『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは、もうずいぶん昔のことである。
細かな場面は忘れてしまった。
それでも、読み終えたあとに残った感覚だけは覚えている。
純粋であろうとすると、最後には精神病院に行くしかないのか。
当時の私は、この小説をそんな物語として受け取った。
もちろん、J・D・サリンジャーがそのような結論を書いているわけではない。
しかし、大人の世界にある嘘や虚飾を嫌い続けた少年ホールデン・コールフィールドが、最後には社会から少し離れた場所で療養している。
その構造が、私には妙に重く残ったのである。
『ライ麦畑でつかまえて』とは
『ライ麦畑でつかまえて』は、J・D・サリンジャーが1951年に発表した小説である。
主人公は16歳の少年、ホールデン・コールフィールド。
成績不良によって寄宿学校を退学することになったホールデンは、正式に家へ帰る日を待たず、学校を飛び出す。
そしてニューヨークをさまよう。
ホテルに泊まり、昔の知人に会い、酒を飲もうとし、女性と関わり、かつての教師を訪ねる。
しかし、物語を大きく動かす事件が次々と起きる小説ではない。
むしろ中心にあるのは、ホールデンの目である。
彼は周囲の人間を見ては、嘘っぽい、気取っている、くだらないと切り捨てていく。
大人の世界そのものを信用していない。
ホールデンが嫌っているのは「大人」ではない
ホールデンは反抗期の少年である。
そう説明すれば簡単である。
しかし、それだけでは少し違う。
彼が嫌っているのは年齢としての大人ではない。
人間が大人になる過程で身につけていく「虚飾」や「演技」や「建前」のようなものなのである。
本当は興味がないのに興味があるふりをする。
人によって態度を変える。
金や地位で人を見る。
くだらないものを素晴らしいと言う。
社会の中で生きていれば、程度の差こそあれ誰でもやっていることだ。
それをホールデンは許せない。
ところが皮肉なことに、ホールデン自身も嘘をつく。
人を馬鹿にする。
自分勝手でもある。
孤独になりたいようなことを言いながら、誰かに電話をする。
人間が嫌いなのではない。
むしろ、人間を必要としすぎている。
ここにホールデンの苦しさがある。
「ライ麦畑でつかまえる」とは何なのか
タイトルにつながる有名な場面がある。
ホールデンは妹フィービーに、自分がなりたいものについて語る。
広いライ麦畑で子どもたちが遊んでいる。
その先には崖がある。
子どもが気づかず崖から落ちそうになったら、自分が捕まえる。
そんな役目をしたいというのである。
ここでいう崖は、単なる崖ではない。
子どもの世界から大人の世界へ移ってしまう境界とも読める。
ホールデンは、大人になることそのものを止めたいわけではない。
子どもの中にある何かが失われる瞬間を止めたい。
だから「キャッチャー」になろうとする。
しかし、それは不可能である。
子どもは大人になる。
自分自身も大人になる。
誰もライ麦畑に永遠にはいられない。
弟アリーの死
ホールデンを単なる反抗的な少年として読めない最大の理由の一つが、弟アリーの存在である。
アリーはすでに亡くなっている。
ホールデンにとってアリーは、失われてしまった子どもである。
つまりホールデンは、まだ生きている子どもたちが崖から落ちないようにしたいと願う一方で、すでに一人の子どもを失っている。
しかも、それは自分にはどうすることもできなかった死だった。
だから彼の「ライ麦畑で子どもを捕まえたい」という願いには、単なる理想主義だけではなく、喪失も重なっている。
もう誰も失いたくない。
しかし、人間は失われる。
子ども時代も失われる。
その現実をホールデンは受け入れることができない。
純粋であろうとすると、社会から外れていく
ここが、私がこの小説を読んだとき最も強く感じた部分だった。
社会には嘘がある。
打算がある。
体裁がある。
金銭がある。
性がある。
人間関係の駆け引きがある。
そして大人になるということは、そのすべてを肯定することではないにせよ、ある程度は折り合いをつけて生きることである。
ホールデンには、それができない。
嘘を嘘として見抜いてしまう。
インチキをインチキとして口にしてしまう。
それなら正しいではないか。
そう思いたくなる。
しかし、それだけでは人間社会の中では生きられない。
純粋さを絶対的なものにしてしまえば、今度は自分自身の矛盾にも耐えられなくなる。
なぜなら、自分だって嘘をつくからである。
自分だって誰かを傷つける。
自分だって完全に純粋ではない。
ホールデンの世界は、そこで行き場を失っていく。
社会に適応するために、自分の中にある違和感や痛みを押し込める。
それができない人間は、ときに「扱いにくい人間」として社会の外側へ押し出されていく。
