映画『ゆきゆきて、神軍』を観た人の多くは、まず奥崎謙三に圧倒される。
ニューギニア戦線での体験、戦友を訪ね歩く執念、元上官への追及。画面に映る奥崎謙三は、常識的な意味での「よい人」ではない。むしろ、近づけば火傷するような危うさを持った人物である。
だが、そこで終わってしまうと、原一男という監督を見誤る。
『ゆきゆきて、神軍』は奥崎謙三という怪人物を撮った映画であると同時に、原一男という映画監督の方法がもっとも広く知られた作品でもある。
原一男は、なぜ奥崎謙三を撮ったのか。
そして、原一男の他の映像作品には何が映っているのか。
この記事では、『ゆきゆきて、神軍』から原一男に関心を持った人に向けて、代表的な映像作品を紹介していく。
原一男とは何者か
原一男は、日本のドキュメンタリー映画監督である。
代表作として知られるのが、1987年公開の『ゆきゆきて、神軍』である。この作品によって原一男の名は広く知られることになったが、実際にはそれ以前から、原は社会の周縁に置かれた人々、あるいは既存の秩序に収まりきらない人々を撮り続けていた。
原一男の映画に登場する人物は、しばしば扱いにくい。
きれいに説明できない。
道徳的に整理できない。
被害者とも、加害者とも、運動家とも、芸術家とも、ひとことで片づけられない。
しかし、だからこそ原一男のカメラは強い。
原の映画は、対象を「分かりやすい物語」に押し込めない。むしろ、分からなさを抱えたまま、その人物が世界とぶつかる瞬間を映し出す。
『さようならCP』|最初から原一男は厄介な場所を撮っていた
原一男の初期作品に『さようならCP』がある。
この作品で撮られるのは、脳性麻痺者の運動である。障害者を「かわいそうな存在」として描くのではなく、社会に対して自らの身体をさらし、言葉を発し、異議を申し立てる存在として映す。
ここに、すでに原一男作品の核がある。
社会が見たくないもの。
きれいな言葉で包みたがるもの。
できれば黙っていてほしいと考えるもの。
原一男は、そこにカメラを向ける。
『さようならCP』は、福祉や障害者問題をやさしく説明する映画ではない。むしろ、観る側の安全な位置を揺さぶる映画である。
原一男の映画は、最初から「理解しやすい弱者」を撮っていたわけではない。理解しにくいまま、しかしそこに確かに存在している人間を撮っていた。
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『極私的エロス・恋歌1974』|元恋人を撮ることで、監督自身も画面に引きずり出される
『極私的エロス・恋歌1974』は、原一男作品の中でも、かなり重要な一本である。
この作品で原が追うのは、かつて一緒に暮らしていた武田美由紀である。武田は子どもを連れて沖縄へ向かい、原はその彼女を撮る。しかも、この映画の製作には、原の当時のパートナーである小林佐智子も関わっている。
つまり、この映画は単に「女性の生き方」や「出産」を撮ったドキュメンタリーではない。
元恋人を撮る男。
その男と現在一緒にいる女性。
撮られる側でありながら、撮る側を激しく問い返す武田美由紀。
この三者の関係が、画面の中でむき出しになる。
普通のドキュメンタリーなら、監督は画面の外側にいる。対象を観察し、記録し、編集する立場にいる。しかし『極私的エロス・恋歌1974』では、原一男自身が安全な外側にいられない。
カメラを向けているはずの原が、逆に武田から問い返される。
撮っているはずの原が、撮られる対象との関係の中に巻き込まれる。
記録者であるはずの監督自身が、映画の中でひとりの男として露出してしまう。
ここに原一男の独自性がある。
原一男は、対象を遠くから観察する監督ではない。むしろ、対象との関係に自分自身を巻き込み、その関係が壊れたり、歪んだり、ぶつかったりする過程まで映画にしてしまう。
『極私的エロス・恋歌1974』では、私生活そのものが映画の現場になる。
恋愛、別れ、嫉妬、性、出産、母性、沖縄、米軍基地、女性解放運動。そうしたものが、ひとつの整ったテーマとして並ぶのではなく、武田美由紀というひとりの女性の身体と言葉を通して噴き出してくる。
原一男のカメラは、それを整理しない。
むしろ、整理できない関係のただ中に入り込む。
だからこの作品は「私的な映画」でありながら、単なる私生活の記録ではない。極私的であるがゆえに、時代の問題が映り込む。男女関係を撮っているはずが、女性解放、沖縄、米軍基地、出産、家族制度の問題まで見えてくる。
原一男のすごさは、社会問題を外側から説明するのではなく、ひとりの人間との切実で面倒な関係の中から、社会の断面を露出させるところにある。
『極私的エロス・恋歌1974』は、その意味で、原一男という監督の方法がはっきり出た作品である。
