映画『ランボー』はなぜ悲しいのか|戦場から帰れなかった男

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『ランボー』と聞けば、筋骨隆々の男が重火器を抱え、敵を次々と倒していく姿を思い浮かべる人も多いだろう。

しかし、1982年に公開されたシリーズ第1作は、後の作品とは大きく異なる。

第1作で描かれるのは、無敵の兵士が敵国と戦う物語ではない。ベトナム戦争から帰還した一人の男が、平和な社会に居場所を見つけられず、再び戦場へ追い戻されていく物語である。

ランボーは強い。

だが、その強さは希望ではない。戦争によって身につけさせられた、日常では使い道のない力である。

『ランボー』はアクション映画の姿をしているが、その内側にあるのは、戦争から帰れなくなった男の悲劇だ。

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映画『ランボー』の作品情報

『ランボー』は、1982年に公開されたアメリカ映画である。

主演はシルベスター・スタローン。監督はテッド・コッチェフが務めた。

原作は、デイヴィッド・マレルが1972年に発表した小説『First Blood』である。

日本では主人公の名前を取って『ランボー』という題名になったが、アメリカでの原題は『First Blood』だった。

後にシリーズ化され、第2作以降の印象によって「ランボー」という名前は屈強な戦士の代名詞となった。

しかし、第1作のランボーは英雄というより、社会からこぼれ落ちた帰還兵として描かれている。

映画『ランボー』のあらすじ

ベトナム帰還兵のジョン・ランボーは、かつて同じ部隊で戦った戦友を訪ねる。

だが、戦友はすでに病気で亡くなっていた。

部隊の仲間を失い、行く場所もなくなったランボーは、ワシントン州の小さな町へ入る。

ランボーは町で食事をしようとしただけだった。

しかし、保安官のティーズルは、長髪で軍服姿のランボーを見て、町にふさわしくない流れ者だと判断する。

ティーズルはランボーをパトカーに乗せ、町の外まで送り届ける。

ところがランボーは引き返す。

その行動に腹を立てたティーズルは、ランボーを逮捕する。警察署へ連れて行かれたランボーは、警官たちから乱暴な扱いを受ける。

身体を押さえつけられ、髭を剃られそうになった瞬間、ランボーの中でベトナム戦争中に受けた拷問の記憶がよみがえる。

ランボーは警官たちを振り切って逃走し、山中へ逃げ込む。

そこから、帰還兵ランボーと町の警察による追跡戦が始まる。

ランボーはなぜ警察と戦ったのか

ランボーは、最初から町で事件を起こそうとしていたわけではない。

武器を持っていたわけでも、誰かを脅したわけでもない。

彼はただ、町で食事をしようとしただけだった。

だが、ティーズルはランボーの外見と態度だけを見て、町から排除する。

その排除は、ティーズルにとっては小さな職務だったのかもしれない。

町の秩序を守るため、怪しい流れ者を追い出した。それだけのつもりだった。

しかしランボーにとって、それは自分が祖国から拒絶されたことを意味した。

戦場では国家の命令に従い、仲間のために戦った。それにもかかわらず、帰国した自分を待っていたのは、感謝でも歓迎でもなく、厄介者を見るような視線だった。

さらに警察署で身体を押さえつけられたことで、ランボーは現在と過去の区別を失う。

警察署は、彼の中でベトナムの捕虜収容所へと変わる。

ランボーが警察と戦い始めたというより、警察がランボーを再び戦場へ戻してしまったのである。

この感覚は、終戦後もフィリピン・ルバング島で任務を続け、1974年に帰国した小野田寛郎にも通じるものがある。小野田は、戦争中とは価値観が大きく変わった日本に居場所を見つけられず、帰国から約半年後の1975年にブラジルへ渡った。

ランボーも小野田も、戦場から生きて帰った。しかし、帰国した祖国は、彼らが出発したときと同じ国ではなかった。

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原題『First Blood』は誰が先に始めたのかを問う

