犯行計画に影響を与えていたのである。
関連記事:池袋通り魔殺人事件|造田博の生い立ち・事件・死刑判決
1999年9月29日、下関駅へ
1999年9月29日午後、上部はレンタカーを借りて下関駅へ向かった。
犯行前には大量の睡眠薬を服用していた。
午後4時25分ごろ、上部は車で下関駅東口付近の歩道へ進入し、通行人を次々とはねた。
そのまま駅のガラス扉を突破して構内へ侵入。
車が使えなくなると、用意していた包丁を持って車を降り、改札を抜けてホームへ向かい、そこにいた人々を次々と襲った。
駅は帰宅途中の学生や買い物客などが利用する時間帯だった。
最終的に5人が死亡し、10人が負傷した。
被害者と上部との間に個人的な関係はなかった。
たまたま、その場所にいただけだった。
上部は駅構内で警察官らに取り押さえられ、逮捕された。
裁判で争われた上部康明の責任能力
上部の裁判では、犯行時に刑事責任能力があったのかが大きな争点となった。
上部には長期間の精神科通院歴があった。
さらに精神鑑定でも評価が分かれた。
一つの鑑定では妄想性障害などが指摘され、善悪を判断する能力や行動を制御する能力が著しく低下した心神耗弱状態だったとされた。
一方、別の鑑定では人格的な問題や精神状態への影響は認めながらも、責任能力を著しく失っていたとはいえないとされた。
裁判所が重視したのは、事件までの上部の行動だった。
包丁を準備していたこと。
事前に下関駅を下見していたこと。
人出の多い日時を考えていたこと。
犯行方法を具体的に計画していたこと。
そして事件当日の行動や記憶も保たれていたこと。
山口地裁下関支部は、上部が善悪を判断する能力や、その判断に従って行動する能力を失ってはいなかったと判断した。
山口地裁が死刑判決
2002年9月20日、山口地裁下関支部は上部康明に死刑を言い渡した。
判決は、上部が自らの将来に失望し、その原因を両親や社会に転嫁して、無関係の人々を大量に殺害しようとしたと認定した。
さらに事件について、事前に現場を下見するなど周到に準備され、明確な殺意によって実行された計画的犯行と評価した。
5人の命を奪い、10人を負傷させた結果も重大だった。
弁護側は控訴したが、2005年6月28日、広島高裁は一審判決を支持して控訴を棄却した。
さらに上告したものの、2008年7月11日、最高裁第二小法廷も上告を棄却。
死刑判決が確定した。
この裁判を含め、死刑判決が下された事件を実際に取材してきたジャーナリスト・青沼陽一郎は、著書『私が見た21の死刑判決』の中で下関通り魔事件も取り上げている。
上部康明が事件を起こすまでの経緯や裁判について、さらに詳しく知りたい人には参考になる一冊である。
同じ時代に生まれた宅間守
下関通り魔殺人事件が起きた1999年前後には、日本社会を震撼させる無差別殺傷事件が相次いでいる。
上部康明は1964年生まれである。
その1年前の1963年に生まれたのが、後に大阪教育大学附属池田小学校で児童らを襲う宅間守である。
附属池田小事件が起きたのは2001年6月。
下関事件からわずか2年後だった。
もちろん、上部康明と宅間守の生い立ちや事件の動機は同じではない。
むしろ、経歴だけを見れば対照的な部分もある。
上部は九州大学を卒業し、一級建築士の資格を取得して、自ら設計事務所まで開いている。一方の宅間守は、学歴に強いコンプレックスを抱いていたことが知られている。
ひとりは学歴を手に入れ、ひとりは学歴への劣等感を抱えた。
それでも最後に2人が向かったのは、自分とは何の関係もない人々を殺傷するという同じ地点だった。
ほぼ同じ時代を生きながら、そこへ至るまでの道筋はまるで違う。
その違いを見ることで、無差別殺傷事件を「社会から脱落した人間が起こす犯罪」といった一つの型だけでは説明できないことも見えてくる。
関連記事:宅間守とは何者だったのか|生い立ちから附属池田小事件、死刑執行まで
上部康明の現在|2012年に死刑執行
死刑確定から約4年後の2012年3月29日、上部康明の死刑が広島拘置所で執行された。
48歳だった。
同じ日には東京拘置所と福岡拘置所でもそれぞれ死刑が執行され、全国で3人の死刑確定者に刑が執行されている。
したがって、上部康明は現在、生存していない。
1999年の事件発生から約12年半後のことである。
まとめ|九大卒・一級建築士だった上部康明
上部康明の人生を事件から逆にたどると、一つの特徴が浮かび上がる。
彼は最初から社会との接点を持たなかった人物ではなかった。
大学に進学した。
一級建築士になった。
設計事務所を開いた。
結婚した。
そして設計の仕事を失った後にも、軽貨物運送業という別の仕事を見つけている。
事件直前には、その仕事も軌道に乗り始めていた。
それでも、妻との関係、仕事、将来への希望、両親との関係が崩れていくなかで、自らの不遇の原因を周囲や社会へ向けるようになった。
精神科への通院歴があることだけで、事件を説明できるものでもない。
九州大学を卒業し、一級建築士として働き、結婚生活も経験した35歳の男。
その経歴の終着点が、1999年9月29日の下関駅だった。
5人の命を奪った事件から約13年。
2012年3月29日、上部康明の人生もまた、広島拘置所で終わった。
下関通り魔事件についてさらに知りたい人には、ジャーナリスト・青沼陽一郎の『私が見た21の死刑判決』がある。
青沼は実際に死刑判決が言い渡された裁判を取材しており、本書では上部康明が下関駅で事件を起こすまでの経緯についても取り上げている。
判決文だけでは見えにくい、事件と犯人を取材者の視点から追うことができる一冊である。
下関通り魔殺人事件のわずか3週間前には、東京で池袋通り魔殺人事件が起きている。
上部はこの事件を意識していたとされ、下関事件を考えるうえでも無関係ではない。
そして、その約2年後に起きたのが附属池田小事件である。
上部康明と宅間守は、経歴こそ対照的である。
上部は九州大学を卒業し、一級建築士の資格を持っていた。一方の宅間は、学歴への強い劣等感を抱えていた。
ただ、二人の人生には父親の存在が繰り返し現れる。
歩んだ道は違っても、最後には自分とは無関係な人々へ暴力を向けた。



