子どもの頃は、トウモロコシが大好きだった。
夏になるとトウモロコシが恋しくなった。
縁日のしょうゆの香り漂うトウモロコシだ。
だが、年を追うごとに、トウモロコシを食べることをためらう様になっていった。
なぜか?
歯に詰まるからだ。
だから食べたい衝動に駆られても、実際は何年も食べていない。
現実と理想は違う。
それでも恋しいトウモロコシ
このようなトウモロコシへの歪んだ愛着は、恋にも似ている。
今でも娘くらいの若い女性と恋におちるような妄想を思い描く。
あの感覚とトウモロコシは似ている。
実際は「歯に詰まるから」現実的ではない。
どうせ歯に詰まり後味が悪い恋の結末が待っている。
美味しいだけのトウモロコシではない。
美味しいトウモロコシの記憶は、時間旅行の思い出だ。
トウモロコシ顔
何となく私はトウモロコシに似ている気もする。
だからトウモロコシが好きなのか?
たぶん関係ないと思う。
関係ないと思いたい。
もしかしたら関係あるのかもしれない。
人の深層心理には何かが隠れている。
私はトウモロコシ。
トウモロコシは私。
そんな気がしないでもない。
まとめ
今回は、トウモロコシについて書いた。
食べたいが「歯に詰まるから」食べたくない。
「30万円くらいかけ差し歯などを駆使し歯の隙間をなくせば?」
「ああ、そうだね」
そうすれば美味しくトウモロコシを食べられるかもしれない。
だが果たしてトウモロコシに30万円の価値があるのだろうか?
価値基準は人それぞれ。
もし30万円かけてでもトウモロコシを(ストレスなく)食べたい気持ちになれば、歯医者に行けばいい。
30万円かけてでも恋をしたければすればいい。
年をとりストレスなく人生を謳歌するには金がかかる、という事かもしれない。
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