日本での題名は『ランボー』だが、原題は『First Blood』である。

直訳すれば「最初の血」となる。

英語には、先に相手を傷つける、最初に攻撃を仕掛けるという意味で「draw first blood」という表現がある。

つまり『First Blood』という題名が問うているのは、ランボーという人物の強さではない。

この争いを最初に始めたのは誰だったのかという問題である。

ランボーは、トラウトマン大佐に対して、先に仕掛けたのは自分ではないと訴える。

確かに、最初にランボーを町から追い出したのはティーズルだった。

最初に逮捕したのも、警察署で暴力的に扱ったのも警察側である。

もちろん、その後のランボーの行動がすべて正当化されるわけではない。

しかし原題は、事件の結果だけを見てランボーを暴力的な男と決めつけることを拒んでいる。

一人の帰還兵が暴走したのではない。

社会による小さな排除が、戦争によって壊れた記憶を呼び覚ました。

『First Blood』という題名には、その発端を見失うなという意味が込められている。

山の中でだけ生きられる男

町の中にいるランボーは、居場所を持たない流れ者である。

仕事もなく、家族もなく、戦友もすでに亡くなっている。

保安官から見れば、町の秩序を乱すかもしれない不審人物にすぎない。

ところがランボーが山へ逃げ込むと、状況は一変する。

警察犬をかわし、追跡する警官の位置を把握し、自然の中に身を隠す。罠を作り、警官たちを一人ずつ無力化していく。

町では何もできなかった男が、山の中では圧倒的な能力を発揮する。

アクション映画として見れば、ランボーの強さが解放される爽快な場面である。

だが、これは同時に悲しい場面でもある。

ランボーは、平和な社会では生きられない。

戦場に似た環境へ戻ったときだけ、自分の能力を発揮できる。

戦場では何でもできる男が、日常生活だけはできない。

ランボーの強さとは、戦争から帰れなかったことの証明なのである。

戦場では英雄、祖国では浮浪者

ランボーは、アメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーに所属していた。

戦場では、武器の扱い、生存技術、偵察、戦闘の能力を高く評価されていた。

高価な装備を任され、人間兵器として国家に必要とされた。

だが、戦争が終わると、その能力を必要とする場所はなくなる。

帰国したランボーは仕事に就くこともできず、町では浮浪者のように扱われる。

国家は戦争を始めるとき、兵士を英雄として送り出す。

しかし戦争が終わったあと、兵士の心に何が残ったのかまでは引き受けない。

平和になった祖国では、町から出ていくよう命じられた。

この落差が『ランボー』の中心にある。

彼が怒っているのは、警察に追われたからだけではない。

自分たちに戦争をさせた社会が、帰国後の兵士を知らないふりをしていることに怒っている。

自分たちに戦争をさせた社会が、帰国後の兵士を知らないふりをしていることに怒っている。

同じように、戦争を終わったことにして前へ進む日本社会へ、執拗に問いを突きつけた元兵士が奥崎謙三である。映画『ゆきゆきて、神軍』では、ニューギニア戦線から生還した奥崎が、戦地で起きた兵士処刑の責任を追い、元上官や戦友たちのもとを訪ね歩く。

