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映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』感想|最後まで恋をしていた尼僧の生命力

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映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』を見た。

この映画の核心は、瀬戸内寂聴が最後まで恋をしていたことにあると思う。

それは肉体的な恋ではない。若い男女の恋でもない。だが、監督に向けて送られるメールや言葉の端々には、明らかに誰かを求める心がある。

見てほしい。
そばにいてほしい。
忘れないでほしい。

その姿は、悟り切った尼僧というより、最後まで片思いをしていた一人の女性に見える。

瀬戸内寂聴の説得力は、清らかさにあったのではない。むしろ、恋、執着、寂しさ、俗っぽさを最後まで抱えていたところにあったのではないか。

この記事では、映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』を、瀬戸内寂聴が最後まで恋をしていた映画として紹介する。

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映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』とは

『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』は、作家であり僧侶でもあった瀬戸内寂聴の晩年を追ったドキュメンタリー映画である。

監督は中村裕。中村監督は寂聴に17年間密着し、彼女の日常、創作、老い、病、そして死の直前までを記録した。映画には、90代後半の寂聴の姿を中心に、過去の映像や本人の言葉も交えながら、99年の人生を振り返る構成になっている。

映し出されるのは、単なる「ありがたい尼僧」ではない。

大正、昭和、平成、令和を生きた作家。恋愛、不倫、三角関係を小説に書き、世間から批判も受けた女性。51歳で出家しながらも、作家としての業、人を求める心、そして恋の気配を最後まで失わなかった人間である。

この映画は、瀬戸内寂聴を美しく飾る偉人伝ではない。
むしろ、晩年の寂聴の弱さ、寂しさ、可愛らしさ、そして少し面倒くさい人間味まで映している。

だからこそ、瀬戸内寂聴を知る入口としても見やすい。
彼女の人生をすべて深掘りするというより、晩年の表情から「この人は何を抱えて99年を生きたのか」を感じさせる作品である。

映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』(Amazon Prime)

最後まで恋をしていた瀬戸内寂聴

この映画で最も印象に残るのは、瀬戸内寂聴が最後まで「恋」をしていたように見えることだ。

それは、若い頃のような激しい恋愛ではない。肉体的な関係を求める恋でもない。だが、中村裕監督に向けられる言葉やメールには、明らかに相手を求める心がある。

少し重い。
少し湿っている。
少し面倒くさい。

今の言葉で言えば、どこかメンヘラっぽいと言ってもいいかもしれない。

だが、その重さこそが、瀬戸内寂聴という人間の生命力だったのではないかと思う。

老いても、誰かに見ていてほしい。
自分の言葉を受け取ってほしい。
自分を忘れないでほしい。

その感情は、出家した尼僧という肩書きからは少しはみ出している。

けれども、人間とは本来そういうものだろう。

どれほど年齢を重ねても、どれほど名声を得ても、どれほど仏の言葉を語っても、人は誰かに求められたい。誰かを求めてしまう。

この映画に映る寂聴は、悟り切った人ではない。

最後まで誰かに恋をしていた人である。

俗っぽさこそが説得力だった

瀬戸内寂聴は、一般には「ありがたい言葉を残した尼僧」として知られている。

だが、この映画を見ると、そのイメージだけでは足りないことがわかる。

寂聴の言葉に力があったのは、彼女が清らかな人だったからではない。むしろ、清らかではなかったからではないか。

若い頃には恋愛で世間を騒がせ、不倫や三角関係を小説に書いた。晩年になっても、女性であることを捨てていない。恋の気配も、寂しさも、相手に甘えたい気持ちも残っている。

だから、彼女の言葉は単なる道徳にならなかった。

「人はこうあるべきです」という上からの言葉ではない。

「人はどうしようもない。でも、それでも生きてしまう」という下からの言葉だった。

ここに瀬戸内寂聴の強さがある。

聖人だから人を救えたのではない。
俗を知りすぎていたから、人の俗っぽさを否定しなかった。

恋に破れる人、老いに怯える人、誰かに執着してしまう人、自分の弱さを持て余す人。

そういう人たちに、寂聴の言葉は届いたのだと思う。

井上光晴と『全身小説家』

瀬戸内寂聴の人生を語るうえで、作家・井上光晴という存在も避けて通れない。

一般には、井上光晴との関係、そしてその後の出家という流れで語られることも多い。もちろん、出家の理由を一つの恋愛だけに回収することはできない。だが、寂聴という人を「恋の人」として見るなら、井上光晴との関係は大きな影を落としている。

ここであわせて見ておきたいのが、原一男監督のドキュメンタリー映画『全身小説家』である。

『全身小説家』は、井上光晴という作家の虚構と現実に迫った作品であり、戦後文学の濃い人間関係や、作家という存在の危うさを映している。

瀬戸内寂聴も出演している。かつての不倫相手・井上の妻との関係も良好だ。この映画も、ただの尼僧としてではなく、恋と文学のなかを生きた作家・瀬戸内寂聴のプライベートがよくわかる作品だ。

原一男監督『全身小説家』(Amazon Prime)

出家しても恋は消えなかった

出家とは、普通に考えれば煩悩を捨てることだ。

だが、瀬戸内寂聴の場合、本当に煩悩を捨てたのだろうか。

この映画を見る限り、そうは思えない。

寂聴は、恋を捨てた人ではない。恋に傷つき、恋を書き、恋を語り、そして晩年にもなお恋のような感情を抱えていた人である。

だからこそ、彼女は強かった。

きれいに枯れた老人ではない。
悟り切った尼僧でもない。
最後まで誰かを求めてしまう、一人の生々しい人間だった。

その俗っぽさは、欠点ではない。

むしろ、瀬戸内寂聴の言葉に体温を与えていたものだった。

まとめ|恋と懺悔を抱えたまま、寂聴は書き続けた

映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』に映る寂聴は、悟り切った聖人ではない。

最後まで恋をしていた人であり、同時に、最初の夫と子供への懺悔を抱え続けた人でもある。

寂聴は、小説家になると言って家を出た。
夫と子供を置いて、自分の人生を選んだ。

だからこそ、絶対に小説家にならなければならなかった。

映画の中で語られるその言葉には、単なる野心ではない重さがある。書くことは、好きだから続けた仕事というだけではなかった。置いてきた家族への負い目と、それでも書く道を選んだ自分への誓いだったのではないか。

晩年になり、寂聴はようやく子どもと和解したことにも触れられる。それでも、彼女の中から懺悔が完全に消えたわけではなかったのだと思う。

この映画は、恋の映画であり、懺悔の映画でもある。

最後まで誰かを求め、最後まで過去を背負い、最後まで書くことでしか生きられなかった人の記録である。

瀬戸内寂聴を、ただの尼僧としてではなく、恋と悔いを抱えたまま生きた人間として見たいなら、この映画は見ておきたい作品である。

瀬戸内寂聴は、晩年になるほど「人生相談を受ける人」としてテレビやメディアに登場するようになった。

恋、家族、老い、孤独、死。

人が抱える悩みに対して、寂聴は仏教の言葉だけでなく、自分自身の失敗や後悔をにじませながら語っていた。

その意味では、同じようにテレビで多くの人の相談を受けていた細木数子とは、まったく違うタイプの「相談者」だったと言える。

細木数子が強い言葉で人を断じる存在だったとすれば、瀬戸内寂聴は、自分もまた間違えてきた人間として、相手の弱さに寄り添う存在だった。

テレビ時代の「人生相談」とは何だったのか。
その対比として、細木数子という存在を見てみると、寂聴の言葉の質もより見えやすくなる。

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