塩見孝也とは何者か|赤軍派議長、よど号事件、獄中20年、駐車場係の晩年

塩見孝也とは何者か 書物私論
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塩見孝也は、赤軍派の元議長である。

新左翼運動のなかでも、赤軍派は特に過激な武装闘争路線を掲げた集団だった。

その中心にいたのが塩見孝也である。

世界同時革命、武装蜂起、国際根拠地。

その思想に影響を受けた者たちは、現実の事件へ向かった。

よど号ハイジャック事件、日本赤軍、連合赤軍、山岳ベース事件、あさま山荘事件。

赤軍派から分かれた人々の一部は、テロリスト、指名手配犯、国外逃亡者、死刑囚となった。

一方で、理論を作り、旗を振った塩見孝也は、長い獄中生活のあと、出所後は論客として活動し、晩年には清瀬の駐車場管理人として働いた。そして市議会議員選挙に立候補し、落選した。

当記事では、塩見孝也という人物を時系列で追っていく。

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塩見孝也の出身地と生い立ち

塩見孝也は1941年5月22日、大阪で生まれた。

ただし、幼少期からずっと大阪で育ったわけではない。父親が医師だった関係で、岡山や広島へ移り、戦後は広島県尾道市で育ったとされる。その意味では、出生地は大阪、育った土地は広島と見るのが自然である。

学歴は、尾道市立長江小学校、広島大学附属福山中学校・高等学校を経て、1962年に京都大学文学部へ入学した。

高校時代の塩見は文学青年でもあった。のちに赤軍派議長となる人物というと、最初から鉄パイプと爆弾の世界にいたように見えるが、出発点はむしろ地方から京大へ進んだ文学好きの青年だった。

この「文学青年」が、大学で学生運動に触れ、急速に政治の渦へ巻き込まれていく。

京都大学時代と学生運動への参加

京都大学に入った塩見は、大学生協でアルバイトを始めた。そこが学生運動家たちのたまり場だったことから、塩見は共産主義者同盟、いわゆるブントの活動に近づいていく。

やがて塩見は、京都府学連書記長、社学同書記長などを務める活動家となった。京都大学は2年で中退している。

塩見は、大学、党派、理論、学生運動の中で育った革命家だった。だからこそ、口では「労働者」「人民」「革命」と語ることができても、実際の労働現場とは距離があった。

このズレは、晩年の駐車場管理人時代に再び顔を出すことになる。

赤軍派議長へ

1969年、塩見孝也は共産主義者同盟赤軍派を結成し、政治局議長となった。

赤軍派は、既存の新左翼運動では革命はできないと考え、より直接的な武装闘争路線へ進んだ。塩見はその理論的中心にいた。

赤軍派が掲げたのは、世界同時革命である。

日本一国の革命ではなく、世界革命の一部として日本の武装闘争を位置づける。国内で軍事訓練を行い、武装蜂起を準備し、さらに国外にも根拠地を求める。そうした構想が、赤軍派の思想の核にあった。

しかし、現実は理論通りには動かない。

1969年には大菩薩峠事件で赤軍派の多くのメンバーが逮捕された。さらに1970年には、よど号ハイジャック事件が起きる。日航機を乗っ取った赤軍派メンバーは北朝鮮へ渡った。

この時点で、赤軍派はすでに思想運動ではなく、現実の刑事事件を引き起こす集団になっていた。

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罪名と獄中生活

塩見孝也は1970年に逮捕された。

罪名としては、よど号ハイジャック事件の共謀、爆発物取締罰則違反、破壊活動防止法違反などが挙げられている。

塩見孝也は、よど号ハイジャック事件の実行犯ではない。事件当時、すでに別件で逮捕されていた。しかし、赤軍派議長としてハイジャック計画に関与した「プランナー」とされ、よど号事件を含む一連の赤軍派事件で責任を問われ、懲役18年の判決を受けた。

つまり塩見は、飛行機に乗った男ではなく、飛行機を奪うという発想を赤軍派の世界同時革命路線の中に置いた男だった。

しかし塩見は、日本国内で逮捕され、裁かれ、長く獄中に置かれた。拘置所・刑務所での期間は約20年に及ぶ。

出所は1989年である。

塩見が獄中にいた20年の間に、赤軍派の周辺は大きく変わった。

日本赤軍は海外で事件を起こし、よど号グループは北朝鮮に残り、連合赤軍は山岳ベース事件とあさま山荘事件で社会に強烈な傷を残した。

赤軍派から日本赤軍、連合赤軍、よど号グループへ

塩見孝也を見るうえで重要なのは、赤軍派そのものよりも、その後に分かれていった流れである。

赤軍派からは、いくつもの異なる道が生まれた。

ひとつは、よど号グループである。1970年、田宮高麿ら赤軍派メンバーは日航機よど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡った。彼らはそのまま日本に戻らず、北朝鮮で長い年月を過ごすことになる。