原一男にとって、ドキュメンタリーとは安全な観察ではない。撮ることによって、撮る側も傷つき、揺さぶられ、責任を問われる場所なのである。
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『ゆきゆきて、神軍』|奥崎謙三という爆弾
そして、もっとも有名な作品が『ゆきゆきて、神軍』である。
この映画で原一男は、奥崎謙三を追う。
奥崎謙三は、ニューギニア戦線の生き残りであり、天皇に向かってパチンコ玉を撃った人物でもある。映画の中で奥崎は、戦時中に起きた部下処刑の問題を追及し、元上官や関係者を訪ね歩く。
この映画の恐ろしさは、奥崎謙三の言っていることがすべて狂気として片づけられないところにある。
戦争の責任。
軍隊内部の暴力。
戦後を普通に生き延びた元兵士たち。
忘れたふりをする社会。
奥崎謙三は、そのすべてに乱暴に突っ込んでいく。
もちろん、奥崎の行動をそのまま肯定することはできない。暴力性もある。異様さもある。危うさもある。
しかし、原一男のカメラは、奥崎を単なる奇人として処理しない。
奥崎謙三という人物が、戦後日本の平穏な表面に穴を開けていく。その穴から、戦争の記憶、加害と被害、兵士たちの沈黙が噴き出してくる。
『ゆきゆきて、神軍』が今なお観られる理由は、そこにある。
これは奥崎謙三の映画であると同時に、戦後日本が見ないようにしてきたものを、無理やり見せられる映画でもある。
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関連記事:『ゆきゆきて、神軍』は何を描いたのか
『全身小説家』|井上光晴を撮るということ
『全身小説家』は、作家・井上光晴を追った作品である。
映画は、井上光晴がガンになってから、最期を迎え、葬儀に至るまでの時間を映している。つまりこれは、作家の業績を紹介する伝記映画ではなく、ひとりの小説家が死へ向かっていく過程を記録した作品でもある。
奥崎謙三とはまったく違う人物に見えるかもしれない。だが、原一男作品として見ると、つながりはある。
井上光晴もまた、単純に整理できない人物である。
作家としての才能。
語られる過去。
虚実のあいだ。
病。
周囲の人々との関係。
そして、死。
『全身小説家』は、作家・井上光晴の人生をきれいにまとめる映画ではない。むしろ、病と死を前にしてなお、自分自身を語り続ける小説家の姿を映している。
ここでも原一男は、対象を美化しない。
作家という存在は、ときに自分の人生そのものを作品化する。だが、その語りはどこまで本当なのか。嘘があるとして、それは単なる嘘なのか。それとも小説家という存在そのものが、現実と虚構の境界で生きているのか。
『全身小説家』は、そうした問いを観る者に残す。
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さらに、この映画には瀬戸内寂聴も登場する。
井上光晴は、瀬戸内寂聴の最後の恋の相手だったとも噂される人物である。しかし映画の中では、単なるスキャンダルの相手としてではなく、井上の妻とも良好な関係を築いている存在として映る。
ここにも、井上光晴という作家の不思議な磁場がある。
愛人、妻、作家仲間、読者、家族。普通なら整理しにくい関係が、井上光晴という人物の周囲では、奇妙な均衡を保っているように見える。
奥崎謙三が戦争の記憶を掘り返す人物なら、井上光晴は自分自身の人生そのものを物語として生きる人物である。
原一男は、そのどちらにもカメラを向ける。
瀬戸内寂聴を扱ったドキュメンタリー映画については、こちらの記事で詳しく紹介している。
関連記事:映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』|最後まで恋をしていた尼僧の生命力
『ニッポン国 VS 泉南石綿村』|長い時間を撮る
『ニッポン国 VS 泉南石綿村』では、大阪・泉南地域のアスベスト被害と国家賠償訴訟が描かれる。
ここで原一男が撮るのは、奥崎謙三のような単独の強烈な人物ではない。病を抱え、裁判を闘い、国と向き合う人々である。
この作品では、時間の重さが大きい。
被害は一瞬で終わらない。
裁判もすぐには終わらない。
病も、生活も、家族も続いていく。
原一男の映画は、人物の爆発的な瞬間だけを撮るものではない。長く続く苦しみ、長く続く闘い、長く続く沈黙も撮る。
『ニッポン国 VS 泉南石綿村』は、原一男のカメラが、個人の過激さだけでなく、社会の鈍さを映すこともできることを示している。
社会は、しばしばゆっくり人を傷つける。
その遅さを映画にするには、撮る側にも長い時間が必要になる。
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『水俣曼荼羅』|奥崎謙三のいない時代の原一男
