2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者支援施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害され、入所者や職員26人が負傷する事件が起きた。
事件を起こしたのは、同園の元職員だった植松聖である。
事件当時の植松は26歳だった。2020年3月に横浜地方裁判所から死刑判決を受け、本人が控訴を取り下げたことで死刑が確定している。
しかし、植松聖とはどのような人物だったのだろうか。
少なくとも、幼い頃から障害者を憎み、事件を起こす機会をうかがっていた人物ではない。
本記事では事件そのものを詳しく論じるのではなく、幼少期から学校生活、大学進学、就職、津久井やまゆり園での勤務、退職、事件直前までの人生をたどる。
植松聖のプロフィール
植松聖は1990年1月20日、神奈川県相模原市で生まれた。
父親は小学校の図工教師、母親は漫画家だった。
一人っ子であり、幼少期の発育に大きな遅れはなく、周囲からは素直で手のかからない子どもと見られていた。
地元の小中学校を卒業した後、東京都八王子市内の私立高校へ進み、その後、帝京大学文学部教育学科初等教育学専攻へ進学した。
大学では小学校教員になるための課程を履修し、教員免許を取得している。
大学卒業後は運送会社に就職したが、約8カ月で退職した。
その後、2012年に津久井やまゆり園で働き始めている。
植松聖の生い立ちと施設入職までの時系列
まず、出生から津久井やまゆり園で働き始めるまでの年表を整理する。
| 時期 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1990年1月20日 | 0歳 | 神奈川県相模原市で生まれる |
| 小学校時代 | 6~12歳 | 地元の小学校へ通う。明るく人なつっこい一方、目立ちたがる面もあった |
| 中学校時代 | 12~15歳 | バスケットボール部に所属。飲酒、喫煙、万引きなどの問題行動も始まった |
| 高校時代 | 15~18歳 | 東京都八王子市内の私立高校の調理科へ進学。バスケットボール部に所属する |
| 2008年 | 18歳 | 帝京大学文学部教育学科初等教育学専攻へ進学 |
| 大学時代 | 18~22歳 | 教職課程を履修し、小学校教員免許を取得。小学校で教育実習も経験する |
| 2012年 | 22歳 | 大学卒業後、運送会社へ就職。自動販売機へ飲料を補充する配送業務に就く |
| 2012年 | 22歳 | 約8カ月で運送会社を退職 |
| 2012年12月 | 22歳 | 知人の紹介をきっかけに津久井やまゆり園で働き始める |
次に、それぞれの時期について詳しく解説する。
教師の父を持つ家庭に生まれた
植松聖の父親は、小学校で図工を教える教師だった。母親は漫画家であり、植松は一人っ子として育った。出生時には新生児黄疸のため血液交換治療を受けたが、その後の発育や発達に目立った遅れはなかったとされている。
幼少期の植松は、素直で手がかからない子どもだったという。
小学校時代は勉強が特別にできる児童ではなかったものの、明るく人なつっこく、クラスのなかでは目立ちたがる面もあった。クラスにいた自閉症の児童とも、通常どおり接していたとされる。
ただし、小学生の頃に「障害者は不幸をつくる」という趣旨の作文を書いたという精神鑑定上の記録もある。
植松のなかにあった考えが、幼少期から一貫して成長したのか。
それとも、後年になって過去の言葉が新たな意味を持ったのか。
どちらにしても後年の思想と似た言葉が小学生時代に、すでに現れていた。
中学校時代に始まった問題行動
中学校ではバスケットボール部に所属していた。
友人関係がなく、学校内で孤立していたわけではない。
いわゆる不良と呼ばれるような仲間との交友が広がっていった。
精神鑑定で示された経歴によると、中学3年生頃から友人に誘われ、飲酒、喫煙、万引きなどをするようになったという。
思春期には親へ反抗し、物を壊したり、自宅の壁を殴って穴を開けたりしたほか、教師への反発から教室の窓ガラスを割ったこともあった。
高校では調理科へ進学
植松は中学校卒業後、東京都八王子市内にある私立高校の調理科へ進学した。
調理科を選んだ理由については、「面白そうだったから」と説明していたとされる。
高校でもバスケットボール部に入り、女性との交際やアルバイト、バイクなどを楽しんでいた。
