映画『全身小説家』は、小説家・井上光晴の晩年を原一男監督が追ったドキュメンタリー映画である。
井上光晴の代表作を読んだことがなくても、この映画は十分に面白い。
なぜなら、本作の中心にあるのは文学作品の解説ではなく、井上光晴という一人の人間だからである。
自分の過去を語り、女性たちを引きつけ、病に倒れても人前に立ち続ける。その言葉のどこまでが事実で、どこからが小説なのか。映画を見ているうちに、観客は井上の文学を知る前に、井上という人物そのものから目を離せなくなる。
『全身小説家』とは、偉大な作家の功績を称える伝記映画ではない。
一人の人間が自分の人生を物語に変え、その物語の中を生き、最後には自分自身まで小説の登場人物にしてしまう過程を記録した映画である。
映画『全身小説家』の作品情報
『全身小説家』は、原一男が監督・撮影を務め、1994年に公開された長編ドキュメンタリー映画である。
上映時間は約157分。原一男は約5年にわたり井上光晴を撮影し、文学活動だけでなく、がんの発覚、手術、闘病、死、葬儀までを作品に収めた。
映画には井上光晴本人のほか、埴谷雄高、野間宏、瀬戸内寂聴など、井上と関係のあった作家たちも登場する。
記録映像や関係者へのインタビューだけでなく、「イメージ篇」と呼ばれる再現ドラマのような場面を組み込み、井上が語ってきた人生の虚実を描いている。
1994年度のキネマ旬報日本映画ベスト・テンでは第1位に選ばれた。
『全身小説家』は、原一男が人物の人生へ深く入り込み、被写体の言葉や振る舞いの奥にあるものまで映し出そうとした代表作の一つである。
原一男がほかにどのような人物や出来事を撮ってきたのかは、作品一覧記事でまとめている。
関連記事:原一男の映画作品一覧|代表作とドキュメンタリーの特徴を解説
『全身小説家』のあらすじ
原一男は、戦後文学を代表する小説家の一人である井上光晴にカメラを向ける。
井上は小説を書く一方、各地で文学伝習所を開き、作家を志す人々に文学を教えていた。教室には多くの受講生が集まり、なかでも井上を慕う女性たちの存在が目立っている。
井上は参加者の原稿を厳しく批評しながら、巧みな話術と人間的な魅力によって、その場の中心に立つ。
ところが、撮影が始まって間もなく、井上にがんが見つかる。
手術はいったん成功するものの、その後、がんは肝臓へ転移する。映画は井上の文学活動と並行して、病院での治療や手術、衰えていく身体を記録していく。
さらに原一男は、井上が自ら語ってきた経歴や過去について、親族や故郷の関係者への取材を進める。
すると、井上が語っていた人生の一部が、必ずしも事実ではなかったことが明らかになっていく。
原一男のカメラは、井上光晴の嘘を暴いて終わるのではない。
なぜ井上は、自分の人生を作り替える必要があったのか。
その虚構は単なる詐称だったのか。それとも、人生そのものを作品にしようとする小説家の本能だったのか。
映画は、井上の死後までカメラを回し続けながら、その答えを観客に委ねていく。
井上光晴を知らなくても面白い理由
『全身小説家』を見るために、井上光晴の小説を読んでおく必要はない。
もちろん『地の群れ』などを知っていれば、作品と人生の関係をより深く理解できる。しかし、この映画で最初に観客を引きつけるのは、文学史上の評価ではなく、井上光晴という男の存在感である。
井上は、部屋に入ってきただけで、その場の空気を自分のものにしてしまう。
話し始めれば人々が耳を傾け、冗談を言えば笑いが起こり、厳しいことを言っても周囲は離れていかない。
現代的な言葉を使えば、強烈なカリスマ性を持つ人物である。
ただし、その魅力は清潔なものではない。
尊敬と疑い、知性と虚栄、誠実さと嘘、弱さと傲慢さが混じり合っている。井上を慕う人々も、彼のすべてを信じているわけではない。それでも、なぜか井上のもとへ集まってくる。
この矛盾こそが面白い。
立派な人物だから見続けるのではない。善人とも悪人とも言い切れず、次に何を語り、何を演じるのか分からないから、見続けてしまうのである。
人生そのものを小説にした男
映画が進むにつれて、井上光晴の語ってきた過去が検証されていく。
井上は、自分の出生、家族、青春時代、政治活動などについて、さまざまな物語を語っていた。しかし、関係者への取材を重ねると、その話には事実と異なる部分があることが見えてくる。
通常のドキュメンタリーであれば、ここで「有名作家の経歴詐称」が告発されることになる。
だが、『全身小説家』はそれほど単純ではない。
井上光晴にとって、過去は固定された記録ではなかったのではないか。
自分が何者であったかより、自分が何者であるべきか。そのために必要な物語を作り、その物語を繰り返し語ることで、自分自身を作り上げていく。
小説家は、存在しない人物の人生を書く。
