愚痴をいうオッサンの消化と昇華

愚痴 思考

愚痴をいうおっさんは嫌いだ。

いや、おっさんに限らず、老若男女問わず愚痴をいう人間は嫌いだ。

ということで。

今回は、なぜ、愚痴が嫌いなのかを考えてみる。

愚痴をいうオッサンとは

愚痴をいうオッサンの共通点は、サラリーマンである。

月給の為に、組織のなかで自我を抑えられ、鬱憤がたまっているのであろう。

その為、関係ない人間にまで愚痴をいうのである。

「誰それがこうだ。グチグチ」

しかし、一言で言うと「知らないし」となる。

全く知らない人間であろうと、誰かの悪口を聞くのは心地よいものではない。

一言で言うと、不快である。

愚痴は消化か

オッサンの視点で考えてみると、愚痴をいうことで行き場のない感情を消化しているのだろう。

だが、そんなオッサンの愚痴を聞かされた者にとっては、消化どころか不快なのである。

全く無関係な人間の悪口を聞いたところで、「はあ、そうですか」というしかできない。

どっちが悪いかはわからないが、多分、どっちもどっちに違いない。

もやもやが残るだけだ。

まだ喫煙所でタバコを吸っている時なら、笑い飛ばしながら「ひどい奴もいたもんですね!」と適当なことをいえる。

そして、「じゃあ、また」とタバコを灰皿に捨ててサッと立ち去ることもできる。

しかし、これが食事の席ともなれば、立ち去ることもできず、食事が終わるまで聞かされる羽目になる。

愚痴を聞かされた者にとっては、たまったものではない。

消化より昇華

文学や芸術をやっているものならわかるだろうが、真の消化の為には昇華させるしかないのである。

いつまでも愚痴というその場限りの消化をしていても、キリがないのである。

だから、いつも、オッサンが愚痴を言った後に、こう思う。

「そんなに嫌ならやめればいいのに」

しかし、この言葉は決して言ってはいけないタブーのようなものなのだ。

核心をついてしまっては、オッサンの逃げ場はなくなるのだ。

だから、最後の一太刀は下ろさないという優しさに甘えて、オッサンは愚痴をやめない。

 

次に例題として、昇華の方法を示しておきたい。

昇華の方法

「うるせえオッサンだな」

「おまえ、いい年こいて、なにグチグチ言ってんだよ」

「人のこと悪く言うヒマがあったら、残りの少ない人生について真面目に考えろ」

「一生、そんな愚痴愚痴いいながら生きていくつもりなのか」

「情けねえやつだな」

「そんなに嫌ならやめちまえよ」

「仕事なんかいくらでもあるんだから」

「それができないなら、もう愚痴るな」

「せめて楽しく働けよ」

「わかったか」

「二度とおれの前で愚痴るなよ」

「今度、愚痴ったら、おまえの口が二度と動かないようにサルグツワはめるぞ」

「わかったか」

まとめ

ともかく、オッサンの愚痴ほど、心に暗い影を落とすものはない。

昇華する為にどうすればいいのか?

ここまで書いてきて、最後に思ったのだが、昇華とは物事の大きさに比例するのかもしれない。

オッサンの愚痴レベルのわだかまりや不満などは昇華する気にもなれない。

だから、オッサンは愚痴という消化でその場を濁しているのだろう。

そう、まさに、このようにして……。

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