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雨宮処凛とは何者か|右翼パンクから反貧困へ向かった氷河期世代の作家

雨宮処凛とは何者か 書物私論

雨宮処凛という名前を聞いたことはあっても、何をしてきた人物なのかを説明するのは意外と難しい。

作家。活動家。愛国パンク。ミニスカ右翼。ゴスロリ。反貧困。プレカリアート。

彼女につけられてきた言葉は多い。

だが、雨宮処凛を単に「右翼から左翼へ移った人」と見ると、その輪郭を見誤る。

彼女の人生を貫いているのは、政治思想の変化というより、むしろ「生きづらさをどの言葉で語るか」という問題だった。

若い頃、その言葉は愛国パンクや新右翼の形をとった。
その後、それは反貧困、非正規雇用、ロスジェネ、プレカリアートという社会の言葉へ移っていく。

この記事では、雨宮処凛とは何者なのかを、愛国パンクから作家デビュー、そして反貧困運動へ至る流れの中でたどっていく。

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雨宮処凛とは何者か

雨宮処凛は、1975年、北海道生まれの作家・活動家である。

若い頃は愛国パンクバンドのボーカルとして活動し、1990年代末には「ミニスカ右翼」とも呼ばれた。2000年には自伝的エッセイ『生き地獄天国』で作家デビューし、その後は反貧困、非正規雇用、生活保護、プレカリアート問題などを扱う論者として知られるようになった。

