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日本赤軍とは何だったのか|赤軍派からテルアビブ事件、解散までを時系列で整理

日本赤軍とは何だったのか 時系列 映画解読

日本赤軍とは、1970年代から1980年代にかけて、海外を拠点に武装闘争を行った日本の新左翼系組織である。

ただし、日本赤軍を理解するには、いきなり「日本赤軍」だけを見ると分かりにくい。

その前には、共産主義者同盟赤軍派があり、よど号ハイジャック事件があり、国内では連合赤軍とあさま山荘事件があった。

つまり日本赤軍とは、1960年代末の学生運動と新左翼運動の過激化の中から生まれ、国内革命の挫折後に、海外へと活動の場を移していった組織だった。

彼らは「世界革命」や「反帝国主義」を掲げた。

しかし、現実に起こしたのは、空港での無差別乱射、ハイジャック、大使館占拠、人質事件だった。

この記事では、日本赤軍の発端から終わりまでを、時系列で整理する。

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日本赤軍の前史|赤軍派、よど号、連合赤軍

日本赤軍の出発点にあるのは、1960年代末の新左翼運動である。

当時の日本では、大学闘争、安保闘争、ベトナム反戦運動などが重なり、学生運動が大きな力を持っていた。その中から、議会政治や大衆運動ではなく、武装闘争によって革命を実現しようとするグループが現れる。

その一つが、共産主義者同盟赤軍派だった。

1969年には、赤軍派メンバーが軍事訓練を計画していたとして摘発された大菩薩峠事件が起こる。さらに1970年には、赤軍派メンバーらによる日航機「よど号」ハイジャック事件が発生した。警察白書では、1970年3月31日、田宮高麿ら9人が東京発福岡行きの日本航空351便、通称「よど号」をハイジャックし、北朝鮮に入境したと説明されている。

このよど号グループは、日本赤軍そのものではない。

だが、日本の新左翼が国外へ向かったという意味では、日本赤軍の前史に置くべき存在である。

一方、国内に残った過激派の一部は、1971年に日共革命左派と結びつき、連合赤軍を形成する。そして1972年、あさま山荘事件を起こした。

新左翼の全体像についてはこちらの記事で、わかりやすく整理している。

関連記事:新左翼とは何だったのか

日本赤軍の結成|重信房子らはなぜ中東へ向かったのか

日本赤軍の実質的な出発点は、1971年である。

重信房子と奥平剛士らは、日本国内ではなく、中東に革命の拠点を求めた。

1971年2月、奥平剛士と重信房子がレバノン・ベイルートに出国し、PFLP、つまりパレスチナ解放人民戦線に共同武装闘争を申し入れている。

ここに、日本赤軍の特徴がある。

彼らは、日本国内で革命を起こすのではなく、パレスチナ解放闘争と結びつくことで「世界革命」の一部になろうとした。

当初は「アラブ赤軍」とも呼ばれ、1974年以降に「日本赤軍」という名称を正式に使うようになったとされる。

国外に出た主な日本赤軍メンバー

日本赤軍の確認できる主なメンバーとしては、以下の人物がいる。

名前関係・位置づけ
重信房子日本赤軍の最高幹部。1971年に中東へ向かい、のちに日本国内で逮捕。
奥平剛士初期メンバー。1972年のテルアビブ・ロッド空港事件の実行犯の一人。
岡本公三テルアビブ・ロッド空港事件の実行犯。現在も国際手配中。
安田安之テルアビブ・ロッド空港事件の実行犯の一人。
奥平純三ハーグ事件、ダッカ事件関連で国際手配中。
坂東國男連合赤軍事件で逮捕後、クアラルンプール事件に伴う超法規的措置で釈放され、のちダッカ事件に関与したとして国際手配中。
佐々木規夫クアラルンプール事件に伴い釈放され、ダッカ事件に関与したとして国際手配中。
松田久クアラルンプール事件に伴う超法規的措置で釈放され、リビアへ逃亡。国際手配中。
大道寺あや子ダッカ事件に伴う超法規的措置で釈放され、国外逃亡。国際手配中。
仁平映ダッカ事件に伴う超法規的措置で釈放され、国外逃亡。国際手配中。
足立正生レバノンで拘束された日本赤軍メンバーの一人。映画監督としても知られる。
山本萬里子レバノンで拘束された日本赤軍メンバーの一人。
和光晴生レバノンで拘束された日本赤軍メンバーの一人。
戸平和夫レバノンで拘束された日本赤軍メンバーの一人。
城崎勉ジャカルタ事件に関与した元日本赤軍メンバー。2015年に逮捕、のち服役中に死亡。