ランボーが胸の内に抱えた怒りを最後に噴き出させた人物だとすれば、奥崎はその怒りを戦後社会へ向け続けた人物だった。

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ランボーは殺人鬼ではない

後のシリーズでは、ランボーは一人で大勢の敵を倒す戦闘英雄となった。

その印象から第1作を見ると、警官たちを次々と殺していく映画だと思われるかもしれない。

しかし、映画版のランボーは、警官たちを積極的に殺そうとはしていない。※原作の小説では殺している。

山中で警官を一人ずつ襲う場面でも、相手を殺すのではなく、動けなくしたうえで恐怖を与えている。

そしてティーズルに対し、これ以上追うなと警告する。

ランボーの目的は勝利ではない。

戦いを終わらせることだった。

彼は警察と戦いたいのではなく、追われることで兵士として反応してしまう。

危険を察知すれば身体が先に動く。包囲されれば脱出し、攻撃されれば相手を無力化する。

それはヒーローの才能ではなく、戦争によって身体に刻み込まれた反射である。

映画版がランボーを殺人鬼にしなかったことで、観客は彼を犯罪者として切り捨てることができなくなる。

保安官ティーズルも単純な悪人ではない

ティーズルは、ランボーを町から追い出した人物である。

そのため、物語の悪役として見ることもできる。

だが、ティーズルは単純な悪人ではない。

彼は自分の町を管理し、秩序を守ろうとしている。

身元が分からず、軍服姿で町を歩くランボーを見て、問題が起きる前に追い出そうとした。

ティーズルの判断には偏見がある。

しかし彼自身は、自分が悪いことをしているとは思っていない。

むしろ、町のために正しいことをしていると信じている。

ティーズルに見えているのは、無愛想な流れ者である。

だがランボーの内側には、戦友の死、拷問の記憶、社会から見捨てられた感覚が積み重なっている。

ティーズルは、その傷を見ることができない。

『ランボー』が描いているのは、善人と悪人の戦いではない。

戦争を経験した者と、戦争を知らない日常社会が、互いの言葉を理解できないまま衝突していく姿である。

トラウトマン大佐はランボーを救えるのか

ランボーを理解している唯一の人物が、元上官のサミュエル・トラウトマン大佐である。

トラウトマンは警察に対し、ランボーを普通の逃亡犯として追ってはならないと警告する。

ランボーは山の中で戦うために訓練された兵士であり、警官たちでは太刀打ちできないと説明する。

しかしトラウトマンの立場は複雑である。

彼はランボーを理解している。

同時に、ランボーを現在の姿へ育てた人物でもある。

トラウトマンはランボーを優秀な兵士にした。

敵地で生き残り、人を倒し、任務を遂行する能力を教え込んだ。

だが、戦争が終わったあとに普通の生活へ戻る方法までは教えられなかった。

トラウトマンは父親のようにランボーへ語りかける。

しかしその父親は、息子を戦闘機械に変えた軍の代表でもある。

彼はランボーを止めることはできても、ランボーから戦争を取り除くことはできない。

最後にランボーが泣き崩れる理由

映画の終盤、ランボーは町へ戻り、警察署周辺を破壊する。

この時点まで、ランボーはほとんど感情を表に出さない。

無口で、傷を負っても耐え、追っ手を冷静に退けてきた。

しかしトラウトマンと対面すると、ランボーの内側に抑え込まれていたものが一気にあふれ出す。

ランボーは、戦争中に失った仲間のことを語る。

戦友が目の前で命を落とした記憶、帰国しても仕事が見つからない現実、戦場では高価な装備を任されていたのに、祖国では小さな仕事すら得られない矛盾を訴える。

そして、声を上げて泣き崩れる。

山中で何人もの警官を圧倒した男の正体は、戦争の記憶を抱えきれなくなった一人の人間だった。

ランボーが本当に求めていたのは、警察への勝利ではない。

自分が経験したことを、誰かに理解してもらうことだった。

戦場で生き残ったことは、ランボーにとって勝利ではない。

仲間が死んだなかで、自分だけが残されたという苦しみでもある。

最後の場面でランボーは、兵士から人間へ戻る。

しかし、それは救済ではない。

彼の中で戦争が何も終わっていなかったことが、初めて明らかになる場面である。

アメリカで『ランボー』はどう受け止められたのか

『ランボー』が公開された1982年、アメリカではベトナム帰還兵の社会復帰や精神的な後遺症が問題となっていた。

ベトナム戦争は1975年に終結したが、帰還した兵士たちの戦争は終わっていなかった。

不眠、フラッシュバック、怒り、罪悪感、孤立、仕事への適応困難などを抱える帰還兵は少なくなかった。

PTSDが精神医学の診断基準に正式に加えられたのも、『ランボー』公開の少し前である。

そのため、当時のアメリカの観客や批評家にとって、ランボーが戦争の後遺症を抱えた人物であることは明白だった。

ただし、『ランボー』は帰還兵問題を扱った社会派映画としてだけ受け止められたわけではない。

一人の男が警察組織を翻弄するサバイバル・アクションとしても人気を集めた。

観客はランボーの苦しみに同情しながら、彼が権力を圧倒する場面に興奮する。

社会問題と娯楽が、同じ作品の中に共存していた。

『ランボー』が広く受け入れられた理由は、この二重性にある。

帰還兵の孤独を正面から描くだけでは届かなかった層にも、アクション映画という形によって届いたのである。

『ランボー』はエンタメの皮をかぶったシリアスな映画である

『ランボー』は、観客を山岳サバイバルと追跡劇で引き込む。

だが、物語の本質は警察との戦いではない。

戦争によって壊れた人間が、日常社会へ戻ろうとして失敗する姿である。

この構造は、映画『シャッター アイランド』にも通じるものがある。

『シャッター アイランド』は、孤島を舞台にした謎解きミステリーとして進む。

しかし物語の中心にあるのは、真相を暴くことではなく、喪失と罪悪感に耐えられなくなった人間の精神と精神医学の闇である。

『シャッター アイランド』がミステリーの形式を使って精神医学の暗部へ入っていく映画だとすれば、『ランボー』はアクションの形式を使って、戦争のトラウマから逃れられなかった兵士の内面を描いた映画である。