井上光晴は、それと同じことを自分自身に対して行ったのかもしれない。
嘘をついていたというより、自分という人間を執筆し続けていたのである。
原一男は井上光晴の嘘を暴きたいのか
原一男は、対象となる人物を安全な距離から観察する監督ではない。
『ゆきゆきて、神軍』では、奥崎謙三の過激な行動を止めることなくカメラを回し続けた。『全身小説家』でも、井上光晴を美しく整えて紹介するのではなく、本人が隠したい部分や、周囲が語りにくい部分へ踏み込んでいく。
しかし、原一男の目的は井上を告発することだけではない。
経歴の矛盾を発見しただけなら、映画はもっと短く作れる。
それでも原は、文学教室で話す井上、女性たちに囲まれる井上、病室にいる井上、手術を受ける井上、死へ近づいていく井上を執拗に撮影する。
原一男が知りたいのは、井上の発言が正しいかどうかだけではない。
人はなぜ、自分について物語を作るのか。
そして、作り上げた物語を何十年も生き続けたとき、虚構と本人を分けることはできるのか。
カメラは井上の仮面を剥がそうとする。しかし一枚剥がすたびに、その下から別の井上光晴が現れる。
最後まで「本当の井上光晴」は姿を見せない。
あるいは、いくつもの虚構をまとった状態こそが、本当の井上光晴だったのである。
自分の人生を語り直しながら、「井上光晴」という人物そのものを作り上げていく。その構造は、作者自身を作品の中へ登場させ、現実と虚構の境界を揺らした太宰治の方法とも重なって見える。
関連記事:太宰治とは何者だったのか|作品と人生から見る作家の実像
文学伝習所に集まる女性たち
映画の中で特に印象的なのが、文学伝習所に集まる女性たちである。
井上は全国各地で文学を教え、多くの人々と交流していた。参加者たちは原稿を持ち寄り、井上から批評を受ける。
そこにあるのは、単なる講師と受講生の関係ではない。
女性たちは井上の文学を尊敬していると同時に、井上という男性にも引きつけられている。井上もまた、その視線を理解し、自分の魅力を意識的に使っているように見える。
今日の感覚で見れば、強い権威を持つ作家と、作家を目指す受講生との関係には危うさがある。
それでも映画は、井上を慕う女性たちを一方的な被害者としては描かない。
彼女たちは井上の弱さも、調子のよさも、女性に対する振る舞いも、ある程度見抜いている。それでも井上を憎み切れず、離れ切れない。
人間関係は、正しいか間違っているかだけでは整理できない。
井上を中心に生まれた共同体には、文学への憧れだけでなく、愛情、嫉妬、依存、競争、承認されたいという欲望が渦巻いている。
文学教室でありながら、そこ自体が巨大な人間ドラマになっているのである。
瀬戸内寂聴と井上光晴の奇妙な距離
映画には瀬戸内寂聴も登場する。
瀬戸内は、井上の病室を訪れ、妻を交えて親しげに会話する。その場には、長年の知人という言葉だけでは説明しきれない空気が流れている。
井上光晴と瀬戸内寂聴の関係は、後に井上の娘である井上荒野が小説『あちらにいる鬼』で描き、映画化もされた。
しかし、『全身小説家』の時点では、二人の関係について詳しい説明は行われない。
説明されないからこそ、視線や沈黙、会話の間が気になる。
井上の妻もその場にいる。
誰がどこまで知っているのか。何を受け入れ、何を口に出さずにいるのか。
原一男のカメラは説明を加えず、その奇妙な均衡を撮っている。
恋愛や不倫という言葉で整理するよりも、三人が長い時間をかけて作り上げた関係そのものが映っているのである。
井上光晴をめぐる複雑な関係をさらに見ていくなら、瀬戸内寂聴自身を追ったドキュメンタリー映画も合わせて見ておきたい。『全身小説家』では井上の物語の一部として現れる瀬戸内が、別の映画では一人の中心人物として映し出されている。
関連記事:瀬戸内寂聴のドキュメンタリー映画を解説|作家と女性、二つの顔
がんになっても「井上光晴」を演じ続ける
撮影中、井上光晴にがんが見つかる。
ここから映画は、作家についてのドキュメンタリーであると同時に、一人の人間が死へ向かう記録となる。
原一男のカメラは手術にも立ち会い、井上の身体が医療の対象となっていく過程を映す。
人前では言葉を操り、周囲を笑わせ、人生さえ物語に変えてきた井上も、手術台の上では一つの肉体でしかない。
それでも井上は、病人という役割だけには収まらない。
病室でも人と会い、話し、冗談を言い、井上光晴として振る舞おうとする。
その姿は勇敢にも見えるが、どこか痛々しくもある。
人は死を前にすれば本来の姿に戻る、と考えられがちである。
しかし井上光晴の場合、死が近づいても「素の自分」には戻らない。
最後まで自分を演出し、物語の中心に立ち続けようとする。
それが虚勢なのか、作家としての覚悟なのかは分からない。