一方で、高校2年生の頃には部員を殴り、約1カ月の停学処分を受けている。
植松の高校時代には、普通に友人と遊び、恋愛や部活動を楽しむ一面と、感情が高ぶると暴力に出る一面が同居していた。
明るく社交的だが、目立ちたがり、怒りを抑えられないことがある。
高校時代の植松については、そのような像が浮かび上がる。
父親と同じ小学校教師を目指して大学へ
高校卒業後の2008年、植松は帝京大学文学部教育学科初等教育学専攻へ進学した。※現在の教育学部初等教育学科にあたる課程である。
調理科の高校から教育学科へ進んだ背景には、小学校教師だった父親の存在があった。
しかし、勉強に熱心な学生ではなかったとされる。
飲み会を中心とするサークルに所属し、大学2年生頃から当時「脱法ハーブ」と呼ばれていた薬物を使うようになった。
大学3年生頃には刺青も入れ始めている。
一方で、学童保育のアルバイトや教育実習にも参加していた。
教師を目指す学生としての生活と、薬物や刺青、飲み会を中心とする生活が、同じ時期に並行していたことになる。
教員免許を取得したのに、なぜ教師にならなかったのか
植松は教員免許を取得し、教育実習も経験した。
それにもかかわらず、教員採用試験は受けていない。
教員免許の取得と、教員として働く覚悟は同じではない。
植松は父親と同じ職業を目指し、必要な資格までは取った。
しかし、採用試験という現実の入口を通らないまま、大学卒業を迎えた。
大学卒業後は配送会社へ就職
大学卒業後、植松は運送会社へ就職した。
仕事は、自動販売機へ飲料を補充する配送業務だったとされる。
精神鑑定をもとにした裁判報告では、植松は「楽そう」と考えて運送会社を選んだとされている。
だが、仕事は約8カ月で辞めている。
なぜ津久井やまゆり園で働くことになったのか
植松は、福祉職を志して津久井やまゆり園へ入ったわけではない。
きっかけは知人の紹介だった。
裁判で示された経歴によると、知人から津久井やまゆり園の仕事について「楽だよ」と聞いたことが入職につながったとされる。
教師になれず、配送会社も辞めた植松にとって、やまゆり園は地元で新たに見つけた就職先だった。
障害者を助けたいという使命感から入ったわけでも、最初から障害者を憎んで施設へ近づいたわけでもない。
知人に紹介され、仕事として選んだだけだった。
後に日本社会を揺るがす事件の舞台となった施設との接点は、当初はきわめて日常的な就職の縁から始まっている。
津久井やまゆり園に入ってから何が変わったのか
植松は2012年に津久井やまゆり園へ入り、約3年間にわたって利用者の生活支援に携わった。
時系列で変化を見ていく。
施設入職から事件までの時系列
| 時期 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 2012年12月 | 22歳 | 津久井やまゆり園で非常勤職員として働き始める |
| 2013年4月 | 23歳 | 常勤職員になる。入職当初は利用者を「かわいい」と話していたとされる |
| 23歳頃 | 23歳 | 大麻を使うようになったとされる |
| 2014年12月31日 | 24歳 | 入浴支援中に背中の刺青が同僚に見つかる。施設から勤務中は隠すよう指導される |
| 2015年頃 | 25歳 | 仕事が雑になり、職場で注意を受けることが増える。彫り師を目指す動きも見せる |
| 2015年末 | 25歳 | 職場で障害者の生命を否定する趣旨の発言をする |
| 2016年2月14日 | 26歳 | 衆議院議長公邸を訪れるが、休日のため手紙を渡せなかった |
| 2016年2月15日 | 26歳 | 再び議長公邸を訪れ、障害者の殺害計画を記した手紙を渡す |
| 2016年2月16~18日 | 26歳 | 警察から施設へ情報が伝えられ、施設側が植松の言動を調査する |
| 2016年2月19日 | 26歳 | 施設幹部との面談で考えを撤回せず、辞職を促されて退職願を提出する |
| 同日 | 26歳 | 警察に保護され、緊急措置入院となる |
| 2016年2月22日 | 26歳 | 2人の指定医の診察を経て、正式な措置入院となる |
| 2016年3月2日 | 26歳 | 措置入院が解除され、退院する |
| 2016年3~7月 | 26歳 | 退職手続きなどを進める一方、事件の準備を進める |
| 2016年7月26日 | 26歳 | 元勤務先の津久井やまゆり園で事件を起こす |
ここから、植松の言動は少しずつ変わっていく。