『水俣曼荼羅』は、水俣病をめぐる長大なドキュメンタリーである。
この作品は、原一男の後期を考えるうえで重要である。なぜなら、ここには奥崎謙三のような、ひとりで画面を支配する人物がいるわけではないからだ。
水俣病という巨大な問題。被害者。家族。医療。裁判。行政。地域。時間。
それらが複雑に絡み合う。
『ゆきゆきて、神軍』では、奥崎謙三という人物が映画を引っ張っていた。観る者は奥崎に困惑し、反発し、圧倒されながら、戦争の問題へ連れていかれる。
しかし『水俣曼荼羅』では、問題そのものが大きすぎる。
ひとりの人物に集約できない。ひとつの事件として片づけられない。終わった話にもできない。
ここに、原一男の変化がある。
原一男は、奥崎謙三のような強烈な個人を撮った監督でありながら、晩年には、個人を超えて広がる巨大な被害の時間を撮ろうとした。
それは、原一男が「怪人物を撮る監督」ではないことを示している。
原一男が撮ってきたのは、世界に押しつぶされそうになりながら、それでも声を出す人間である。
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『れいわ一揆』|政治運動をどう撮るか
『れいわ一揆』は、れいわ新選組の選挙運動を追った作品である。
この作品については、評価が分かれるところもあるだろう。政治運動を撮る以上、観る側の立場によって見え方が変わるからである。
ただ、原一男作品の流れで見るなら、ここにも一貫した主題がある。
社会の中で声を持ちにくかった人々が、選挙という場に出てくる。
障害、貧困、制度、生活の苦しさ。
それらが政治の言葉に変わっていく。
原一男は、ここでも「正しい政治」を説明するというより、運動の中に現れる人間を撮ろうとしている。
政治とは制度であると同時に、身体でもある。
声でもある。
怒りでもある。
疲労でもある。
『れいわ一揆』は、原一男が老いてなお、現在進行形の社会運動へカメラを向けた作品である。
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原一男作品に共通するもの
原一男の映像作品には、いくつかの共通点がある。
第一に、対象が「安全」ではない。
奥崎謙三にしても、井上光晴にしても、障害者運動にしても、女性の私生活にしても、アスベスト被害や水俣病にしても、観る者が安心して消費できる対象ではない。
第二に、原一男は人物を美化しない。
弱者だから正しい。
被害者だから清い。
反権力だから善である。
そういう単純な描き方をしない。
第三に、原一男の映画では、撮る側と撮られる側の距離が近い。
その近さは、ときに危険である。観ていて落ち着かない。カメラが踏み込みすぎているようにも見える。
だが、その近さがあるからこそ、画面に奇妙な熱が生まれる。
原一男の映画は、対象を安全な標本にしない。生きたまま、暴れたまま、矛盾したまま映そうとする。
『ゆきゆきて、神軍』から原一男に入る意味
『ゆきゆきて、神軍』だけを観ると、原一男は「奥崎謙三を撮った監督」に見える。
しかし、他の作品をたどると見え方が変わる。
奥崎謙三は、原一男作品の中で突然現れた異物ではない。
むしろ、原一男がずっと撮ってきたものの延長線上にいる。
社会の外側に押し出された人。
自分の身体で異議を申し立てる人。
普通の言葉では収まらない人。
見ないことにされてきた歴史を、無理やり現在に持ち込む人。
奥崎謙三は、その極端な形だった。
だから『ゆきゆきて、神軍』に強い衝撃を受けた人は、原一男の他作品も観る意味がある。
そこには、奥崎謙三とは別の形で、世界とぶつかる人間たちがいる。
関連記事:奥崎謙三とは何者だったのか
まとめ|原一男は「人間の面倒くささ」を撮る監督である
原一男の映像作品は、分かりやすくない。
観ていて気持ちよくなる映画でもない。
安心して泣ける映画でもない。
善悪をきれいに分けてくれる映画でもない。
しかし、だからこそ残る。
原一男は、人間の面倒くささを撮る監督である。
怒り。虚栄。痛み。思想。身体。病。記憶。嘘。執念。
そうしたものを、きれいに洗い流さず、画面に残す。
『ゆきゆきて、神軍』で奥崎謙三に出会った人は、そこで立ち止まる必要はない。
原一男の映画をたどることは、奥崎謙三というひとりの人物を超えて、戦後日本、身体、被害、運動、表現の問題へ降りていくことでもある。
原一男の作品群は、観る者にこう問いかけてくる。
あなたは、この人間をどう見るのか。
そして、その問いは、簡単には終わらない。
『ゆきゆきて、神軍』を入口に原一男の作品世界へ入った方は、ほかの監督作もあわせて見ると、彼が一貫して何を撮ろうとしてきたのかが見えてくる。
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