1988年に公開されたトム・クルーズ主演の映画『カクテル』。
若いバーテンダーがボトルを投げ、酒を作り、客を沸かせる。
ジャマイカの海、「Kokomo」の音楽、若いトム・クルーズ。
1980年代の華やかさを、そのまま映画にしたような作品である。
しかし、この映画には原作小説がある。
ヘイウッド・グールドの『カクテル』である。
そして小説を読むと驚く。
本当にこれが、あの映画『カクテル』の原作なのかと思うほど暗い。
映画が、これから人生を切り開いていく若者の物語なら、小説にいるのはニューヨークの酒場で働き続けながら、なかなか人生が上向かない男である。
私が原作を知ったのは、村上龍の文章からだった。
『すべての男は消耗品である。Vol.2』には「ヘイウッド・グールドの『カクテル』を読んだかい?」という一篇が収録されている。
そして何十年経っても、妙に記憶に残っている場面があった。
二日酔いの朝。
ビールとトマトジュース。
そして、その中に落とされた生卵。
レッドアイである。
トム・クルーズ主演の映画『カクテル』とは
映画『カクテル』は1988年公開。
監督はロジャー・ドナルドソン。
主人公はトム・クルーズ演じるブライアン・フラナガン。
軍を除隊してニューヨークへ戻ったブライアンは、成功を夢見て仕事を探す。
しかし学歴も経験もない。
思うような職には就けず、生活のためにバーテンダーとして働き始める。
そこで出会うのが、ブライアン・ブラウン演じるダグラス・ダグ・コグリンである。
ダグは酒の作り方だけでなく、バーテンダーとして客を魅了する方法をブライアンに教えていく。
やがて二人は、ボトルやシェーカーを投げたり回したりしながら酒を作る「フレア・バーテンディング」を披露し、客を巻き込む派手なパフォーマンスで人気者になっていく。
その後、友情は壊れ、ブライアンはジャマイカへ渡り、エリザベス・シュー演じるジョーダンと出会う。
金、成功、恋愛。
何を手に入れれば幸福になれるのか。
映画『カクテル』は、華やかな表面の下にそうしたテーマも持っている。
とはいえ、その中心にいるのはあくまで未来のある若者である。
『カクテル』は世界的な大ヒット映画になった
公開当時、批評家からの評価は決して高くなかった。
しかし観客は映画館へ行った。
映画『カクテル』は世界で約1億7000万ドルを稼ぐ大ヒットとなった。
若いトム・クルーズ。
派手なフレア・バーテンディング。
ニューヨークとジャマイカ。
恋愛。
商業映画として非常に分かりやすい魅力を持っていた。
現在でも『カクテル』と聞けば、トム・クルーズがバーの中でボトルを放り投げる姿を思い浮かべる人は多いだろう。
ところが、原作小説には、その印象とはまったく異なる世界が広がっている。
原作はヘイウッド・グールドの自伝的小説
原作者ヘイウッド・グールドは、作家として成功する以前、ニューヨークでバーテンダーとして働いていた。
その経験が強く反映されているのが小説『カクテル』である。
日本では芝山幹郎訳で文春文庫から刊行された。
映画を見たあとに原作を読むと、おそらく多くの人が戸惑う。
映画のストーリーを詳しくした小説ではない。
映画では削られたエピソードを読む本でもない。
ほとんど別の作品なのである。
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原作のブライアンは「うだつの上がらないバーテンダー」である
映画のブライアンは若い。
社会に出たばかりで、何者になれるのかまだ分からない。
失敗しても未来がある。
しかし、原作のブライアンは違う。
ニューヨークのバーで働きながら、いつまでも人生が好転しない。
酒を作る。
客を見る。
女と出会う。
酒を飲む。
また次の夜がやってくる。
成功への階段を上っているというより、同じ場所をぐるぐる回りながら消耗している男なのである。