この経歴だけを見ると、かなり異色である。

普通の作家デビューではない。
普通の活動家でもない。
そして、普通の右翼でも左翼でもない。

雨宮処凛は、最初から整った思想を持っていた人物というより、社会の中で自分の居場所を見つけられない感覚を、さまざまな言葉に変えながら生きてきた人物である。

だから彼女を理解するには、思想の肩書きよりも、まずその「移動」を見る必要がある。

右翼から左翼へ。
パンクから文筆へ。
自分の生きづらさから、社会の貧困問題へ。

その移動の中に、雨宮処凛という人物の核心がある。

北海道から東京へ、そして愛国パンクへ

雨宮処凛の出発点には、強い生きづらさがある。

自分の居場所がない。
社会にうまく入れない。
普通の人生のレールに乗れない。

その感覚は、1990年代後半の日本社会の空気とも重なっていた。

バブルは崩壊し、就職氷河期が始まり、若者の未来は急速に細くなっていった。努力すれば報われるという物語が、静かに壊れ始めていた時代である。

その中で、雨宮処凛は愛国パンクへ向かう。

1998年、彼女は愛国パンクバンド「維新赤誠塾」を結成する。

これは単なる音楽活動ではなかった。

そこには、社会に適応できない自分を、どうにか強い言葉で支えようとする感覚があったのではないか。

国家。天皇。愛国。右翼。パンク。

それらは、彼女にとって最初から完成された思想だったというより、壊れそうな自分をつなぎとめるための言葉だったように見える。

雨宮処凛の愛国パンクを考えるとき、パンクロックが持っていた「社会に対する違和感の表現」という側面は見逃せない。

反骨、疎外感、怒り、そして居場所のなさ。

そうした感情を音楽に変えた存在として、日本のパンクロックシーンにはストラマーズもいた。

関連記事:ストラマーズとは何だったのか

『新しい神様』とミニスカ右翼

1999年、雨宮処凛はドキュメンタリー映画『新しい神様』に出演する。

この作品によって、彼女は「ミニスカ右翼」として知られるようになっていく。

「ミニスカ右翼」という言葉には、時代の違和感が詰まっている。右翼といえば、街宣車、黒い服、硬い政治思想というイメージがある。

しかし雨宮処凛は、そこにパンク、若者文化、女性の自意識、生きづらさを持ち込んだ。

つまり彼女は、伝統的な右翼の中に突然現れた異物でもあった。

雨宮処凛は、政治の世界に入ったというより、政治の言葉を借りて、自分の苦しさを表現しようとしていた。

その意味で、彼女の愛国パンクは、政治運動であると同時に、自己表現でもあった。

社会に受け入れられない。
普通の若者として生きられない。
ならば、過激な言葉を身にまとってでも、自分の存在を示す。

雨宮処凛の初期の姿には、そのような切実さがあった。

新右翼の磁場と見沢知廉

雨宮処凛の出発点を考える上で、新右翼の磁場は避けて通れない。

新右翼は、単なる街宣右翼とは違う。

戦後日本の中で、国家、天皇、反体制、民族、左翼批判、文学的自意識が入り混じった独特の運動空間だった。

そこには、政治思想だけではなく、社会から外れた若者の孤独や破滅願望も吸い寄せられていた。

雨宮処凛も、その磁場に触れた一人だった。

特に重要なのが、見沢知廉との接点である。

見沢知廉は、左翼運動、新右翼、事件、獄中生活、文学を一身に背負った作家である。政治運動と文学、暴力と自意識、思想と破滅が絡み合った人物だった。

雨宮処凛は、見沢知廉を「師匠的な存在」として語っている。

ここで重要なのは、雨宮処凛が見沢知廉の政治思想をそのまま受け継いだということではない。

彼女が受け取ったものは、もっと根本的なものだったのではないか。

それは、社会に適応できない自分を、文章に変える方法。生きづらさを、言葉にする方法。破滅に向かいそうな自意識を、文学へ変換する方法である。

見沢知廉が、戦後政治運動の残り火を文学にした人物だとすれば、雨宮処凛はその火を、氷河期世代の生きづらさへ移した人物だった。

関連記事:見沢知廉とは何者だったのか

『生き地獄天国』で作家になる

2000年、雨宮処凛は自伝的エッセイ『生き地獄天国』で作家デビューする。

このタイトルは、彼女の初期の世界観をよく表している。

生きることが地獄である。
けれど、その地獄を言葉にすることで、かろうじて天国へ反転させようとする。

雨宮処凛の文章には、きれいに整理された社会批評というより、まず自分の痛みがある。

だから雨宮処凛は、最初から「社会問題を語る人」だったわけではない。

はじめは、自分の生きづらさを語る人だった。

しかし、その生きづらさを突き詰めていくうちに、やがて個人の問題ではなく、社会の問題にぶつかっていく。

なぜ自分は苦しいのか。
なぜ自分のような人間が増えているのか。
なぜ若者は不安定な生活に追い込まれているのか。

そう問いを広げていくことで、雨宮処凛の文章は、個人の告白から社会批評へ移っていく。

右翼から左翼へ、ではなく「言葉の移動」

雨宮処凛は、しばしば「右翼から左翼へ移った人」のように語られる。

たしかに表面的には、そう見える。

若い頃は愛国パンク、新右翼周辺にいた。
その後は、反貧困、非正規雇用、生活保護、格差問題を語るようになる。

しかし、それを単なる転向として見ると、彼女の本質を取り逃がす。

雨宮処凛の場合、変わったのは根っこの問いではない。
変わったのは、その問いを語るための言葉だ。

若い頃の彼女は、自分の居場所のなさを「国家」や「愛国」の言葉で語ろうとした。
だが、やがてその苦しさは、雇用、貧困、非正規、孤立、ロスジェネという言葉で語られるようになる。