ただ、井上にとって生きることと演じることは、すでに分けられなくなっていたのである。
死と葬儀までを撮る原一男
井上光晴は1992年5月に亡くなる。
しかし、映画は本人の死で終わらない。
原一男は葬儀まで撮影し、井上がいなくなった後に残された人々の姿を映す。
人が死ぬと、それまで本人が支配していた物語は、周囲の人間へ引き渡される。
誰が井上を理解していたのか。
誰が愛されていたのか。
井上が語った過去は本当だったのか。
本人が答えることのできない問いだけが残る。
葬儀は井上光晴という人間の終着点であると同時に、「井上光晴という物語」が本人の手を離れる瞬間でもある。
その後、井上をどう語るかは、家族、友人、女性たち、読者、そして映画を見た観客に委ねられる。
原一男は井上の人生に結論を出さない。
撮影した断片を並べ、観客の前に置く。
そこからどの井上光晴を見つけるかは、見る者によって変わるのである。
『全身小説家』というタイトルの意味
「全身小説家」という言葉は、単に生涯を文学に捧げた作家という意味ではない。
井上光晴は、小説を書くときだけ小説家だったのではない。
人前で話すときも、女性と向き合うときも、過去を語るときも、病気と闘うときも、自分の人生を物語として生きている。
頭の中だけでなく、声、表情、身体、人間関係、経歴、病気、そして死までが、小説家としての表現になっている。
まさに全身で小説家だったのである。
ただし、それは美しい賛辞だけではない。
人生すべてを物語にしてしまう人間は、現実をそのまま受け入れることができない人間でもある。
自分の過去まで書き換え、周囲の人々さえ自分の物語に巻き込んでしまう。
「全身小説家」という言葉には、井上への尊敬と同時に、危うさや皮肉も込められているように見える。
『ゆきゆきて、神軍』とは異なる面白さ
『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三は、他人の家へ押しかけ、戦争責任を追及し、時には暴力を振るう。
その行動は分かりやすく激しく、観客を一気に巻き込む。
一方、『全身小説家』の井上光晴は、奥崎のように暴れ回るわけではない。
井上が操るのは言葉である。
自分の経歴を語り、文学を教え、女性を魅了し、人間関係の中心に居続ける。
奥崎が他人の過去を暴こうとする人物なら、井上は自分の過去を作り替える人物である。
そして原一男は、奥崎の後を追うのではなく、今度は井上光晴という語り手の内側へ入っていく。
派手な行動ではなく、一つの言葉、一つの視線、一つの沈黙から、人間の虚栄や孤独が浮かび上がる。
『ゆきゆきて、神軍』が外へ向かって爆発する映画なら、『全身小説家』は内側へ向かって掘り進む映画である。
関連記事:『ゆきゆきて、神軍』が映したものとは何なのか
関連記事:奥崎謙三とは何者だったのか
井上光晴は嘘つきだったのか
映画を見終わった後、井上光晴を「嘘つき」と呼ぶことはできる。
実際、本人が語ってきた経歴と、取材によって判明する事実には食い違いがある。
しかし、「嘘つきだった」で終わらせると、この映画の最も面白い部分を取り逃がす。
誰でも、自分の過去を語るときには編集を行っている。
恥ずかしい出来事を省き、偶然を運命のように語り、現在の自分に都合のよい順番へ並べ替える。
井上光晴は、その行為を常人よりはるかに大規模に行っただけなのかもしれない。
だからこそ、井上の姿は特殊でありながら、どこか他人事ではない。
人は誰でも、自分という人物についての小説を書きながら生きている。
井上光晴は、その原稿用紙を人生全体へ広げてしまった。
まとめ|井上光晴という人間を見てしまう映画
『全身小説家』は、井上光晴の文学を知らなくても楽しめる。
むしろ何も知らずに見た方が、「この人は何者なのか」という疑問を抱きながら、映画の中へ入っていけるかもしれない。
井上光晴は、立派な人物として整理できる人ではない。
嘘をつき、女性を引きつけ、人々を振り回しながら、それでも周囲から愛されている。
その魅力には、知性だけでなく、弱さ、虚栄心、寂しさ、サービス精神が混じっている。
原一男は井上光晴を裁かない。
英雄にも、悪人にも、哀れな病人にも固定しない。
ただカメラを回し、井上が自分自身を演じ続ける姿を記録する。
そして映画が終わった後も、観客の中には井上光晴という人物が残る。
小説を一冊も読んでいなくても、この男のことをもう少し知りたくなる。
それこそが、『全身小説家』という映画の強さである。
『全身小説家』で原一男の撮影方法や、人物の奥へ踏み込んでいく姿勢に興味を持ったなら、奥崎謙三を追った『ゆきゆきて、神軍』をはじめ、ほかの作品もあわせて見ておきたい。
、原一男の映画には、被写体とカメラの境界が揺らぐ独特の緊張がある。



