奥崎謙三とは何者だったのか|神軍平等兵を名乗り、戦争責任を追及した男

奥崎謙三とは何者だったのか 映画解読
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奥崎謙三とは何者だったのか。

この名前を知る人の多くは、原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』を通して知ったのではないかと思う。

奥崎謙三は、映画の中で元上官たちを訪ね歩き、ニューギニア戦線で起きた兵士処刑の真相を追及する。相手を詰め寄り、怒鳴り、時には暴力も辞さない。その姿は、観る者に強烈な印象を残す。

しかし奥崎謙三は、映画の中だけにいた人物ではない。

彼は旧日本陸軍の兵士としてニューギニア戦線を経験した。戦後はバッテリー商を営みながら、戦争責任を追及し続けた。自らを「神軍平等兵」と名乗り、昭和天皇へのパチンコ玉発射事件、皇室ポルノビラ事件、選挙への出馬、元上官家族への発砲事件など、極端な行動を繰り返した。

奥崎謙三は、反戦活動家だったのか。

それとも、暴力を伴う危険な人物だったのか。

おそらく、そのどちらか一方だけでは足りない。

奥崎謙三は、戦争責任を追及した男である。同時に、暴力を手放せなかった男でもある。彼を英雄にしてはいけない。だが、単なる狂人として片づけてもいけない。

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ニューギニア戦線と奥崎謙三

奥崎謙三を理解するためには、まずニューギニア戦線を見なければならない。

奥崎は旧日本陸軍の兵士としてニューギニアへ送られた。ニューギニア戦線は、日本軍にとって凄惨な戦場だった。補給は途絶え、兵士たちは飢え、病み、倒れていった。戦闘だけでなく、飢餓と病気が兵士をむしばんだ。

奥崎にとって戦争は、1945年に終わった過去ではなかった。

ゆきゆきて、神軍』で追及されるのは、奥崎がかつて所属していた部隊で、終戦後23日も経ってから2人の兵士が処刑されたとされる問題である。なぜ終戦後に兵士が殺されたのか。誰が命令したのか。なぜ遺族には真相が伝えられなかったのか。

奥崎は、この問題を執拗に追い続けた。

それは単なる戦友への弔いではない。旧軍の上官、国家、天皇制、そして戦後社会そのものへの告発だった。

戦争が終わると、多くの人間は日常に戻った。元上官たちもまた、それぞれの戦後を生きた。しかし奥崎にとって、それは許しがたいことだったのだろう。

兵士を死地へ送り、戦後は口を閉ざす。命令を下した側は生き残り、死んだ兵士たちは沈黙したまま置き去りにされる。その構図を、奥崎は受け入れなかった。

ここに奥崎謙三の原点がある。

奥崎謙三の思想|戦争経験からアナーキズムへ

奥崎謙三の思想は、体系だった政治理論というより、戦争経験から噴き出した個人思想だった。

奥崎はニューギニア戦線で、国家の命令によって兵士が南方へ送られ、飢え、倒れ、死んでいく現実を見た。さらに彼は、終戦後に処刑されたとされる戦友たちの問題を追い続けた。

この経験は、奥崎を国家や軍隊への根本的な不信へ向かわせた。

兵士を死地へ送りながら責任を取らない国家。命令を下しながら、戦後は沈黙する上官。戦争責任を曖昧にしたまま象徴として残った天皇制。奥崎の怒りは、個別の元上官だけでなく、国家権力そのものへ向かっていった。

その意味で、奥崎謙三は戦争経験からアナーキズムへ向かった人物だったと言える。

ただし、奥崎のアナーキズムは、書物から組み立てられた理論ではない。国家に裏切られたという戦場の実感から生まれたものだった。

国家も信用しない。軍隊も信用しない。天皇制も信用しない。戦後社会の秩序にも回収されない。

奥崎は、どの権威にも属さず、自分自身の名乗りと行動によって戦争責任を追及しようとした。

戦争責任を曖昧にしたまま進む戦後日本に対して、奥崎は「知らぬ存ぜぬは許さない」と突きつけた。死者を忘れ、責任を曖昧にし、平穏な日常へ戻ろうとする社会に対して、奥崎は異物として立ちはだかった。

奥崎の思想は、国家権力への抵抗であると同時に、自分自身の正義を絶対化する方向へも進んでいった。彼の告発は鋭い。だが、その方法は暴力や挑発を伴った。

戦争責任を問うことと、暴力を正当化することは別である。

奥崎謙三の思想は、戦争を忘れようとする社会への異議申し立てであると同時に、戦争によって壊された人間が、壊れたまま正義を叫び続けたものでもあった。

「神軍平等兵」とは何だったのか

奥崎謙三は、自らを「神軍平等兵」と名乗った。

「神軍」という言葉には、宗教的な響きがある。一方で「平等兵」という言葉には、軍隊の階級秩序をひっくり返すような響きがある。

旧日本軍には、厳格な階級があった。上官が命令し、兵士が従う。その構造の中で、兵士たちは戦場へ送られた。奥崎はその構造を憎んだ。だからこそ、彼は「上等兵」でも「元兵士」でもなく、「平等兵」を名乗ったのではないか。