原作者グールド自身も、原作のブライアンには、自分自身やバーで出会ったさまざまな人間が投影されていると説明している。
原作には、「これから何者になるのか」という青春映画的な問いよりも、
このまま何者にもならないまま人生が過ぎていくのではないか
という不安がある。
生卵入りのレッドアイを知るバーテンダーが、なぜほとんどいなかったのか
原作『カクテル』を読んで、妙に頭から離れなかった酒がある。
レッドアイである。
ビールとトマトジュースを合わせ、そこに生卵を落とす。
原作ではさらに踏み込んで、生卵こそが重要なのだと説明されている。赤い液体の中に浮かんだ卵が「目」のように見える。だからレッドアイなのだ、というのである。
私は小説を読んだあと、実際にバーへ行ってレッドアイを注文した。
しかし、出てきたグラスに生卵は入っていなかった。
別の店でも頼んだが、やはり入っていない。
それからいろいろなバーを巡るたびにレッドアイについて尋ねるようになったが、一度も生卵入りのレッドアイを出す店には出会わなかった。
それなら専門家に聞けば分かるだろうと思い、日本バーテンダー協会の会員がいる店も何軒か回った。
しかし、私が尋ねたバーテンダーたちは誰も知らなかった。
生卵を入れるレッドアイそのものを知らない。
「卵が目玉のように見えるからレッドアイという名前になった」という由来も知らない。
中には、映画『カクテル』を見てフレア・バーテンダーを志し、実際にフレア・バーテンダーとして自分の店を持ったマスターまでいたが、それでも知らなかった。
そこまで来ると、さすがに私の方が疑わしくなってくる。もしかして記憶違いだったのではないか。
あるいは、生卵入りのレッドアイというのはヘイウッド・グールドが小説の中だけで作った話だったのではないか。
そう思っていた。
ところが今回、映画『カクテル』を改めて見返してみると、ちゃんと出ていた。
ブライアンがダグラス・ダグ・コグリンと初めて出会う場面である。
ダグはブライアンにレッドアイを作れるかと尋ねる。
そして映画の中でも、生卵を割ってグラスへ入れている。
ほんの一瞬なので、意識して見なければ見逃してしまう。
映画について語られるときに圧倒的に印象に残るのは、ボトルを投げ、シェーカーを操るフレア・バーテンディングである。
生卵入りのレッドアイは、その華やかな映像の陰に隠れてしまったのだろう。
ただし、原作『カクテル』の説明が、そのままレッドアイの一般的な由来というわけではない。
原作では、生卵を入れない人間をダグが否定し、卵が赤い目に見えることこそ名前の由来なのだと説明する。
一方、現在の日本で一般的なレッドアイは、基本的にビールとトマトジュースだけで作る。辞典でも名称は「二日酔いで血走った目」に由来すると説明されている。生卵は標準的なレシピには含まれていない。
ただ、生卵説そのものが完全な創作というわけでもない。生卵を浮かべ、それを上から見た姿が赤い目に見えることを名称の由来とする説も存在する。つまり、レッドアイの由来には複数の説明がある。
だから、私が尋ねたバーテンダーたちが間違いとはいえない。
そして私の記憶も間違っていなかった。
原作には確かに、生卵入りのレッドアイが書かれていた。
映画にも確かに、それが映っていた。
映画と小説はなぜこれほど違うのか
ここまで違うと、本当に「原作」と呼んでいいのかと思えてくる。
しかし面白いことに、映画版の脚本を書いたのも原作者ヘイウッド・グールド本人である。
つまり別の脚本家が原作を好き勝手に改変したわけではない。
グールド自身が、自分の小説を映画へ作り替えたのである。
そこにはハリウッド映画として成立させるための事情があった。
グールドによれば、最初に映画化権を取得したユニバーサルでは、主人公が十分に好感の持てる人物になっていないことが問題になった。
その後ディズニーへ移ってからも、主人公をもっと若くすることをめぐって大きな議論があったという。