つまり雨宮処凛は、右翼から左翼へ移動したというより、個人的な生きづらさを、より社会構造に近い言葉で言い直していった人物なのである。

自分が苦しいのは、自分が弱いからなのか。
それとも、社会の仕組みが人間を苦しくさせているのか。

この問いの変化が、雨宮処凛を作家から活動家へ、さらに反貧困の論者へ押し出していった。

反貧困へ向かった氷河期世代の作家

2000年代半ば以降、雨宮処凛は格差・貧困問題に本格的に取り組むようになる。

非正規雇用、ワーキングプア、生活保護、若者の貧困、プレカリアート。

彼女の言葉は、個人の生きづらさから、社会の構造へと広がっていった。

プレカリアートとは、不安定な雇用や生活を強いられる人々を指す言葉である。

雨宮処凛は、この言葉を通じて、かつて「自己責任」として片づけられていた苦しみを、社会の問題として語り直した。

雨宮処凛は1975年生まれである。
つまり、就職氷河期世代の前線にいる人物でもある。

この世代は、社会に出る時期にバブル崩壊後の不況とぶつかった。正社員の入口は狭くなり、非正規雇用が広がり、人生の土台を作る時期に社会の側から梯子を外された。

正社員になれない。
結婚できない。
家族を持てない。
将来が見えない。
社会の中で自分の席がない。

そうした苦しみは長い間、「努力不足」「甘え」「自己責任」として処理されてきた。

雨宮処凛は、その空気に対して、個人の弱さではなく社会構造の問題だと言葉を与えた。

その意味で、彼女は単なる反貧困運動の人ではない。
氷河期世代の生きづらさを、政治と文学の間で言葉にした作家なのである。

現在も雨宮処凛は、貧困、生活保護、非正規雇用、若者の孤立などをテーマに発信を続けている。

かつて愛国パンクとして叫んでいたものは、いまでは社会保障や労働問題の言葉になっている。
それは思想の変化というより、自分の苦しさをより正確に説明するために、言葉を探し続けてきた結果だったのだと思う。

現在でも、氷河期世代の孤立は、さまざまな形で表に出てきている。

社会の正規ルートから外れた人間が、ネット上で自分の存在を語ろうとする姿は、ひきこもりYouTuberという現象にもつながっている。
また、家庭崩壊、宗教二世問題、孤立、社会への届かなさが最悪の形で噴き出した事件として、山上徹也事件もある。

もちろん、雨宮処凛と山上徹也を同列に扱うことはできない。

一方は言葉と運動へ向かい、もう一方は取り返しのつかない暴力へ向かった。
だが、社会に自分の席がないという感覚、普通の人生からこぼれ落ちた感覚、苦しさを誰にも説明できないまま抱え込む感覚は、同じ時代の地層にある。

雨宮処凛は、その地層に早い段階で言葉を与えた人物だった。

関連記事:ひきこもりYouTuberとは何なのか
関連記事:山上徹也事件とは何だったのか

まとめ

雨宮処凛とは何者なのか。

一言でいえば、生きづらさを政治と文学の言葉に変えた作家である。

若い頃、彼女は愛国パンクに向かった。
新右翼の周辺にいた。
見沢知廉という、政治運動と文学の境目にいた作家から強い影響を受けた。

しかし、そこで終わらなかった。

彼女は、自分の苦しさを右翼の言葉だけに閉じ込めず、やがて反貧困、プレカリアート、非正規雇用、生活保護、ロスジェネの問題へ向かった。

それは、思想の変節というより、問いの深化だ。

自分はなぜ苦しいのか。

その問いが、やがてこう変わっていく。

なぜ、この社会では多くの人が苦しいのか。

雨宮処凛の人生は、その問いの移動として読むことができる。

雨宮処凛の出発点を知るなら、まず『生き地獄天国』を読んでみるといい。

愛国パンク、若い頃の生きづらさ、自分の居場所を探してさまよう感覚。
反貧困運動の論者として知られる以前の雨宮処凛が、ここにはいる。

また、現在の雨宮処凛の活動や、反貧困、生活保護、非正規雇用、氷河期世代の生きづらさに関心がある人は、ほかの著作もあわせて見ておきたい。

雨宮処凛の書籍一覧

生きづらさを自分だけの失敗だと思わされてきた人にとって、雨宮処凛の本は、その苦しさを社会の言葉で考え直す入口になる。

また、氷河期世代の孤立が別の形で噴き出した事件として、山上徹也事件も避けて通れない。
雨宮処凛が言葉と運動へ向かった人物だとすれば、山上徹也は、言葉にならなかった孤立が暴力へ向かってしまった人物でもある。

さらに、社会の正規ルートから外れた人間がネット上で自分の存在を語る姿は、ひきこもりYouTuberという現象にもつながっている。

関連人物としては、鈴木邦男がいる。

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