そう考えると、ホールデンとはまったく別の時代、別の場所を生きた人物ではあるが、鬼束ちひろにもどこか通じるものがある。
自分を社会に合わせるのではなく、むしろ自分の中にある痛みや違和感を、そのまま歌や言葉として外に出した人物である。
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ホールデンは最後に精神病院へ入るのか
私の記憶では、この小説の最後にホールデンは精神病院に入っていた。
改めて確認すると、少し違う。
作品は施設の種類を明確には説明していない。
ホールデンはニューヨークでの出来事のあと体調を崩し、療養施設のような場所に入り、そこで精神分析医とも接している。
そのため精神科施設や療養所と解釈されることが多いが、作品そのものは具体的な病院名や診断名を提示しているわけではない。
重要なのは診断名ではないだろう。
ホールデンが、普通の日常生活からいったん離れなければならないところまで追い詰められたということである。
そして小説そのものが、その施設にいるホールデンによる回想として語られている。
つまり最初から読者は、壊れたあとにいるホールデンの話を聞いていたことになる。
「純粋な少年が狂った」という話ではない
ただし、
「純粋だったから精神を病んだ」
と単純化するのも違う。
ホールデンには弟の死がある。
孤独がある。
家族との距離がある。
学校への不適応がある。
さまざまなものが重なっている。
それでも私は、この小説から、
純粋さだけでは社会の中で生きていけない
という冷たい感触を受け取った。
社会に適応するためには、何かを許さなければならない。
そして時には、自分自身もインチキの側に立たなければならない。
ホールデンには、それができなかった。
あるいは、まだできなかった。
回転木馬でホールデンは少しだけ変わる
だからこそ、終盤のフィービーと回転木馬を見る場面が重要になる。
フィービーが回転木馬に乗っている。
ホールデンはそれを見ている。
子どもが何かに手を伸ばせば、落ちるかもしれない。
以前のホールデンなら、落ちる前に自分が捕まえなければならないと考えただろう。
しかし、この場面では少し違う。
子どもは危険を冒して手を伸ばす。
落ちるかもしれない。
それでも、やらせるしかない。
ホールデンは初めて、子どもを「守ること」と「成長を止めること」が同じではないと気づき始めたようにも見える。
ライ麦畑のキャッチャーは、すべての子どもを捕まえることはできない。
人間はいつか崖の向こう側へ行かなければならないのである。
純粋さを捨てるのではなく、純粋さだけでは生きられない
若い頃の私は『ライ麦畑でつかまえて』を読んで、
純粋であろうとすると、精神病院に行くしかない。
そんな印象を持った。
今なら少しだけ違う。
サリンジャーが描いたのは、純粋であることの敗北ではないのかもしれない。
純粋さだけを抱えて生きることの困難さだったのではないか。
人間はインチキである。
社会にもインチキがある。
そして自分自身にもインチキな部分がある。
それでも完全に冷笑する側には回らず、何かを大切にしながら生きていく。
その難しさを、ホールデンは16歳で突きつけられた。
ライ麦畑から落ちる子どもを、永遠に捕まえ続けることはできない。
いつか手を離さなければならない。
たぶん大人になるということは、そのことを受け入れるところから始まるのである。
村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
日本では長く、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』という題名で知られてきた。
2003年には村上春樹による新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が白水社から刊行された。
今回あらためて読むなら、私は村上春樹訳を選びたい。
ホールデンの語りそのものが作品の大部分を占める小説だからこそ、訳文によって受ける印象も変わる。
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村上春樹は小説家としてだけでなく、多くの海外文学やノンフィクションを日本語に訳している。
その中でも、私が特に強く印象に残っているのがマイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』である。
『ライ麦畑でつかまえて』とはまったく違う作品だが、人間がどこで壊れていくのか、そして家族や社会が一人の人間をどう形作っていくのかという意味では、どこか遠くでつながっているようにも思える。
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