岡本公三とは何者だったのか|『革命』で死ぬはずだった青年がレバノンで生きた54年

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2026年7月23日、岡本公三がレバノンの首都ベイルートで死亡した。

78歳だった。

翌24日、遺体はパレスチナ解放人民戦線、PFLPの関係者らによって墓地へ運ばれ、ベイルートで埋葬された。

晩年は健康上の問題を抱えており、死因は感染症による肺の合併症だったと報じられている。

岡本公三は、1972年にイスラエルのロッド空港で起きた銃乱射事件の実行犯である。

事件では26人が死亡し、多数の人々が負傷した。日本では国際手配された「日本赤軍メンバー」として知られ、イスラエルでは無差別殺人を行ったテロリストとして記憶されている。

一方、レバノンやパレスチナ社会の一部では、イスラエルと戦った「英雄」として扱われ続けた。

しかし、岡本公三の人生を英雄か犯罪者かという二つの言葉だけで分けると、その奇妙な輪郭は見えなくなる。

彼は死ぬためにロッド空港へ向かった。

ところが、三人の実行犯のうち、彼だけが生き残った。

そこから始まったのは、自由を取り戻す物語ではない。

組織、国家、刑務所、支援者によって生かされ続けた、54年間の長い余生だった。

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岡本公三のプロフィール

項目内容
名前岡本公三
生年月日1947年12月7日
出身熊本県
学歴鹿児島大学農学部中退
関係組織共産同赤軍派、日本赤軍、PFLP
主な事件テルアビブ・ロッド空港事件
判決イスラエルで終身刑
釈放1985年の捕虜交換
亡命2000年にレバノンが政治亡命を認定
死去2026年7月23日、78歳

熊本の教育者家庭に生まれた

岡本公三は1947年12月7日、熊本県に生まれた。

六人きょうだいの末子で、父親は元小学校長だったとされる。中産階級の教育者家庭で育ち、幼い頃からパレスチナ問題と接点があったわけではない。

岡本家では、兄たちが先に学生運動へ接近していた。

特に大きな存在だったのが、次兄の岡本武である。

岡本武は京都大学へ進学し、共産主義者同盟赤軍派に参加した。1970年には、仲間とともに日本航空機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮へ渡っている。

岡本公三も二人の兄を追うように京都大学を目指したが、受験に失敗した。京都で浪人生活を送った後、1968年に鹿児島大学農学部へ進学している。

兄と同じ大学に入ることはできなかった。

しかし、兄が入っていった思想の世界には、後から足を踏み入れた。

岡本公三の人生を考えるとき、兄の存在を外すことはできない。

彼は最初から革命運動の中心にいた指導者ではなかった。すでに兄たちが進んでいた道を追いかけ、その先で日本から遠く離れたパレスチナへ到達した青年だった。

岡本公三の兄・岡本武については、こちらの記事で詳しく整理している。

関連記事:よど号メンバーのその後|北朝鮮へ渡った赤軍派9人はどうなったのか

一本の映画がパレスチナへの入口になった

岡本公三の転機の一つになったとされるのが、1971年に鹿児島大学で上映された映画『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』である。

若松孝二と足立正生がレバノンへ渡り、パレスチナの武装組織・PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と、後に日本赤軍へつながっていく日本人活動家たちを撮影した作品だった。

岡本は映画に強く影響を受け、上映運動を行う「赤バス隊」に参加した。

その後、1972年に日本を出国し、レバノンで自動小銃などの訓練を受けた。

兄の存在、学生運動の時代、革命への憧れ、世界各地の解放運動を一つの戦争として捉える思想、その複数の流れが、岡本の中で結びついた。

もちろん岡本自身がパレスチナ人ではなく、土地を奪われた経験もなければ、イスラエル軍の攻撃を受けて育ったわけでもない。

だが、彼は他者の闘争を、自分の死に場所として選んだ。

映画『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』は、現在AmazonではDVDの販売が確認できない。

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岡本公三がパレスチナへ向かう一つのきっかけになった映画とは、どのような作品だったのか。事件そのものだけでなく、当時の若者たちが何を見て、何に引きつけられたのかを知る資料としても興味深い作品である。

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関連作品:『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』を宅配レンタルする→【TSUTAYA DISCAS】

