最近、どうも書く気がしない。書く気がしないから、書いていない。本当にそうなのだろうか。もしかしたら、これを俗に、書けなくなった、というのではないか。
書けないのか?
書かないのか?
この2つは、心象においては全く違うのだが、結果としては同じなのだ。事実としては、ただ、書いていない、ということだ。
今回は、この書かないのか書けないのか問題について考えてみたい。
書かないのか書けないのかを問い詰める
まず、私は私に、こう問いたい。
書きたい気持ちはあるのか?
すると特に考えるまでもなく、書きたい気持ちはある、とすぐに私の中の私の答えは出た。
ならば、なぜ、書かないのか?
書く気になれない。
なぜ、書きたい気持ちはあるのに、書く気にはなれないのか?
長期的視野においては、書きたい気持ちはある。だが、今日は書きたくない。明日も書きたくない。明後日はまだわからない。
書きたい気持ちというのは、作家であるという自意識を失わない為の方便ではないのか?
それもあるかもしれない。
本当はもう書くことに飽きたのではないのか?
確かに飽きたのかもしれない。その『飽きた』を問い詰めると、今の人生に新しい何かが減ってきたからかもしれない。もうほとんどのことで驚かない。好奇心も減退した。視野を広げればいくらでも知らないことがある。だが、興味が薄れた。新しい出来事も、新しいと感じない。全てが「どっかで見たことある」となってしまった気もする。
ならば、どうする?
最後に、結論を書こう。
まとめ
もし書くことを人生の真ん中に置いてしまったなら、書くことでしか生きられない。書かなければ、肉体は生きていても、心が死んでしまう。
ただ、これまで通りのスタイルでは書けないようだ。少年から中年、そして老人への、人生の転換点だからだ。人生の分岐点の前で、どこにも進めず、立ち止まっているのが今だ。
だが、もうここは行き止まりだ。どちらかに進むしかないのだろう。誰も通っていない未知の道を生きているから、お手本の先達はいない。未知の経験を得るために、(自分にとって)新しいことをやり続けるしかない。
書きながら、生きる。生きながら、書く。
まあ、ぼちぼち。