国家に属する兵士ではない。

旧軍の階級秩序に従う兵士でもない。

奥崎は、敗戦後も自分だけの戦争を続けるために、自分自身を「神軍平等兵」と名乗った。

これは政治団体名というより、奥崎自身が作り上げた個人思想であり、個人宗教に近い。

奥崎は戦後社会の中にうまく収まらなかった。市民運動家でもなく、通常の反戦活動家でもなく、政党人でもない。自分だけの軍隊、自分だけの裁き、自分だけの正義を作り上げていった。

その名乗りは、滑稽にも見える。

だが同時に、不気味な切実さもある。

奥崎謙三は、戦後日本の中で自分の立ち位置を見失った人間だった。いや、見失ったというより、既存の立ち位置をすべて拒否した人間だった。

そんな彼に残ったのが、「神軍平等兵」という異様な名乗りだった。

昭和天皇パチンコ玉発射事件

奥崎謙三の名を世に知らしめた事件のひとつが、昭和天皇へのパチンコ玉発射事件である。

1969年1月2日、皇居の新年一般参賀で、奥崎は昭和天皇に向けて手製のパチンコでパチンコ玉を発射した。

事件名としては「パチンコ狙撃事件」と呼ばれることもある。ただし、実際には銃器による狙撃ではない。手製のパチンコでパチンコ玉を飛ばした事件である。

重要なのは、殺傷能力の問題ではない。

奥崎が昭和天皇に向けて、自らの戦争責任追及を突きつけたという点である。

奥崎にとって、戦争責任の核心には天皇制があった。戦争を遂行した国家。その頂点にいた天皇。戦後、象徴天皇制として存続した天皇。奥崎はそこに対して、直接的な行動を起こした。

もちろん、この行動は法的にも社会的にも許されるものではない。

だが、この事件を単なる奇行として見るだけでは、奥崎の怒りの方向を見落とすことになる。奥崎は、戦争責任を曖昧にしたまま戦後が進んでいくことを許せなかった。

その怒りが、皇居の一般参賀という象徴的な場で噴き出したのである。

皇室ポルノビラ事件と過激化する告発

奥崎謙三の行動は、戦争責任の追及にとどまらず、過激な挑発へと向かっていく。

1976年、奥崎は皇室関係者の顔をポルノ写真に合成したビラをまいた。いわゆる皇室ポルノビラ事件である。これにより奥崎は猥褻図画頒布などで逮捕され、服役することになる。

ここで見えてくるのは、奥崎の告発の危うさである。

奥崎は天皇制への怒りを持っていた。戦争責任を問う視線もあった。しかし、その表現は常識や法を踏み越えたものになっていく。

彼の行動には、抗議がある。だが同時に、相手を辱め、社会を挑発し、自分の存在を突きつけるような過剰さもある。

奥崎謙三を「正義の告発者」としてだけ描けない理由がここにある。

戦争責任を問うことは必要だった。だが、その方法が常に正しかったわけではない。

奥崎は、問いの鋭さと方法の危うさを同時に抱えた人物だった。

選挙にも出馬した奥崎謙三

奥崎謙三は、事件を起こしただけの人物ではない。選挙にも出馬している。

1977年には、東京拘置所在監中に参院選全国区へ立候補した。また、この時期には『神軍新聞』も発行している。1980年にも参院選全国区へ立候補した記録がある。

さらに1983年の衆議院議員選挙では、兵庫1区から無所属で立候補している。

この時の政見放送の様子は、今でもYouTube上に残っている。6分に満たないこの動画の中で、奥崎は他の誰にも真似できない異質な言語感覚と鋭い言葉で国家、天皇を否定する。

ここは奥崎謙三を理解するうえで重要である。

奥崎は、暴力や挑発だけで自分の思想を表現したわけではない。選挙という公的な制度にも入り込もうとした。

ただし、奥崎にとって選挙は、通常の政治参加とは少し違っていたように見える。

議席を得て政策を実現するための現実的な選挙運動というより、自分の思想を公的空間へ叩きつけるための舞台だったのではないか。

街宣、出版、裁判、事件、選挙。

奥崎は、あらゆる場を自分の告発装置に変えようとした。

この点で、奥崎は奇妙な政治的人物でもあった。既存の政党や運動に収まらず、しかし完全に政治の外にいたわけでもない。むしろ政治の場を、自分の戦争責任追及のために利用しようとした。

奥崎謙三は、戦後社会のあらゆる場所に乱入していく人物だった。

『ゆきゆきて、神軍』は奥崎謙三をどう映したのか

奥崎謙三を世に強烈に刻みつけた作品が、原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』である。

この映画では、奥崎がニューギニア戦線での元上官や関係者を訪ね、終戦後に処刑されたとされる兵士の真相を追及していく。

奥崎は、相手に容赦しない。証言を引き出すために詰め寄り、問い詰め、時には暴力的になる。観客は、奥崎の執念に圧倒されると同時に、その危険さにも怯えることになる。

『ゆきゆきて、神軍』がすごいのは、奥崎を単純な英雄として撮っていない点である。

奥崎の問いは重い。

戦争責任を曖昧にしたまま生きている元上官たち。死んだ兵士たちの存在。遺族に知らされなかった真相。そこに奥崎が踏み込んでいくことで、戦後日本が隠してきたものがむき出しになる。