どちらも娯楽作品として観客を引き込みながら、最後には社会の暗部を照らしている。

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原作小説ではランボーもティーズルも生き残らない

映画『ランボー』は、デイヴィッド・マレルの小説『First Blood』を原作としている。

ただし、映画と原作ではランボーの描き方が大きく異なる。

映画版のランボーは、警官をなるべく殺さず、追跡をやめるよう警告する。

一方、原作のランボーは映画よりもはるかに暴力的であり、追跡する警官たちを実際に殺していく。

ティーズルも、映画以上にランボーと対等な主人公として描かれる。

原作は、被害者であるランボーと加害者であるティーズルという単純な構図ではない。

二人の男が互いに引き返せなくなり、戦争のような対立へ沈んでいく物語である。

そして結末では、ランボーもティーズルも生き残らない。

ランボーはトラウトマンによって撃たれ、ティーズルも傷が原因で死亡する。

原作では、ランボーと社会の対立に救いはない。

戦争によって作られた男と、その男を排除しようとした秩序の側が、共に滅びる。

映画版ではランボーを生存させ、彼をより同情しやすい人物へ変えた。

その変更によって続編が可能になったが、原作にあった冷たい結末は失われた。

日本語訳『一人だけの軍隊 ランボー』

原作小説『First Blood』は、日本でも翻訳されている。

日本語版の題名は、デイヴィッド・マレル著『一人だけの軍隊 ランボー』である。

映画版より暴力描写が激しく、ランボーとティーズルの対立も救いのない形で描かれている。

映画のランボーに同情した読者にとっては、原作のランボーは別人のように感じられるかもしれない。

現在は古書を中心に流通しているため、誰にでも勧めやすい本ではない。

しかし、『ランボー』を単なるアクション映画ではなく、戦争によって壊れた人間の物語としてさらに深く読みたい人には興味深い一冊である。

映画とは異なる結末まで含めて、この物語の暗さを確かめたい人向けの原作小説だ。

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続編でランボーは英雄に変わった

第1作の原題は『First Blood』だった。

しかし第2作では『Rambo: First Blood Part II』となり、主人公の名前である「Rambo」が題名の先頭に出る。

第3作では『Rambo III』となり、『First Blood』という言葉は完全に消える。

この題名の変化は、シリーズの内容の変化を象徴している。

第1作でランボーが戦った相手は、祖国の警察と社会だった。

彼は国家に利用され、戦争が終わると見捨てられた帰還兵だった。

だが、第2作以降ではランボーは再び国家から必要とされ、外国の敵と戦う英雄へ変わっていく。

第1作では、アメリカ社会そのものがランボーを追い詰めていた。

続編では、アメリカの外側に明確な敵が用意される。

社会から排除された帰還兵の悲劇は後退し、アメリカの強さを体現する戦闘英雄だけが残った。

シリーズ作品としての面白さは別として、『ランボー』という物語の深さは、第1作だけでほぼ完結している。

まとめ|ランボーが戦っていたのは警察ではない

ランボーが戦っていた相手は、ティーズルや警察だけではない。

戦争を経験した自分と、それを理解できない社会との断絶。

兵士を戦場では英雄として扱い、帰還後は個人の問題として放置する国家。

そして、祖国へ帰っても消えない戦場の記憶である。

ランボーは強い。

山の中では警察を圧倒し、一人で町を混乱させるほどの力を持っている。

だが、その力は彼を救わない。

戦争で身につけた強さが大きいほど、普通の生活へ戻ることが難しくなる。

『ランボー』は、強い男の映画ではない。

強くされすぎたために、普通の人間へ戻れなくなった男の映画である。

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戦後の日本にもランボーと重なる人物がいる。

小野田寛郎は、長い戦争を終えて帰国したものの、変わってしまった祖国に居場所を見つけられず、やがてブラジルへ渡った。

奥崎謙三は、戦場で起きた出来事を忘れたふりをする戦後社会に怒り続け、その責任を執拗に問い続けた。

一人は祖国を離れ、一人は祖国を追及した。

二人の生き方は正反対に見えるが、どちらも戦争の後を生きることができなかった人間である。

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