最終的にブライアンは若くなった。
原作の「人生に乗り遅れたかもしれない男」から、
まだ人生が始まったばかりの男
へ変わったのである。
この変更は大きい。
年齢を変えただけではない。
物語を見る方向そのものが変わる。
小説は「もう遅いかもしれない」、映画は「これから何にでもなれる」
原作のブライアンは、過去を背負っている。
映画のブライアンは、未来を持っている。
原作には、
「このまま自分の人生は終わっていくのではないか」
という感覚がある。
映画には、
「失敗しても、まだやり直せる」
という感覚がある。
同じバーテンダーでも、立っている場所がまるで違う。
グールド自身も、映画ではブライアンをより理想主義的で、より希望を持った人物へ変えたと説明している。
商業映画には、前向きで、ハッピーエンドを迎え、その先の人生を想像できる人物が必要だったというのである。
こう考えると、映画『カクテル』が原作とまるで違う理由が見えてくる。
原作を忠実に映像化しようとした作品ではない。
人生に疲れ始めた男の物語を、若者が未来を獲得する物語へ組み替えた映画
なのである。
フレア・バーテンディングも映画『カクテル』から生まれた
そして『カクテル』を象徴するもう一つの要素が、バーテンダーがボトルを投げたり回したりする派手なパフォーマンスである。
現在では映画の代名詞のようになっている。
ところが、これも原作の中心ではない。
映画を象徴するフレア・バーテンディングは小説にはなく、映画制作の過程でトム・クルーズとブライアン・ブラウンに見せたものが取り入れられ、映画の重要な要素になった。
つまり私たちが記憶している『カクテル』の姿そのものが、映画化の過程で作られたものなのである。
映画と小説、どちらが本当の『カクテル』なのか
では、どちらが優れているのだろうか。
これは簡単には決められない。
映画には映画の魅力がある。
若いトム・クルーズが画面いっぱいに動き、ボトルを放り投げる。
ニューヨークの夜があり、ジャマイカの海があり、音楽がある。
1980年代という時代そのものを楽しめる映画でもある。
一方、原作には映画から削ぎ落とされたものがある。
人生が思うようにいかなかった人間の焦り。
酒場でしか出会わない人間たち。
夜が終わっても何も解決していない感覚。
そして二日酔いの朝に作る、生卵入りのレッド・アイ。
華やかではない。
だが、人間の匂いはこちらの方がはるかに濃い。
まとめ|映画を知っている人にこそ原作を読んでほしい
映画『カクテル』を知っている人ほど、原作は面白いと思う。
映画の裏設定が分かるからではない。
知っているはずの物語が、まったく違う形で現れるからである。
これは映画の原作を読む感覚とは違う。
もう一つの『カクテル』を読む感覚に近い。
私は村上龍のエッセイ『すべての男は消耗品である。Vol.2』から、この小説を知った。
その後、映画とはまるで違う原作の世界が記憶に残った。
そして何十年経っても、生卵を落としたレッド・アイのことを覚えている。
映画『カクテル』と原作『カクテル』は、ほとんど別の作品である。
しかし、それでいい。
映画には、若きトム・クルーズが駆け抜ける1980年代の輝きがある。
原作には、ニューヨークの夜の底で酒を作り続ける男の疲労と孤独がある。
片方を知ることで、もう片方がつまらなくなるわけではない。
むしろ二つを見ることで、『カクテル』という作品の奇妙な面白さが完成する。
爽やかなジャマイカの海と、二日酔いの朝の生卵。
同じ題名の中に、その両方がある。
このように映画より原作を読んだことで強く残る作品は、ときどきある。
ロビン・ウィリアムズとロバート・デ・ニーロ主演の『レナードの朝』もそうだった。
映画だけでも十分に成立している。
しかし原作を読むことで、映画の向こう側にもう一つの世界が現れる。