しかし同時に、奥崎の方法は危うい。

彼は相手を追い詰める。暴力も辞さない。正義の名のもとに、自分の行動を正当化していく。その姿には、告発者としての迫力と、暴力者としての危険が同居している。

だから『ゆきゆきて、神軍』は、単なる反戦映画ではない。

戦争責任を問う映画であると同時に、正義が暴力と結びつく危うさを映した映画でもある。

奥崎謙三という人物は、この映画の中で、戦後日本の傷口そのもののように現れる。

なお、『ゆきゆきて、神軍』という映画そのものの内容や評価については、別記事で詳しく整理している。

関連記事:映画『ゆきゆきて、神軍』とは何だったのか

元上官家族への発砲事件

奥崎謙三を語るうえで、元上官家族への発砲事件は避けられない。

奥崎は、ニューギニア戦線での兵士処刑問題を追及する中で、元上官を訪ね歩いていた。1983年、奥崎は元上官宅を訪ね、応対した家族に発砲する事件を起こした。殺人未遂事件である。

奥崎の追及は、戦争責任を忘れた社会への異議申し立てだった。しかし、その異議申し立ては現実の暴力事件になってしまった。

戦争責任を問うことは必要である。死者の声を無視し、元上官たちが沈黙し続けることへの怒りも理解できる部分がある。

だが、だからといって暴力が肯定されるわけではない。

暴力だけを見れば、彼は危険な人物である。

しかし、危険な人物として片づけるだけでは、彼が背負っていた戦争の傷が見えなくなる。

反対に、戦争責任を追及した人物として美化すれば、彼が実際に他者へ向けた暴力が見えなくなる。

奥崎謙三は、その両方を見なければならない人物である。

晩年の奥崎謙三と『神様の愛い奴』

晩年の奥崎謙三は、出所後の姿を追ったドキュメンタリー『神様の愛い奴』にも登場している。

ただし、この作品は『ゆきゆきて、神軍』のように、奥崎の告発と戦争責任の問題を鋭く浮かび上がらせた作品というより、晩年の奥崎をアンダーグラウンドなサブカルチャーの文脈で扱った色合いが強い。

そのため、奥崎謙三を理解する入口としては、やはり『ゆきゆきて、神軍』を先に置くべきだろう。

『神様の愛い奴』は、奥崎本人を知るための中心作品というより、晩年の奥崎がどのように撮られ、どのように消費されたのかを見るための補助線として位置づけた方がいい。

奥崎謙三という人物は、面白がるだけでは届かない。

彼は危険な人物だった。だが同時に、戦争の地獄を背負った人物でもあった。そこを見落とすと、奥崎はただの奇妙な老人として消費されてしまう。

それでは、彼が突きつけた戦争責任の問題も、彼自身の危うさも、どちらも見えなくなる。

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関連記事:配信されていない映画を観る方法|TSUTAYA宅配レンタル

奥崎謙三は戦後日本に何を突きつけたのか

奥崎謙三は、戦後日本に何を突きつけたのか。

それは、戦争は終わっていないという事実である。

もちろん、国家としての戦争は1945年に終わった。日本は敗戦し、占領され、やがて復興し、高度経済成長へ向かった。多くの人々は生活を立て直し、戦争の記憶は少しずつ遠ざかっていった。

しかし、奥崎謙三の中では戦争は終わっていなかった。

ニューギニアで死んだ兵士たち。
終戦後に処刑されたとされる戦友たち。
責任を語らない上官たち。
戦争責任を曖昧にしたまま続く天皇制。

奥崎にとって、それらは過去の問題ではなかった。

奥崎は、戦後社会が忘れようとしたものを、最も異様な形で突きつけた。

奥崎謙三は、反戦の聖人ではない。
かといって、単なる狂人でもない。

彼は、戦争によって壊された人間が、壊れたまま戦後社会に戻ってきた姿だった。

奥崎謙三とは、戦後日本が忘れようとしたものを、最も異様で、最も危険な形で突きつけた男だった。

奥崎謙三という人物を世に強烈に刻みつけたのが、原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』である。ニューギニア戦線の記憶、元上官への追及、そして奥崎の危うい執念がどのように映し出されたのかは、以下の記事で詳しく整理している。

また、奥崎謙三が昭和天皇に向けてパチンコ玉を発射したのに対し、東アジア反日武装戦線には、昭和天皇を爆弾で襲撃しようとした「虹作戦」があった。東アジア反日武装戦線は、のちに約半世紀にわたる逃亡生活で知られる桐島聡が所属していた組織でもある。戦後日本における反天皇制、反国家思想の過激化を考えるうえでは、こちらもあわせて読んでおきたい。

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