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横山やすしとは何者だったのか|天才漫才師と呼ばれながら破滅へ向かった男

横山やすしとは何者だったのか 動画深層
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横山やすしという芸人を、どのように説明すればいいのだろうか。

西川きよしとの「やすし・きよし」で一時代を築いた漫才師。

「怒るでしかし」という強烈なキャラクター。

酒とトラブルを繰り返した破天荒な芸人。

どれも間違いではない。

しかし、横山やすしという人物の面白さは、それだけでは説明できない。

漫才師として頂点に立つだけの才能を持ちながら、自分自身の激しさを制御できず、その才能さえも自ら壊していった人物だったからである。

芸人として成功すればするほど、人生は安定していく。

普通ならそう考える。

だが、横山やすしの人生は逆だった。

漫才師として高く評価され、人気者となり、テレビスターになっても、彼は安定することができなかった。

横山やすしとは何者だったのか。

その人生をたどると、昭和という時代が生んだ「天才芸人」の光と影が見えてくる。

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横山やすしとは

横山やすしは、1944年3月18日に高知県で生まれ、大阪府堺市で育った漫才師である。

本名は木村雄二。

若くして漫才の世界に入り、1966年に西川きよしとコンビを結成した。

「横山やすし・西川きよし」は結成翌年の1967年に上方漫才大賞新人賞を受賞。その後も上方漫才大賞をはじめ数々の賞を受賞し、上方漫才を代表するコンビとなった。

横山やすしが1996年に51歳で亡くなるまで、西川きよしとの関係は約30年に及んだ。

ただし、その30年間は順風満帆だったわけではない。

むしろ横山やすしの人生は、成功とトラブルを何度も往復する人生だった。

14歳で漫才の世界に入った少年

横山やすしは14歳という若さで漫才師としてデビューしたとされる。

つまり、ほとんど少年時代から芸能の世界で生きていたことになる。

一般的な学校生活や会社員生活を経て芸人になった人物とは違う。

横山やすしにとって、漫才は後から選んだ職業というよりも、人生そのものだったのかもしれない。

しかし、若くして才能を発揮した一方で、コンビを組んでは解消することを繰り返していた。

そこに現れたのが西川きよしだった。

西川きよしとの出会いが横山やすしを変えた

1966年、横山やすしは西川きよしとコンビを結成する。

この組み合わせが、結果的に日本の漫才史に残るコンビを生んだ。

二人の漫才には明確な対比があった。

せっかちで攻撃的な横山やすし。

それを受け止める西川きよし。

やすしが暴走すればするほど、きよしが引き戻す。

この関係そのものが漫才になっていた。

横山やすしの話術には独特のスピードがあった。

言葉を次々と畳みかけ、相手の言葉に瞬間的に反応する。

台本を演じているというより、目の前で会話そのものが暴走していくような漫才である。

そして、その暴走を成立させるためには、西川きよしという相方が必要だった。

横山やすし一人では、ただの暴走になってしまう。

西川きよしがいることで、その暴走が「漫才」になる。

やすし・きよしというコンビの強さは、正反対の二人が組んだことにあったのだろう。

なぜ横山やすしは「天才」と呼ばれたのか

横山やすしを語るとき、「天才」という言葉が頻繁に使われる。

それは単に人気芸人だったからではない。

漫才における反応速度が異常に速かったからである。

相手の言葉を聞き、その意味を理解し、瞬間的に言葉を返す。

しかも、それを笑いに変える。

漫才は台本だけでは成立しない。

客の反応、相方の間、その日の空気。

それらを読みながら微妙に言葉を変えていく必要がある。

横山やすしは、この瞬間的な判断能力に優れていたのだろう。

さらに、彼自身の短気さやせっかちな性格までが芸風になっていた。

普通なら欠点とされる性格が、舞台では武器になったのである。

ここに横山やすしという芸人の特殊さがある。

「横山やすし」という芸名の人物を演じていたというよりも、本人そのものが芸になっていた。

だからこそ強烈だった。

そして、だからこそ危うかった。

舞台の上の横山やすしと私生活の境界

芸人には、舞台上の人格と普段の人格を切り替えられる人がいる。

しかし横山やすしの場合、その境界が非常に薄かったように見える。

怒る。

急ぐ。

興奮する。

人と衝突する。

そうした性格が漫才では爆発的なエネルギーになった。

ところが、舞台を降りても同じエネルギーが続けば、それはトラブルになる。

横山やすしの人生では、この二つが切り離せなかった。

芸人としての魅力を生み出していた性格が、そのまま私生活を破壊する原因にもなっていったのである。

度重なるトラブル

横山やすしは人気絶頂の一方で、何度も問題を起こしている。

1970年にはタクシー運転手に対する傷害事件を起こし、長期間の謹慎を経験した。その後復帰して再び人気を獲得したものの、晩年までさまざまなトラブルが続いた。

普通の芸能人であれば、一度の大きな不祥事でキャリアが終わることもある。

それでも横山やすしは何度も戻ってきた。

なぜ戻ることができたのか。

結局のところ、それだけ漫才師としての才能が大きかったからではないだろうか。

「問題はある。しかし面白い」

テレビ局も芸能界も、そして視聴者も、横山やすしという芸人を完全には切り離せなかった。

才能が彼を救った。

しかし同時に、その才能が「また戻れる」という状況を生み出してしまった可能性もある。

横山やすしは本当に破天荒だったのか

横山やすしは「破天荒な芸人」として語られることが多い。

確かに、その表現は間違っていない。

だが、「豪快な昭和の芸人」という言葉だけで片づけてしまうと、少し違うようにも思える。

彼の人生から感じるのは豪快さよりも、むしろ不安定さである。

常に何かに追われている。

じっとしていられない。

成功しても安心できない。

自分から問題を起こし、築いたものを壊してしまう。

横山やすしは自由に生きたというより、自分自身を制御することができなかった人物だったのではないだろうか。

それが舞台に上がれば天才的なスピード感になる。

しかし日常生活では破滅につながる。

同じエネルギーが、成功と失敗の両方を生み出していた。

西川きよしという「相方」が必要だった理由

横山やすしを考えるうえで、西川きよしの存在は欠かせない。

西川きよしは後年、やすしとの関係について約30年に及ぶ付き合いを振り返っている。二人は単に仕事だけをする漫才コンビではなく、長い時間をかけて特殊な関係を築いていた。