入職当初は利用者を「かわいい」と話していた
植松は最初から、施設の利用者を敵視していたわけではない。
入職当初は、利用者について「かわいい」と話していた。
非常勤職員として働き始めた後、2013年4月には常勤職員になっている。
施設側も、当初から危険な思想を持つ人物と認識していたわけではなかった。
植松は利用者の生活に関わり、食事、入浴、移動などを支援する仕事をしていた。
働く意味を見失い、給料のための仕事になる
入職当初には利用者を「かわいい」と話していた植松だが、やがて仕事に対する意識が変わっていく。
植松は働く意味を見失い、「給料のために働いている」と考えるようになった。
福祉の仕事を続けるなかで理想と現実の違いに直面した可能性はある。
意思疎通が難しい利用者もいる。
長期にわたる支援を必要とし、家族が頻繁には面会に来ない場合もある。
植松は、そうした施設の現実を見た。
だが、植松は支援の方法や施設のあり方を改善する方向へ向かわなかった。
次第に、支援を必要とする本人の人生ではなく、介護にかかる費用、家族の負担、職員の労力という側から利用者を見るようになった。
その先で植松は、支援を必要とする人を助けるのではなく、存在させない方がよいという結論へ進んでいく。
一人暮らし、大麻、夜遊び
施設で働き始めた頃、両親とは別居。
クラブへ通い、出会い系アプリで知り合った女性と交際するようになった。
23歳頃からは大麻を使用するようになった。
同じ頃、自宅に盗聴器を仕掛けられていると話すなど、被害妄想的な発言も現れた。
仕事も次第に雑になり、私生活では交通違反やけんかなどが増えていった。
さらに、陰謀論や予言を扱う「イルミナティカード」に強い関心を示すようになった。
植松は、世界には一般の人間が知らない仕組みがあり、自分だけがその真実に気づいているかのような感覚を深めていったとみられる。
刺青が職場に発覚
2014年12月31日、入浴支援をしていた植松の背中に広がる刺青を、同僚職員が発見した。
施設側は警察や弁護士に相談したが、刺青だけを理由に解雇することは難しいと判断した。
そこで植松に対し、勤務中は刺青を見せないことなどを指導した。
植松自身は、この段階では施設で働き続けたいと話していた。
2015年頃から目立ち始めた差別的発言
2015年頃になると、植松は職場で障害者の生命を否定する発言をするようになった。
特に2015年末には、利用者に対する乱暴な扱いを肯定するような発言や、「こういう人たちは必要ないのではないか」という趣旨の言葉を口にし、上司や同僚から注意されている。
植松は、自分が支援する立場にある利用者について、生きる資格があるかどうかを判定するようになっていた。
衆議院議長公邸へ殺害計画を届ける
2016年2月14日、植松は衆議院議長公邸を訪れた。
しかし、その日は休日だったため、目的を果たせなかった。
翌15日、植松は再び公邸を訪れ、大島理森衆議院議長宛ての手紙を渡した。
手紙には、津久井やまゆり園などを襲撃し、多数の障害者を殺害する具体的な計画が記されていた。
植松は国へ事件を予告しただけではない。
自分の計画を国家に認めてもらい、実行後には罪に問わないことや、金銭的な支援を受けることまで期待していた。
殺人を隠れて実行する犯罪としてではなく、政府から承認される国家的な事業として扱ってもらおうとしたのである。
事件の約5カ月前には、すでに思想が具体的な計画へ変わっていた。
辞職を促されて自主退職
衆議院議長公邸へ渡された手紙の内容は、警察から津久井やまゆり園へ伝えられた。
施設側は職員から植松の言動を聞き取り、障害者の生命を否定する発言を繰り返していたことを確認した。
2016年2月19日、園長や施設幹部が植松と面談した。
植松は、職場で語っていた内容が自分の本心であることを認め、障害者を殺害すべきだという考えを撤回しなかった。
そのため施設側が辞職を促し、植松は退職願を提出した。
形式上は本人が退職願を出した自主退職である。
ただし、自ら別の仕事へ移るために円満退職したわけではない。
殺害計画と差別的発言が発覚し、施設から退職を求められた結果である。
退職直後に措置入院
退職願を提出した直後、植松は警察によって保護された。
その日のうちに精神科医の診察を受け、緊急措置入院となった。
すぐに2人の指定医による診察が行われ、正式な措置入院へ移行した。
入院後の検査では大麻成分が検出された。
その後、興奮や妄想的な状態が収まったと判断され、3月2日に措置入院が解除された。
