今となっては新左翼を理解するのは、なかなか難しい。
中核派、革マル派、赤軍派、日本赤軍、連合赤軍、東アジア反日武装戦線。
名前だけを並べると、まるで地下に張りめぐらされた配管図のようで、どこから追えばいいのかわからなくなる。
しかし、大きな流れで見れば、新左翼はそれほど複雑ではない。
新左翼とは、戦後の既成左翼、つまり日本共産党や日本社会党に不満を持った若い学生や活動家たちが、より急進的な革命運動を目指して生まれた運動だった。
彼らは、議会や政党による変革を待つのではなく、街頭闘争、学生運動、労働運動、反戦運動、そして一部では武装闘争によって社会を変えようとした。
この記事では、新左翼とは何だったのかを、歴史、分派、現在まで簡潔に整理する。
新左翼は、既成左翼への反発から生まれた
戦後日本の左翼運動には、もともと日本共産党や日本社会党という大きな流れがあった。
しかし1950年代後半になると、若い学生や活動家の一部は、こうした既成左翼に不満を持つようになる。
共産党は慎重すぎる。
社会党は議会主義に寄りすぎている。
本当に社会を変えるには、もっと直接的な闘争が必要なのではないか。
こうした不満から生まれたのが、新左翼だった。
新左翼は、単なる左翼思想ではない。
既成政党から離れ、学生運動や街頭闘争を中心に、より急進的な変革を求めた運動だった。
60年安保と学生運動の熱狂
新左翼の出発点として重要なのが、1960年の日米安保闘争である。
この時期、学生運動は大きな盛り上がりを見せた。国会周辺には多くの学生や市民が集まり、日米安保条約の改定に反対した。
この運動の中で象徴的な存在となったのが、東大生の樺美智子である。樺美智子は1960年の国会突入の際に亡くなり、その死は学生運動の象徴として語られるようになった。
このころの新左翼は、まだ大衆運動の中にいた。学生だけではなく、労働者、市民、知識人も政治の変化を求めていた。
彼らは本当に、社会が変わるかもしれないと感じていた。
ブント、赤軍派、日本赤軍、連合赤軍
新左翼の中でも、日本赤軍や連合赤軍につながる流れとして重要なのが、ブントである。
ブントとは、共産主義者同盟の通称で、日本共産党に不満を持った学生運動の中から生まれた。60年安保闘争で大きな役割を果たしたが、その後、分裂と再編を繰り返していく。
その流れの中から生まれたのが、赤軍派だった。
赤軍派は、塩見孝也を議長として、世界同時革命や武装闘争を掲げた。塩見は赤軍派の理論的指導者のような存在であり、「よど号」ハイジャック事件にも関わった人物である。長い獄中生活を経た後、晩年は東京都清瀬市で駐車場管理人として働いていたことでも知られる。
この赤軍派から、二つの大きな流れが生まれる。
ひとつは、重信房子らが海外へ出て作った日本赤軍である。日本赤軍は中東に拠点を置き、パレスチナ解放闘争と結びついた国際的な武装組織となった。
もうひとつは、国内に残った赤軍派の一部が革命左派と合流して生まれた連合赤軍である。連合赤軍は山岳ベース事件、あさま山荘事件へと至り、日本社会に大きな衝撃を与えた。
つまり、日本赤軍と連合赤軍は同じものではない。
日本赤軍は、赤軍派の流れから海外へ出た組織である。
連合赤軍は、国内で武装闘争を進めた末に自壊していった組織である。
この違いを押さえるだけで、新左翼の地図はかなり見えやすくなる。
関連記事:日本赤軍とは何だったのか
関連記事:連合赤軍とは何だったのか
中核派と革マル派という別の流れ
新左翼には、赤軍派とは別に、革共同系の流れもある。
ここから生まれた代表的な組織が、中核派と革マル派である。
中核派と革マル派は、どちらも革命的共産主義者同盟の流れから生まれた。しかし、方針や組織観をめぐって激しく対立し、やがて内ゲバと呼ばれる暴力的な抗争を繰り返すようになる。
赤軍派が日本赤軍や連合赤軍へ向かった流れだとすれば、中核派や革マル派は、学生運動、労働運動、街頭闘争、内ゲバの歴史と深く結びついた流れである。
新左翼という言葉を聞くと、すべてが一つの組織や運動体に見えるかもしれない。しかし実際には、日本赤軍、連合赤軍、中核派、革マル派は、それぞれ別の系統として見た方がわかりやすい。
東アジア反日武装戦線は反日・反植民地主義を掲げた
さらにややこしいのが、東アジア反日武装戦線である。
東アジア反日武装戦線は、赤軍派から生まれた組織ではない。中核派や革マル派のような大きな党派でもない。
むしろ、新左翼運動の外縁から生まれた、反日・反植民地主義系の武装グループと見るべきだろう。
彼らは、日本帝国主義、植民地支配、天皇制、日本企業の加害性を強く批判した。そして三菱重工ビル爆破事件など、企業を標的とした爆破事件を起こした。
また、昭和天皇の列車爆破を計画したとされる「虹作戦」もあり、反天皇制の色が強い組織でもあった。