日本赤軍の主な事件を時系列で整理

1972年|テルアビブ・ロッド空港事件

日本赤軍を世界に知らしめたのが、1972年5月30日のテルアビブ・ロッド空港事件である。

奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人が、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で自動小銃を乱射し、手榴弾を投げた。

この事件で24人が死亡し、76人が重軽傷を負った。

これは、兵士や政府要人を狙った事件ではなかった。

空港にいた一般旅行者を巻き込んだ無差別殺傷である。

日本赤軍は「革命」を語ったが、現実に起こしたのは、空港にいた人々への大量殺傷だった。

この事件で、奥平剛士と安田安之は現場で死亡し、岡本公三だけが生存してイスラエル当局に逮捕された。

1973年|ドバイ事件・日航ジャンボ機乗っ取り事件

1973年には、ドバイ日航機ハイジャック事件が起きた。

日本赤軍および「被占領地の息子たち」を名乗るグループが、パリ発東京行きの日航機を乗っ取り、リビア方面へ向かわせた事件である。

日本赤軍およびパレスチナ系組織のメンバーらは、日航機を乗っ取り、ドバイ、ダマスカス、ベンガジへと移動させた。

犯行グループは、現金500万ドルおよび4億円の身代金や、前年のテルアビブ・ロッド空港事件でイスラエルに収監されていた岡本公三の釈放などを要求した。

しかし、イスラエル政府は岡本公三の釈放を拒否した。

最終的に乗客・乗員はリビアのベンガジで解放されたが、機体は爆破された。

この事件は、後のクアラルンプール事件やダッカ事件のように、国家に人質交換を迫る日本赤軍の戦術につながっていく。

航空機と乗客を人質にし、金銭や仲間の釈放を要求するという手法が、この時期からより明確になっていった。

1974年|ハーグ事件

1974年には、オランダ・ハーグのフランス大使館占拠事件が起きた。

日本赤軍メンバーがフランス大使館に立てこもり、人質を取って、仲間の釈放を要求した事件である。※重信房子は、のちにこのハーグ事件への関与で逮捕・起訴され、懲役20年の判決を受けた。

ハーグ事件は、死者こそ出ていないが、大使館を武装占拠し、警察官らに負傷者を出した国際人質事件だった。

1975年|クアラルンプール事件

1975年8月4日には、マレーシアのクアラルンプールで、アメリカ大使館などが占拠される事件が起きた。

日本赤軍メンバーはクアラルンプールの米国大使館等を占拠し、米国領事らを人質に取り、日本で服役・勾留中だった活動家7人の釈放を要求した。

このうち坂口弘と松浦順一は釈放・出国を拒否し、最終的に松田久、坂東國男、佐々木規夫、西川純、戸平和夫の5人が、超法規的措置によって釈放された。

釈放された5人は犯行グループと合流し、リビアへ逃亡した。

名前所属・関係その後
松田久日本赤軍・赤軍派関係釈放後、リビアへ逃亡。現在も国際手配中。
坂東國男連合赤軍メンバー釈放後、国外逃亡。現在も国際手配中。
佐々木規夫東アジア反日武装戦線「狼」釈放後、国外逃亡。現在も国際手配中。
西川純赤軍派関係のち国外で拘束、日本に移送。
戸平和夫赤軍派・日本赤軍関係のちレバノンで拘束、日本に移送。

この事件で重要なのは、日本政府が「超法規的措置」によって拘束中のメンバーを釈放したことである。

つまり、日本赤軍は人質を取り、国家に仲間の釈放を迫り、それを実現させた。

この成功体験が、のちのダッカ事件へつながっていく。

なお、この釈放要求には佐々木規夫という東アジア反日武装戦線のメンバーも含まれていた。

ここで日本赤軍と東アジア反日武装戦線は、組織としては別系統でありながら、人質事件を通じて接点を持つことになる。

東アジア反日武装戦線については、別記事「東アジア反日武装戦線とは何だったのか」で詳しく整理している。

1977年|ダッカ日航機ハイジャック事件

1977年9月28日、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きた。

日本赤軍メンバーは、インドのボンベイ、現在のムンバイ上空で日航機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に着陸させた。

そして、乗員・乗客を人質に取り、日本で服役・勾留中だった活動家の釈放と身代金を要求した。

日本政府は超法規的措置として一部活動家を釈放し、犯行グループは身代金とともにアルジェリアへ逃亡した。

ダッカ事件でも、日本赤軍関係者だけでなく、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子や浴田由紀子らも釈放要求の対象となった。