やすしが「動」なら、きよしは「静」。

やすしが壊すなら、きよしがつなぐ。

やすしが前に出るなら、きよしが受け止める。

この関係は漫才の中だけではなかったのかもしれない。

横山やすしという強烈な人物が芸能界で長く活動できた背景には、西川きよしという存在があった。

二人を別々に考えるより、「やすし・きよし」という一つの装置として考えた方がわかりやすい。

西川きよしがいたから、横山やすしの危険なエネルギーは笑いに変換された。

しかし、その装置を離れた瞬間、エネルギーは制御されなくなる。

横山やすしという人物の人生は、優れた相方を得ることが芸人にとってどれほど重要なのかを示している。

漫才師からテレビスターへ

やすし・きよしは漫才だけでなく、テレビの世界でも大きな存在となった。

1980年代の漫才ブームでは、多くの漫才師が全国的なスターになったが、横山やすし・西川きよしもその中心的存在の一組だった。吉本興業の社史でも、漫才ブームを代表するコンビとして名前が挙げられている。

テレビは横山やすしの個性と相性が良かった。

何を言うかわからない。

突然怒る。

予定調和を壊す。

現在のテレビでは扱いにくいタイプかもしれない。

しかし当時は、その危うさそのものが番組の魅力になった。

視聴者は「今日はやっさんが何をするのか」と見る。

芸人が番組に出演していたのではない。

横山やすしという人物そのものがコンテンツだったのである。

最後は自分の才能でも救えなかった

しかし、何度も横山やすしを救ってきた才能も、最後までは彼を守ってくれなかった。

1980年代後半、飲酒運転による事故などを経て、芸能活動の基盤を失っていく。

それまでなら復帰できた。

謝罪し、謹慎し、再び舞台に戻る。

しかし、いつまでも同じことを繰り返すことはできない。

時代も変わる。

テレビも変わる。

芸能界も変わる。

「芸人だから仕方がない」で許される範囲も狭くなっていく。

横山やすしは、昭和的な芸人の価値観とともに生きた人物だった。

そして平成という時代に入ったとき、その生き方そのものが成立しにくくなっていたのかもしれない。

51歳で亡くなった横山やすし

横山やすしは1996年1月21日に亡くなった。

51歳だった。

決して長い人生ではない。

しかし、その短い人生の中で、彼は日本の漫才史に強烈な痕跡を残した。

成功した。

問題を起こした。

復帰した。

また問題を起こした。

何度も同じ場所を回りながら、少しずつ破滅へ近づいていく。

横山やすしの人生を見ていると、「才能があれば人は幸せになれる」という単純な話ではないことがわかる。

むしろ才能が大きすぎるからこそ、自分自身を持て余してしまう人間もいる。

横山やすしとは何者だったのか

横山やすしとは、天才漫才師だった。

これは間違いないだろう。

しかし同時に、自分自身の激しさを最後まで制御できなかった人物でもあった。

舞台では、その激しさが笑いになった。

テレビでは、その危うさが人気になった。

だが私生活では、同じ性格が次々と問題を引き起こした。

横山やすしの人生には、芸と人生を分ける境界線がほとんど存在しない。

だからこそ面白かった。

そして、だからこそ壊れていった。

現在、横山やすしのような芸人がテレビの中心に現れることは難しいだろう。

しかし彼の漫才を見れば、なぜ今でも「天才」と呼ぶ人がいるのかはわかる。

言葉の速度。

反応の速さ。

相方との間。

そして、いつ何が起こるかわからない緊張感。

横山やすしは、完成された芸を見せる芸人ではなかった。

自分自身という危険な素材を、そのまま舞台に持ち込んだ芸人だった。

その人物そのものが漫才であり、その人物そのものがテレビだった。

横山やすしとは、昭和の芸能界だからこそ生まれることができた、最後の「生身の芸人」の一人だったのかもしれない。


横山やすしという人物を知るには、文章だけでなく、実際の漫才を見るのがもっとも早い。

西川きよしとの掛け合いには、言葉の速さ、間、突然の暴走、そしてそれを受け止める相方との関係まで、横山やすしという芸人の特徴がそのまま表れている。

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また、舞台やテレビからは見えない横山やすしの姿については、息子の木村一八が父について語った書籍も残されている。

芸人・横山やすしと、家族から見た横山やすし。

両方を知ることで、この人物の輪郭はもう少し立体的に見えてくるかもしれない。

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横山やすしと上岡龍太郎は、芸風だけを見れば大きく異なる。

やすしは感性と瞬発力で暴れ、上岡は論理と言葉で相手を追い込む。表現の方法は正反対に近いものがある。

しかし、二人には似ているところもがある。どちらも芸能界の常識の中におとなしく収まる人物ではなく、自分なりの理屈や感覚を貫き、ときに周囲からはみ出していく。

方法は違っても、「枠の外側に立っていた」という点では、どこか似た芸人だったのかもしれない。

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