もうひとつは、日本赤軍である。重信房子らは海外へ出て、パレスチナ解放闘争と結びつき、国際テロ事件に関与していく。日本赤軍は、日本国内の学生運動という枠を越え、国外で武装組織として活動した。

さらに、国内では赤軍派の一部が革命左派と合流し、連合赤軍となった。連合赤軍は山岳ベース事件で仲間をリンチ殺害し、あさま山荘事件で警察と銃撃戦を起こした

塩見孝也の理論や赤軍派の空気に影響を受けた者たちは、国外逃亡者、国際テロリスト、連合赤軍兵士、死刑囚、指名手配犯となった。

だが、塩見本人は獄中にいた。

ここに塩見孝也という人物の皮肉がある。

世界同時革命を語った議長は、日本の刑務所の中に閉じ込められ、その思想の破片を抱えた者たちが、外の世界で取り返しのつかない事件を起こしていったのである。

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出所後の塩見孝也

1989年に出所した塩見孝也は、その後も活動家、論客として生きた。

著書を出し、集会やイベントに登壇し、赤軍派や新左翼運動について語った。北朝鮮にいるよど号グループとも接触を重ねた。

ただし、出所後の塩見は、かつてのように巨大な組織を率いる指導者ではなかった。時代はすでに変わっていた。1960年代末から70年代前半のように、若者が革命を現実の選択肢として信じる時代ではない。

塩見は、過去の人となった。

それでも本人は、完全に思想を捨てたわけではない。世界同時革命という言葉を使い続け、社会への発言も続けた。

だが、その言葉はかつてのように若者を動員する号令ではなく、どこか時代から取り残された呪文のようにも響いた。

駐車場管理人になった元赤軍派議長

晩年の塩見孝也は、東京都清瀬市のシルバー人材センターに登録し、清瀬のショッピングセンターに隣接する「クレア駐車場」で管理人として働いた。

かつて世界同時革命を語り、武装闘争を唱えた赤軍派議長が、晩年には駐車場で車の出入りを見守っていた。世界革命の地図を描いていた男が、地域の駐車場で働く。思想の高度と生活の低地。その落差が、塩見孝也という人物を妙に人間的に見せる。

しかも、塩見はそこで初めて「労働」を自分の体で知っていく。

それまでの塩見は、労働者を語る革命家だった。だが、晩年の駐車場時代には、自分自身が高齢労働者となった。現場で働き、待遇や制度の問題にぶつかり、シルバー人材センターの労働のあり方に疑問を持つようになった。

この時、塩見は労働組合の作り方をよく知らなかったという。

革命を語った男が、労組の作り方を知らない。これは笑い話のようでいて、かなり本質的な話である。

塩見は労組系の左翼ではなく、革命系の左翼だった。職場で賃金や待遇をめぐって交渉し、組合を作り、現実の労働条件を変えていくタイプの活動家ではなかった。彼の言葉は、職場の休憩室ではなく、党派の会議、学生運動の討論、そして武装闘争をめぐる理論の中で鍛えられたものだった。

だから晩年になって、駐車場という現場に立ってから、ようやく労働問題が自分の足元に降りてきたのである。

この時期の塩見は、雨宮処凛に労働相談をし、労働組合の作り方を聞いたという。世界同時革命の議長が、70代になって労働組合の相談をする。この逆転こそ、塩見孝也の人生のもっとも面白い断面である。

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この時の塩見の心象については、自著『革命バカ一代 駐車場日記』に詳しい。※この本は電子書籍kindle unlimitedで無料で読むことが出来る。

清瀬市議選への立候補と落選

2015年、塩見孝也は東京都清瀬市議会議員選挙に無所属で立候補した。

元赤軍派議長、獄中20年、駐車場管理人。普通の候補者としては、肩書きが渋滞している。選挙戦では、「獄中20年の確かな実績」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人」といった言葉も使われた。

この清瀬市議選については、塩見自身のYouTubeチャンネルにも街頭演説の様子が残されている。

動画のタイトルは「【統一地方選2015】清瀬市議会議員選挙 しおみ孝也 鈴木邦男 平野悠 ほか 清瀬駅前」である。そこには、清瀬駅前で街頭演説を行う塩見孝也と、その応援に立つ鈴木邦男、平野悠らの姿が映っている。

