文学青年は、ある一時期、作家になろうと考える。
だが、本当に作家になりたいのだろうか??
文学好きの文学青年でも、本当のところは「別に小説家にも詩人にも評論家にもなりたくないし」というのが本音ではなかろうか。
では、小説家になりたくない文学青年の末路はどうなるのか??
今日は、そのことについて考えてみたい。
小説家になりたくない文学青年の末路
そもそもある程度の書物を読んできたなら、それなりの文才は培われる。
読むにしても書くにしてもある程度の文章能力は身につく。
それで勘違いして小説家なり詩人になろうと考える一時期があるのだが、改めて考えてみると、ただ文才があるだけの話なのだ。
小説家に「なりたい」わけではないし、作家を「目指している」わけでもない。
ただ人並み以上の読書経験により、少し才能の芽が出ただけの話なのである。
文学青年はニヒリストである
そもそも文学青年は、現実逃避の理想主義者である。
そうでなければ文学好きにはならない。
現実生活を享受し拝金主義者になり起業家にでもなるだろう。
もしくは労働に汗水たらし、晩酌の酒に舌鼓を打ち、家庭の幸せを享受するだろう。
時代が変わろうと人間社会は富と権力と名声の争奪戦の歴史である。
しかし、それが嫌いなのが文学青年である。
文学青年は根本においてニヒリストなのである。
文学青年の末路は無職しかない
この世のすべてが気に食わない。
私の理想とほど遠い。
そう考えている文学青年は、次第に世間と遠く離れていくだろう。
最後は、無職になる。
まとめ
文学青年の末路は無職である。
これが紛れもない現実であろう。
ただ、もしかしたら赤の他人は無職である文学青年に対して「作家」とか「小説家」とか「詩人」とか「ブロガー」とか「トレーダー」とか「ヤクザ」とか「チンピラ」とか「遊び人」とか「風来坊」とか「旅人」とか「バカ」とか「アホ」とか何らかの肩書をつける可能性はある。
それでも老いた文学青年の気持ちの上では、「無職」あるいは「無」である。