この事件では、乗客・乗員151人が人質になったと報じられている。

当時の福田赳夫首相は、「人命は地球より重い」と述べたことで知られる。

この言葉は、人質の命を守るための判断として語られる一方で、日本赤軍に対して国家が譲歩した象徴としても残った。

ダッカ事件は、日本赤軍の人質戦術が最も大きく国家を動かした事件だった。

1986年|ジャカルタ事件

1986年には、インドネシアのジャカルタで、日本大使館などに向けて爆発物が発射される事件が起きた。

この頃の日本赤軍は、1970年代のように表舞台で大きなハイジャック事件を起こす段階から、各地に潜伏しながら事件に関与する段階へ移っていた。

日本赤軍はなぜ衰退したのか

日本赤軍が衰退した理由は、単にメンバーが逮捕されたからだけではない。

大きかったのは、世界情勢の変化である。

1970年代の日本赤軍は、冷戦構造、パレスチナ問題、反米・反帝国主義運動の中に自分たちの居場所を見つけていた。

しかし、1990年代に入ると、ソ連が崩壊し、冷戦は終わった。各国のテロ対策も強化された。かつてのように「世界革命」という言葉で自分たちを正当化する時代ではなくなっていく。

そして、1995年以降、日本赤軍メンバーが世界各地で相次いで検挙されていく。

1997年2月、レバノンで岡本公三、足立正生、山本萬里子、和光晴生、戸平和夫の5人が一斉検挙され、日本赤軍はレバノンという最重要拠点を失った。

岡本公三を除く4人は2000年に国外退去となり、日本に帰国した際に警察が身柄を確保している。

これにより、日本赤軍はレバノンという最重要拠点を失い、組織は、時代の奥へ追いやられていった。

重信房子の逮捕と日本赤軍の解散

2000年11月、重信房子が大阪府内で逮捕された。

警察白書によると、重信房子は他人名義の旅券を不正に取得してアジア諸国に渡航していたほか、大阪と千葉にアジトを設け、国内でも活動していたことが判明した。

そして2001年4月、重信房子は獄中から日本赤軍の解散を宣言した。

ただし、警察はこの解散宣言をそのまま受け取ってはいない。

現在も国際手配中の日本赤軍メンバー

警視庁は現在も、日本赤軍メンバー7人を国際手配中として公表している。

その7人は以下である。

名前主な関係事件
坂東國男ダッカ事件
佐々木規夫ダッカ事件
松田久クアラルンプール事件に伴う釈放・逃亡
奥平純三ダッカ事件に伴う釈放・逃亡
大道寺あや子ダッカ事件に伴う釈放・逃亡
仁平映ダッカ事件に伴う釈放・逃亡
岡本公三テルアビブ・ロッド空港事件

警視庁は、これらのメンバーについて、海外で逃亡し消息不明になっているが、密かに帰国し国内に潜伏している可能性もあるとして情報提供を呼びかけている。

日本赤軍は解散を宣言したが、警察上はまだ完全に終わった存在ではない。

岡本公三はなぜ英雄扱いされているのか

日本では、岡本公三はテルアビブ・ロッド空港事件の実行犯であり、国際手配中のテロ容疑者である。

しかし、レバノンやパレスチナ関係者の一部では、岡本公三は「反イスラエル闘争に参加した人物」として英雄視されてきた。

実際に、岡本公三はレバノンで政治亡命を認められている。

アラブニュースは、岡本公三がレバノンのパレスチナ難民キャンプでは「民衆の英雄」のような存在として扱われていると報じている。

ここに、日本赤軍の歴史のねじれがある。

日本やイスラエルから見れば、岡本公三は無差別殺傷事件の実行犯である。

しかし、パレスチナ側の一部から見れば、彼はイスラエルに対して命を懸けた外国人義勇兵として記憶されている。

まとめ|日本赤軍とは何だったのか

日本赤軍の歴史は、1960年代末の学生運動から始まり、赤軍派、よど号、連合赤軍という流れを経て、海外武装闘争へ向かった歴史である。

彼らは、世界革命を語った。

だが、その実態は、空港乱射、ハイジャック、大使館占拠、人質事件だった。

日本赤軍の悲劇は、思想があったことではない。思想が、現実の人間の命を見なくなったことである。

日本赤軍とは、革命の名を借りて世界へ出ていった者たちの物語であり、同時に、思想が人間を置き去りにしたとき何が起こるのかを示す、戦後史の暗い断面である。

映像で当時の空気を知るなら、若松孝二・足立正生によるドキュメンタリー映画『赤軍-PFLP 世界戦争宣言』がある。

ただし、この作品は現在DVDが中古中心で、価格も高くなりがちである。購入するより、まずは宅配DVDレンタルで確認する方が現実的だろう。TSUTAYA DISCASでは『赤軍-PFLP 世界戦争宣言』のDVDレンタル取り扱いがある。

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新左翼の全体像はこちらの記事で詳しく整理している。

東アジア反日武装についてはこちらの記事を参考にしてほしい。

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