ここで面白いのは、鈴木邦男が応援演説をしていることだ。

鈴木邦男は新右翼団体・一水会の元代表である。つまり、元赤軍派議長の塩見孝也を、元新右翼の代表的人物が応援しているのである。1960年代から70年代の思想闘争の風景を知る者からすれば、これはなかなか奇妙な場面である。

もちろん、晩年の鈴木邦男は単純な右翼活動家ではなく、左右を越えて言論人や活動家と交流する人物になっていた。だからこそ、この応援演説も不自然ではない。

それでも、元赤軍派議長と元一水会代表が、清瀬駅前で地方選挙を戦っている光景は、戦後思想史の余白に置かれた一枚の珍しい写真のようである。

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赤軍派、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループへと流れていった非日常の政治運動は、塩見の晩年において、清瀬駅前の街頭演説という日常の政治風景へ着地した。

結果として、塩見孝也は319票で落選した。

しかし、この選挙戦には、塩見孝也という人物の晩年がよく表れている。かつて議会制民主主義の外側から革命を語った男が、最後には地方議会の選挙に出て、マイクを握り、市民に投票を呼びかけたのである。

世界同時革命から清瀬市議選へ。

この落差は大きい。しかし、その落差こそが塩見孝也という人物を奇妙に人間的に見せている。これほど射程の縮んだ政治参加もなかなかない。しかし、逆にいえば、ここで塩見はようやく地面に降りたとも言える。

世界を変える前に、清瀬の駐車場で働く。人民を語る前に、シルバー人材センターの労働条件を考える。革命の前に、市議選で319票を得る。

晩年の塩見孝也は、壮大な理論の残骸を抱えながら、普通の社会の中へ戻っていった人物だった。

晩年と死去

塩見孝也は2017年11月14日に死去した。76歳だった。

自宅付近で倒れ、東京都小平市の病院に搬送されたが、亡くなったと報じられている。死因は心不全とみられている。

赤軍派議長としての塩見は、日本の新左翼史における危険な思想の象徴である。武装闘争を唱え、よど号事件を含む赤軍派事件に関わり、長い獄中生活を送った。

しかし、晩年の塩見は、どこか拍子抜けするほど普通の老人でもあった。

シルバー人材センターに登録し、駐車場で働き、労働相談をし、市議選に落ち、清瀬で暮らした。

彼の影響を受けた赤軍派の一部が、海外でテロリストとなり、国内で連合赤軍事件を起こし、北朝鮮で帰れない人生を送ったことを考えると、塩見本人の晩年はあまりにも日常的である。

塩見孝也の人生が残すもの

塩見孝也の人生は、革命思想の末路を考えるうえで興味深い。

彼は、世界同時革命を語った。だが最後に向き合ったのは、駐車場の労働であり、清瀬市議選であり、高齢者の働き方だった。

赤軍派の理論は、若者たちを非日常へ押し出した。よど号、日本赤軍、連合赤軍。そこには、国外逃亡、ハイジャック、銃撃、リンチ殺人、指名手配、死刑判決がある。

一方で、塩見本人は、長い獄中生活の後、社会に戻り、論客となり、駐車場管理人となり、市議選に落ちた。

赤軍派の議長でありながら、最後は普通の一般人として人生を終えた。ここに、塩見孝也という人物の面白さがある。もちろん、笑って済ませられるものではない。赤軍派の思想と行動は、多くの事件につながった。被害者もいる。人生を狂わされた人間もいる。塩見を面白い人物としてだけ消費することはできない。

だが同時に、塩見孝也の晩年には、人間の思想が生活に敗れていく姿がある。

世界革命を語った男も、働かなければならない。人民を語った男も、自分が労働者になって初めて見えるものがある。国家権力を倒すと言った男も、最後には地方自治体の選挙に出る。

塩見孝也の人生は、新左翼史の中の一人物伝であると同時に、思想と生活の距離を示す物語でもある。

革命とは何だったのか。

その問いに対して、塩見孝也の晩年は、どこか小さな声でこう答えているように見える。

「革命を語ることと、現実を生きることは、まったく別のことである」と。

塩見孝也という人物を知るうえで、まず手に取りたいのは本人の著書『赤軍派始末記 元議長が語る40年』である。

赤軍派とは何だったのか。よど号事件とは何だったのか。日本赤軍、連合赤軍、よど号グループへと分かれていった流れを、赤軍派元議長である塩見自身がどう見ていたのか。

赤軍派の中心にいた人物が、自分たちの運動とその後の40年をどう語ったのかを知る資料としては重要である。

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塩見孝也は、赤軍派という組織を抜きにしては理解しにくい人物である。
赤軍派の結成、よど号グループ、日本赤軍、連合赤軍へと分かれていく流れについては、以下の記事で整理している。

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