赤軍派が世界革命や国際武装闘争へ向かったのに対し、東アジア反日武装戦線は、日本国家そのものの加害性を告発する方向へ向かった。
同じ新左翼の時代に生まれた過激派ではあるが、思想の焦点は違っていた。
関連記事:東アジア反日武装戦線とは何だったのか
東アジア反日武装戦線のメンバーとして長く逃亡を続けた人物が、桐島聡である。桐島聡の逃亡生活や最期については、別記事で詳しく整理している。
関連記事:逃亡生活50年・桐島聡とは何者だったのか
新左翼は本気で革命を信じていたのか
新左翼は、本気で革命が成功すると考えていたのだろうか。
これは時期によって分けて考える必要がある。
60年安保から70年安保、大学闘争の時代までは、彼らは本当に社会が変わると感じていたはずである。学生運動や反戦運動は大きな広がりを持ち、世界的にも若者の反乱が起きていた。
だが、70年安保は自動継続され、大学闘争も敗北していく。大衆運動はしぼみ、革命の現実的な道筋は失われていった。
そこで一部の新左翼は、敗北を受け入れるのではなく、少数精鋭化、武装闘争、内ゲバ、海外闘争、企業爆破へ向かっていった。
ここに、新左翼の後半の悲劇がある。
彼らは最初から本気ではなかったのではない。むしろ本気だった。
しかし、その本気は、革命を実現する本気ではなく、革命家であろうとする本気へ変わっていった。
革命を起こすための運動ではなく、自分たちが革命家であることを証明するための運動になっていったのである。
現在も残っている新左翼系組織
では、新左翼は現在どうなっているのか。
現在も組織として残っている代表的なものには、中核派、革マル派、革労協系がある。かつてのように大衆運動を動かす力はないが、機関紙、集会、労働運動、反戦運動などを通じて活動を続けている。
一方、日本赤軍は2001年に解散を宣言した。ただし、逃亡メンバーの問題は残っており、警察上は完全に終わった存在とは扱われていない。
よど号ハイジャック事件を起こしたグループも、北朝鮮に残留しているメンバーの問題が残る。
東アジア反日武装戦線は、現在も活動する組織というより、1970年代に存在した歴史上の武装グループとして見るべきだろう。大道寺将司は獄中で亡くなり、桐島聡も長年の逃亡の末に名乗り出た後、死亡した。
新左翼は、現在の日本で革命を実現する勢力ではない。だが、その名前、事件、逃亡者、獄中者、機関紙、集会は、今も日本社会の内に残っている。
まとめ|新左翼とは何だったのか
新左翼とは、戦後日本の若者たちが、既成左翼を乗り越えようとして生み出した急進的な運動だった。
そこには、社会を変えたいという本気があった。
戦争、安保、資本主義、国家権力、天皇制に対する怒りもあった。
しかし、革命の現実的な道筋が失われた後、その本気はしだいに変質していく。
日本赤軍は海外へ飛び、連合赤軍は山中で自壊し、東アジア反日武装戦線は企業爆破へ向かった。中核派と革マル派は内ゲバの泥沼に入り、多くの若者たちが傷つき、命を落とした。
新左翼の歴史とは、革命を夢見た若者たちの歴史であると同時に、革命の夢が現実から切り離されたとき、人はどこへ向かうのかという歴史でもある。
彼らは革命を実現する本気を持っていた。
だが、その本気はやがて、革命家であろうとする本気へ変わっていった。
その変質こそが、新左翼という時代を理解するための核心なのかもしれない。
新左翼の流れをさらに理解するには、小熊英二『1968』や絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』が参考になる。前者は全共闘運動から連合赤軍にいたる時代を大きく整理した研究書であり、後者は1968年を世界的な革命の時代として読み解く批評書である。
赤軍派を人物から知るなら、元赤軍派議長・塩見孝也の『赤軍派始末記』がある。連合赤軍については、若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』が、山岳ベース事件とあさま山荘事件へ至る過程を映像でたどる作品として見やすい。
また、東アジア反日武装戦線については、高祐二『「狼」と「さそり」そして「大地の牙」』が新しい。桐島聡の逃亡事件をきっかけに関心を持った人にも読みやすい一冊だろう。
国内だけにとどまらず、海外に出ていった組織は、日本赤軍だった。
新左翼の運動は、1970年代以降に大きく衰退していった。象徴的な組織として連合赤軍がある。大衆がテレビにくぎ付けになり、新左翼運動と決定的な距離を持つようになったのは、連合赤軍の自壊だった。
武装闘争や資金獲得のための強盗といった発想は、組織の外側にも影を残した。
若いころに左翼運動の影響を受け、銀行強盗や現金輸送車襲撃によって武装行動の資金を得ようとした中村泰は、その残響を考えるうえで重要な人物である。






