人は失ったものを抱えたまま、それでも流れ続ける。氷は止まっているようで、内部ではわずかに動いている。それは、移り変わる社会の中で心を隠して生きる人の“記憶”や“心”と同じだ。
僕は、大学を中退してから2年ほど、定職につかずに過ごしていた。鬱というほどではないが、病院に行けばうつ病と診断されたのかもしれない。将来に対する希望は全く抱けず、ノストラダムスの予言が当たるはずだ、と本気で思っていた。いや、この夏には世界が滅びると信じたかった。
ただ、お金がない……。何かを始めなければと思った。その時、新聞の求人欄で「期間工募集」という文字を見つけた。
第一章 春、工場の音(4月)
朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白かった。派遣会社の送迎バスは、日の出前の暗い県道をまっすぐ走っていた。埋立地の海岸線に沿うように工場群が現れる。まるで空爆を受けた町のように、そこかしこの煙突の先から、細い煙が立ち上っていた。
工場ではみな、同じ灰色の制服を着ていた。ラインの音が途切れることはなく、休憩の時間になると、みんな無言で自販機の前に並んだ。僕もその一人だった。
ある日、ラインの向こうに見慣れない顔があった。小柄で、髪を後ろでまとめている女性。名前を知ったのは、それから3日後だった。杉本美樹。20歳。同じ派遣会社から派遣されていた。
昼休み、たまたま同じテーブルになったとき、彼女が言った。
「このあたり、風が強いよね」
僕はただ、「うん、強い」と答えた。
その会話が、春の工場で交わした最初で最後の言葉だった。
その夜、寮の窓を開け、煙草を吸っていた。いつものように強い風が波のように吹き抜けていく。僕たちは、何も、抵抗したいわけじゃないんだ。ただずっと向かい風なだけだ。
第二章 雨の灯り(6月)
六月の氷坂は長い雨に覆われた。昼間でも薄暗く、工場の照明がぼんやり光っていた。外に出ると、濡れたアスファルトの匂いが立ちこめる。
その日、美樹がラインを外れて休憩室に座っていた。顔色が悪く、手に桃色のキティちゃんのタオルを握りしめていた。僕は一瞬だけ立ち止まり、何も言わずに隣に座った。彼女は僕に気づき、かすかに笑った。
「眠れない夜が続いてて……。なんか、ここにいるとずっと同じ日を繰り返してる気がしない?」
僕は何も返せなかった。ただ、雨の音だけが聞こえていた。屋根を叩く、一定のリズム。時間の底に、何かが少しずつ沈んでいくようだった。
その夜、僕は初めて彼女と寮の近くの食堂に行った。カウンターに並んで座り、うどんを食べながら、他愛もない話をした。彼女は地元が宮崎だと言った。帰り際、駅前の公衆電話の下で彼女が小さくつぶやいた。
「未来って言葉が、とても遠くにある感じ」
その言葉が、僕の胸のどこかに残った。僕たちに未来なんてない。僕たちは、ただ過去の清算をするために産み落とされた世代なんだ。
翌朝、空襲警報のような工場のサイレンが鳴るまで、ずっとその余韻が消えなかった。
第三章 夏の予言(7月)
七月。起こるはずだったノストラダムスの大予言も影を潜めてきた。世界は微動だにせず眼前にひろがっている。熱気のなかで機械の音はいつもより鈍く響いた。昼休み、外のベンチに腰を下ろすと、蝉の声がいくつも重なっていた。
美樹は髪を短く切っていた。「重たかったから、さっぱりしたくて」と言いながら笑った。その笑い方に、どこか決意のようなものがあった。
ある夜、工場の帰りにふたりで川沿いを歩いた。街灯の少ない道で、水面が月をかすかに映していた。
「ねえ、もし世界が終わるとしたら、どんな音がすると思う?」
突然の問いに、僕は言葉を探した。
「無音。ただ全てが止まる」
彼女はうなずいて、「予言みたい」と言った。
それから、美樹は姿を見せなくなった。彼女の部屋の明かりも点かない夜が続いた。噂では、地元に帰って別の仕事を探しているらしいと聞いた。
八月のはじめ、工場の掲示板に新しい配属表が貼られたが、そこに彼女の名前はなかった。僕はただ、紙を眺めたまま立ち尽くしていた。
第四章 秋の影(10月)
風の匂いが変わった。稲刈りの終わった田んぼが金色に光り、遠くの山が青く霞んでいた。僕の契約も残り二ヶ月だった。更新するつもりはなかった。
ある休日、商店街の古い喫茶店で偶然、美樹を見かけた。制服ではなく、薄い紫色のセーターを着ていた。向かいの席には誰もいなかった。僕が近づくと、彼女は少し驚いたように笑った。
「もうすぐ福岡に行く。介護の学校に受かったから。今日は部屋の荷物を取りに来ただけ」
彼女はコーヒーの湯気の向こうでそう言った。
「ここでは、時間が止まってるみたいで。だから動かないと、私まで止まっちゃう気がして。村井さんは動かないの?」
僕はそれを聞いても何も言えなかった。ただ、窓の外で落ち葉が舞うのを見ていた。
最後に別れ際、彼女が言った。
「村井さんは、きっとこの町に残ると思う。でも、それは悪いことじゃないと思う」
その言葉が何を意味するのか、分からなかった。ただ、胸の奥が少しだけ痛んだ。僕は動けない。理由はないけど、そんな気にすらなれなかった。どこに行っても変わらない。
第五章 沈黙する氷河(12月)
十二月。工場の屋根には雪が積もり、空は灰色に沈んでいた。作業の合間に外を見ると、風に舞う雪が光を反射していた。
契約の最終日、僕は制服を返却した。ロッカーの奥に残っていた作業手袋を捨て、リュック一つで寮の部屋を出た。最後郵便受けを見ると、一通の封筒が入っていた。差出人のところに『美樹』とだけ書かれてあり、住所はなかった。中には小さな便箋が一枚入っていた。
「この町の冬は、まだ私の中に残ってる。あの川の音を、今もときどき思い出す。あなたが黙っていたことが、今になって分かる気がする」
雪が静かに降っていた。町全体が、音を失った風景の中で眠っていた。世界が白い膜に包まれていくようだった。
あの夏の夜に話した「音のない終わり」が、いま現実になったような気がした。世界は終わったんだ。けれどそれは終わりの終わりではなく、永遠に続く終わりの始まりのような気がした。
氷坂川のほとりを歩く。水面の下で、凍った氷がわずかに割れる音がした。僕たちは、誰にも見えず、やがて溶けて消えていく。
たぶん、僕たちの世代に意味はない。
煙草に火をつけて、静かに煙を吐き出した。白い煙が空に消えていった。その消えゆく瞬間の温度だけが、確かに生の証のようだった。僕は町の静寂を背に、ただ歩き続けた。どこに行っても同じだとわかっていたけど、なるべく遠くまで自分の足で歩いて行きたかった。
(了)