「難波大助」の偽名でイスラエルへ向かった

1972年5月30日、岡本公三は奥平剛士、安田安之とともに、ローマからエールフランス機でイスラエルへ向かった。

岡本が使用していた偽造旅券の名前は「難波大助」だった。

難波大助は1923年、当時皇太子だった昭和天皇を襲撃しようとした人物である。偽名そのものにも、国家に反逆する者としての意味が与えられていた。

3人は現在のベングリオン国際空港にあたるロッド空港へ到着した。

当時、航空機の乗客に対する検査は強化され始めていたが、預け荷物への警戒は現在ほど厳しくなかった。

3人は手荷物受取所でケースを受け取ると、中から自動小銃と手榴弾を取り出した。

そして、空港内にいた旅行者や職員に向けて攻撃を始めた。

ロッド空港事件で26人が死亡した

事件では26人が死亡した。

犠牲者のうち17人は、聖地巡礼に訪れていたプエルトリコのキリスト教徒だった。このほかイスラエル人8人とカナダ人1人が死亡し、数十人が負傷したと報じられている。

攻撃された人々の多くは、イスラエル政府の要人でも軍人でもなかった。

空港に到着した旅行者だった。

パレスチナ解放という目的を掲げながら、その銃口は、たまたまその場所に居合わせた人々へ向けられた。

政治的な大義がどのように語られたとしても、26人が命を奪われたという事実は消えない。

3人は、生きて帰ることを前提としていなかったとされる。

手榴弾で自分の顔を破壊し、身元を分からなくすることまで計画されていたとの報道もある。

奥平剛士と安田安之は現場で死亡した。

岡本公三だけが負傷した状態で拘束された。

彼は、死ぬために参加した作戦で、ただ1人死ねなかった。

ロッド空港事件は、岡本公三だけを見ていても全体像はつかみにくい。

そもそも日本赤軍とはどのような組織だったのか。なぜ日本の若者たちが中東へ渡り、パレスチナ解放闘争と結びついたのか。そして、その後どのような事件を起こしていったのか。

日本赤軍の成り立ちから主な事件と解散までの経緯については、こちらの記事で整理している。

関連記事:日本赤軍とは何だったのか|赤軍派からテルアビブ事件、解散までを時系列で整理

裁判で死刑を望んだ岡本公三

イスラエルで開かれた裁判で、岡本は自らに死刑を科すよう求める姿勢を見せた。

弁護人が岡本を守ろうとする一方で、本人は検察側に協力しているようだったと、後に関係者は振り返っている。

しかし、イスラエルでは死刑が極めて限定的にしか運用されていなかった。

岡本には終身刑が言い渡された。

仲間は死亡し、自分だけが生き残った。

しかも、望んだ死刑も与えられなかった。

岡本公三にとって、終身刑は単なる刑罰ではなかったのかもしれない。

死ぬことを任務としていた人間に、生き続けることが命じられた。

約13年間のイスラエルでの服役

岡本はイスラエルの刑務所で約13年間を過ごした。

PFLP(パレスチナ解放人民戦線)関係者は、岡本が長期間独房に置かれ、過酷な扱いを受けたと主張している。ただし、こうした具体的な収容状況については、PFLP側の証言に基づく部分が大きい。

釈放時の岡本は、身体的にも精神的にも著しく衰弱していたと伝えられている。

後年、支援者は岡本が統合失調症の治療を受けていると説明し、事件や服役中の記憶について取材を受けると、状態が悪化することがあったと語っている。

ここには簡単に答えを出せない問題がある。

事件以前から精神状態に変化があったのか。

思想と組織による影響だったのか。

事件後の拘束や収容生活が、彼を変えたのか。

岡本本人の言葉が十分に残されていない以上、その境界線を外部から確定することはできない。

1985年の捕虜交換で釈放された

1985年、イスラエルとPFLP(パレスチナ解放人民戦線)総司令部派の捕虜交換により、岡本公三は釈放された。

イスラエル側が拘束していた多数の収容者と、パレスチナ側が拘束していたイスラエル兵を交換する大規模な取引だった。

岡本も交換対象の1人に含まれた。

釈放後、岡本は再び日本赤軍に合流し、レバノンのベカー高原などで生活した。

刑務所から出た後も、日本へ帰ることはなかった。

1997年にレバノンで逮捕された

1997年2月、岡本公三は足立正生、和光晴生、山本萬里子、戸平和夫とともに、レバノン当局に身柄を拘束された。

5人は身分を偽ってレバノン国内に滞在しており、旅券偽造や不法入国などの罪で起訴された。

日本政府はレバノンに対し、五人の身柄を引き渡すよう求めた。

2000年、岡本以外の4人は国外退去処分となり、日本へ送還された。

しかし、岡本公三だけは違った。

レバノン政府は岡本に政治亡命を認めた。※この措置により岡本はレバノンで政治亡命を認められた最初の人物になった。

岡本公三の存在は、国家によって犯罪者と英雄の境界が変わることを、そのまま人間の形にしたようなものだった。

レバノンでは「日本人アハマド」と呼ばれた

PFLP(パレスチナ解放人民戦線)内部で、岡本は「アハマド・アル・ヤバーニ」と呼ばれていた。

「アハマド」はアラブ圏で広く使われる男性名で、「称賛される者」といった意味を持つ。「アル・ヤバーニ」は「日本人」を意味するため、「アハマド・アル・ヤバーニ」は「日本人のアハマド」といった意味になる。

