今までどちらかというと全ての失敗を他人のせいにしてきたが、半世紀近く生きてきたせいかどうやら失敗の原因は私かも?と妙にお利口さんな考えを持つことが多くなった。
これはよくない。
精神用語で他罰と自罰という概念があるが、感覚としては自罰的であればそりゃお利口さんなんだが最悪自殺するんじゃないかと思われる。自殺までいかなくてもその手前でせいぜいよくてウツになるのは間違いないだろう。自分を責める自責の念は精神衛生上よくない。やけ酒でアル中になるかもしれないし、うつ病でヤク中になるかもしれない。
だが私もそうだがエリート街道を歩いてきた自称IQが高いと思っている人間にとって失敗は恥となり汚点となるから、軽く笑い飛ばすにはそれ相応のロジックが必要になる。
ということで。
今回は、この自罰的と他罰的について深く掘り下げてみたい。
自罰(自責の念)の回避策
何かの失敗をするとしよう。その失敗には自分自身が悪い部分がもちろんある。
しかし、反面、相手が悪いことも多々ある。
全ての失敗の原因を自分でしょい込めば、それはもう自殺への入り口だ。自分を否定する思考や行為は精神的にはマイナスだからだ。
ここからは自責の念を排除する考え方を紹介する。
そもそも失敗の原因は複雑
そもそもどちらが悪いのかは立場により異なるはずだ。
たとえば甲子園出場してエラーをして負けたとする。これは自分を責めてしまいがちだが、しかしバタフライエフェクト理論で考えてみてくれ。そのボールがそこに来るまでに色々な要素が絡み合っているのだ。もしかしたらグラウンド整備がよくなかったかもしれない。打たれたピッチャーが悪いのかもしれない。夕べ母が作ってくれたカレーで食当たりになっていたのかもしれない。同部屋のチームメイトがクーラーを効かせ過ぎて体調を壊してしまっていたかもしれない。あるいは監督のポジション配置がよくなかったかもしれない。
とにかくどこまで遡るかによってあらゆる原因が見つかるはずだ。
失敗の原因は一つではない。
自分を否定する根拠は希薄
他の事例に関しても簡単に自分を責められる根拠は希薄だ。
よく考えれば何も悪くないではないか?
悪いのは地球だ、宇宙だ、ビックバンだ!
そう、これでいい。とにかく自分を否定する必要は全くない。かといって誰も否定する必要もないのだ。
恨むなら宇宙を呪え!
そして「人生に失敗はつきものだ!」くらいの軽い心持ちでいればいい。
失敗は成功の元!
君子危うきに近寄らず!
大事なのは、バカの相手をしないことと自分がバカになる場所には近づかない事。仕事での失敗を苦に自殺するエリート官僚は適材適所に自分自身を配置していないのだ。人間は社会的な存在であるが社会の論理に自分自身の論理を合わせる必要はない。社会はそうでも私はこう。それが法に触れていなければ全て自由だ。
自分の味方は自分だけ
もし私が私を否定すれば、どうなる?
もうこの世に味方は1人もいなくなるだろう。自分の味方をしてくれるのは最終的には自分自身だけ。親が生きていれば親も味方するかもしれないが、もう死んだ。たとえ生きていたとしても、それで「ヨシヨシ、辛かったね~」と頭を撫でられても根本的には何も解決しない。
親子は一世。私を師と仰ぐ人がいる限り私の人生は最低でも3世は続く。
自罰より他罰がマシな理由
ここまで考えて既に結論は出ている。
自罰的な人間より他罰的な人間の方が精神衛生上いいのは間違いない。
精神的健康は他罰的で能天気な奴にだけ訪れるのだ。私は悪くない、あいつらがバカだ。これで相手を責めると一般人だが、ここからが私の教えは一味違う。バカはもう相手にしない。これくらいがいいのだ。
ここで、もしかしたら「反省がない人生は何の成長もしない」としたり顔でのたまう良識人もいるかもしれないが、無視していい。死ぬよりマシだ。
詩:他罰のすすめ
他罰のすすめ。
バカはおまえ。
おれは正しい。
おれはおまえの邪魔をしない。
だからおまえもおれの邪魔をするなよ。
いいかわかったか!
失敗してもいい。
人間なんだから。
そんなもんだろう。
おまえが一度も失敗したことない人間ならおれを責めろ。
そんな奴はこの世にいるはずがない。
そうイエスキリストも言ってるぜ!
まとめ
日本社会ではなぜか自罰的が良いとされる。
しかし、精神的健康の為には他罰的の方が良い。
自分に腹が立つということは自殺への一歩だ。
結論としては、こうだ。
以上。