入院から退院まで、12日ほどだった。
退院後も考えは変わらなかった
退院後は施設へ連絡し、退職金などの手続きを進めた。
ハローワークで失業給付の手続きを行い、生活保護も申請した。
一方で、植松は事件の準備を進めていった。
元職員だったため、施設の構造、夜間の職員配置、利用者がいる部屋などを知っていた。
その知識を使い、刃物や結束バンドなどを準備した。
2016年7月26日未明、植松はかつて自分が働いていた津久井やまゆり園へ向かった。
津久井やまゆり園事件を起こす
その日は、2016年7月26日だった。
植松聖は、施設の窓を割って建物内へ侵入し、職員を結束バンドなどで拘束したうえで、入所者を次々と刃物で襲った。
この事件により、入所者19人が死亡し、入所者と職員あわせて26人が重軽傷を負った。
植松は、言葉による意思疎通ができるかどうかを独自の基準にして、襲う相手を選んだとされている。
犯行後は施設を離れ、神奈川県警津久井警察署へ出頭した。
裁判で死刑判決を受け、拘置所で結婚と離婚
植松聖は事件当日の2016年7月26日、津久井警察署へ出頭し、殺人未遂容疑で逮捕された。
その後、精神鑑定などを経て、殺人、殺人未遂、逮捕監禁致傷などの罪で起訴された。
横浜地方裁判所での裁判員裁判は、2020年1月8日に始まった。
植松は自らが事件を起こしたことを認めており、裁判では主に、犯行時に刑事責任能力があったかどうかが争われた。
弁護側は、大麻使用による精神障害の影響で責任能力が失われていたとして無罪を主張した。
これに対し、横浜地裁は、植松が施設の勤務体制を把握し、刃物や結束バンドを用意するなど計画的に犯行を進めていたことから、完全責任能力があったと判断した。
2020年3月16日、横浜地裁は植松に死刑を言い渡した。
弁護人は控訴したが、植松本人が取り下げたため、2020年3月31日に死刑が確定した。※その後、控訴取り下げの無効申し立てや再審請求も行われたが、いずれも棄却されている。
拘置所では、植松に手紙や差し入れを送っていた女性との交流が始まった。死刑確定者は面会できる相手が厳しく制限されるため、女性は植松と面会するため家族になることを選び、2024年12月に獄中結婚したと報じられている。結婚後の2025年2月には、女性が植松と初めて面会した。
しかし、二人の結婚生活は長くは続かなかった。2026年には離婚したことが植松本人や関係者によって明らかにされている。
植松は事件後も、障害者の生命を否定した自らの考えを完全には撤回していない。
植松聖は現在も死刑確定者として収容されている。
まとめ|植松聖とは何者だったのか
植松聖は、学校へ通い、友人と遊び、恋愛をし、父親と同じ小学校教師を目指した。
帝京大学で教育を学び、小学校教員免許を取得し、教育実習も経験している。
運送会社に就職したものの短期間で辞め、知人から「楽だよ」と紹介された津久井やまゆり園へ入った。
それから約3年後には、障害者殺害計画を政治家へ届ける人物になっていた。
植松は事件前から、重度障害者を自分と同じ一人の人間として見ていなかった。
言葉による意思疎通が難しいことを理由に、本人には意思や感情、幸福がないと決めつけ、その生命を奪うことさえ「本人や家族のため」だと正当化した。
根底にあったのは、特定の障害者を生命として対等に扱わず、自分が生存の可否を決められるという発想だった。
植松聖を、自分たちとはまったく異なる怪物として遠ざけることは簡単である。
しかし、社会の役に立つか、意思疎通ができるか、家族や社会に負担をかけるかという基準で、人の生命を測る発想は、本当に植松だけのものなのだろうか。
森達也は、植松聖を不気味だと感じる私たち自身のなかにも、「命の選別」を当然視する意識が潜んでいないかを問いかけている。
植松聖という人物を、異常な殺人者として切り離すのではなく、その背後にある社会と私たち自身の感覚まで考えたい人は、あわせて読んでほしい。
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植松聖の事件は、彼一人の異常性だけで説明できるものではない。
学校や職場、家族、社会との関係のなかで、何者にもなれない感覚や他者への敵意を膨らませ、やがて大量殺人へ向かった人物は、植松だけではない。
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事件に至るまでの人生をたどることで、犯行だけでは見えない人物像が浮かび上がる。