日本から遠く離れたパレスチナ解放闘争の中で、岡本は本名とは別の名前を与えられ、イスラエルとの戦いに参加した外国人として英雄視された。

岡本自身もレバノンでの裁判で、自分を「アラブの抵抗戦士」と位置づけたと報じられている。

だが、亡命後の岡本が、活動家として自由に動き回っていたわけではない。

渡航書類を持たず、PFLPの保護下で半ば隠れるように暮らした。

食事の時間は決められ、日中はテレビでアニメーションなどを見て過ごしていたという。外部の世界について知る機会も限られていた。

形式上は、刑務所から解放されている。

しかし、その生活を自由と呼べるのかは分からない。

日本へ帰れば逮捕される。

イスラエルにとっては大量殺人の実行犯である。

レバノンに残れば、英雄という役割を与えられたまま、保護者の管理下で生きることになる。

岡本公三は、どこにも帰ることのできない人間になっていた。

2022年に事件50年の集会へ姿を見せた

2022年5月30日、岡本はロッド空港事件から50年を記念する集会に姿を見せた。

ベイルートのパレスチナ人墓地で、死亡した奥平剛士と安田安之らの慰霊碑を訪れ、カメラに向かって笑顔でVサインを見せた。

この映像をどのように見るかで、岡本公三への評価は大きく変わる。

パレスチナ側から見れば、半世紀前に命を懸けた老戦士の姿だった。

犠牲者や遺族から見れば、26人を殺害した事件の実行犯が、悔いる様子もなく記念行事に出席しているように映る。

岡本本人が事件をどう理解し、どこまで記憶し、何を後悔していたのかは分からない。

笑顔とVサインは残った。

しかし、その内側にあった言葉は、ほとんど外へ出てこなかった。

2026年に78歳で死去

2026年7月23日、岡本公三はベイルートで死亡した。

PFLPは、岡本が長く病気を抱えていたと発表した。

関係者によると、岡本は最期まで「パレスチナ」という言葉を繰り返していたという。

翌24日、遺体は関係者らによって墓地へ運ばれ、レバノンの地に埋葬された。

日本へ戻ることはなかった。

日本の法廷に立つことも、ロッド空港事件について日本の司法による判断を受けることもなかった。

日本を出た24歳の青年は、54年後、レバノンの政治亡命者として人生を終えた。

岡本の死去を受け、日本赤軍の元最高幹部・重信房子もSNSで哀悼の意を示した。重信は岡本の死に「悲しみと悔しさ」を表明している。

岡本公三と同じ時代に日本赤軍を率い、パレスチナへ渡った重信房子とは何者だったのか。その生い立ちから日本赤軍結成、逮捕、出所後までについては、こちらの記事で整理している。

関連記事:重信房子とは何者だったのか|日本赤軍を率いた女性の生涯

まとめ|岡本公三とは何者だったのか

岡本公三は、革命思想を自ら作り上げた指導者ではない。

世界規模の作戦を設計した中心人物でもない。

兄たちの後を追い、時代の思想に接近し、映画に映し出されたパレスチナへ渡り、組織が用意した作戦を実行した青年だった。

だが、実行犯であったことに変わりはない。

その銃撃によって26人が死亡した。

事件後の岡本公三は、自分の意志だけで人生を選んでいたようにも見えない。

イスラエルでは囚人として生かされた。

捕虜交換では交渉材料として解放された。

レバノンでは政治亡命者となり、PFLPの英雄として保護された。

死ぬために空港へ向かった男は、死ねなかったことで、半世紀以上にわたって周囲の組織から意味を与えられ続けた。

テロリスト。革命戦士。政治亡命者。アラブの英雄。精神を病んだ老人。

そのどれもが岡本公三であり、そのどれか一つだけでもない。


岡本公三の思想形成をたどるうえで、映画『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』は外せない作品である。

若松孝二と足立正生がパレスチナへ渡り、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と、後に日本赤軍へつながっていく日本人活動家たちを撮影した作品であり、岡本公三がパレスチナへ向かう一つのきっかけにもなった。

現在、AmazonではDVDの販売が確認できないが、TSUTAYA DISCASの宅配レンタルでは取り扱いがある。

岡本公三が何を見て、なぜ遠く離れたパレスチナを自らの革命の場所として選んだのか。その入口となった映像を実際に見てみたい人は、こちらから確認できる。

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岡本公三とは、世界革命という思想の中に自らの生と死を置き、パレスチナをその実践の場所として選んだ男だった。

岡本公三が身を投じた「世界革命」という思想を考えるうえで、避けて通れない人物が塩見孝也である。

日本国内の革命にとどまらず、世界同時革命を構想した男は、何を考え、どこへ向かおうとしたのか。

岡本公三の人生をさらにたどると、日本赤軍だけでなく、その兄や指導者、さらに日本の新左翼運動そのものへとつながっていく。

まず、岡本が加わった日本赤軍とはどのような組織だったのか。結成の経緯から世界各地で起こした事件までについては、こちらの記事で整理している。

また、岡本公三より先に革命運動へ身を投じた兄・岡本武は、1970年のよど号ハイジャック事件に参加し、北朝鮮へ渡った人物である。

そして、日本赤軍を率い、パレスチナを拠点に活動したのが重信房子である。岡本公三の死去に際しても、重信はSNSで哀悼の意を示している。

さらに源流をたどれば、日本赤軍やよど号グループが生まれる以前の「赤軍派」に行き着く。

世界同時革命を掲げ、日本の新左翼運動を武装闘争へと向かわせた赤軍派とは何だったのか。

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