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加藤智大とは何者だったのか|青森高校から派遣社員へ、人生を時系列でたどる

加藤智大とは何者か 書物私論

秋葉原無差別殺傷事件の実行犯として知られる加藤智大。

事件そのものは、2008年6月8日に東京・秋葉原で起きた重大事件として語られることが多い。しかし、加藤智大という人物を知るには、事件当日の行動だけを見ても十分ではない。

彼はどこで生まれ、どのような家庭で育ち、どのような学校に通い、どのような仕事をしていたのか。

この記事では、事件の詳細ではなく、加藤智大の人生を時系列でたどり、青森の少年時代、自動車短大への進学、仙台での警備会社勤務、派遣労働、そして秋葉原事件に至るまでの流れを整理する。

秋葉原無差別殺傷事件そのものの経緯や、事件後の加害者家族については別記事で整理している。

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加藤智大は青森県に生まれた

加藤智大は1982年9月28日、青森県で生まれた。

加藤智大の人生を年表にすると、以下のようになる。

時期経歴
1982年青森県に生まれる
2001年ごろ青森高校卒業後、自動車専門の短大へ進学
2003年ごろ仙台市の警備会社で勤務
2003〜2005年ごろ約2年間、警備会社に在籍
その後職を転々とする
2008年静岡県裾野市の自動車関連工場で派遣社員として勤務
2008年6月8日秋葉原無差別殺傷事件

子どものころから成績はよく、地元では「勉強のできる子」と見られていた。中学時代には成績上位だったとも報じられている。

家庭では母親の教育方針が強く、本人の人生を語るうえでも、この家庭環境はたびたび取り上げられてきた。

ここで重要なのは、加藤智大が最初から社会の外側にいた人物ではなかったということだ。

むしろ、幼少期から少年期にかけては、周囲の期待を受ける側にいた。

勉強ができ、進学校へ進み、親の期待も背負っていた。

その意味では、彼の人生は「落ちこぼれ」から始まったわけではない。

これより、加藤智大の人生のターニングポイントを詳細に見ていく。

青森高校へ進学する

加藤智大は青森県立青森高校へ進学した。

青森県立青森高校は、青森県内でも知られた進学校である。

出身者には、作家の太宰治、劇作家・歌人の寺山修司、報道写真家の沢田教一、政治家の宮下宗一郎などがいる。

これが、青森県立青森高校の代表的な人物一覧である。

人物分野補足
太宰治作家青森高校の前身校出身。青森出身作家として最も有名な一人
寺山修司歌人・劇作家・映画監督在籍歴が語られる青森ゆかりの巨大な文化人
沢田教一報道写真家ベトナム戦争報道で知られるピュリツァー賞受賞写真家
宮下宗一郎政治家現・青森県知事、元むつ市長
奈良岡希実子気象予報士テレビ出演でも知られる
小塚歩アナウンサーラジオNIKKEIアナウンサー
春日井静奈俳優ドラマ出演歴のある俳優
海渡英祐小説家推理作家
石館守三薬学者薬学・研究分野の人物
たむらまさき映画撮影監督映画界の技術・表現側の人物

つまり加藤は、最初から社会の底辺にいた人物ではない。

青森市内でも有数の進学校である青森高校に進んだことからも、少なくとも十代前半までは学力によって上位校へ進む力を持っていたことがわかる。

しかし、高校入学後は成績が伸び悩んだとされる。

青森高校からは国公立大学や有名私立大学へ進む生徒も多いが、加藤はその流れには乗らず、岐阜県の自動車専門の短期大学へ進学した。

中学時代から車への関心はあったとされるものの、この進路には、名門進学校から一般大学へ進むルートから外れていった最初の断絶が見える。

自動車短大へ進学する

青森高校卒業後、加藤智大は岐阜県にある中日本自動車短期大学へ進学した。自動車整備に関わる学校であり、自動車への関心があったと説明されることもある。

しかし、この進路は少し不自然にも見える。

もし強い自動車への夢があったなら、卒業後は整備士、ディーラー、自動車関連会社などへ進む流れが自然である。だが、加藤智大の職歴は、そのようには展開しなかった。

ここに、彼の人生の次の大きな断絶がある。

自動車短大に進んだことは事実である。しかし、それが安定した職業人生に直結したわけではなかった。

自動車という進路は、彼にとって明確な夢というより、「進学校を出た後に選んだ、説明可能な進路」だったのかもしれない。

卒業後、仙台の警備会社で働く

自動車短大卒業後、加藤智大は仙台市の警備会社で働いた時期がある。

事件直前の印象が「静岡県の自動車関連工場で働く派遣社員」だったため、加藤智大は派遣労働者として語られることが多い。しかし、実際の職歴には警備会社勤務も含まれている。

加藤は2003年から約2年間、仙台市の警備会社で働いていたとされる。当時の同僚だった大友秀逸さんは、加藤について「職場では優秀」と評価されていた一方、感情を抑えられず電話応対中に怒って受話器を叩きつけることもあったと語っている。

警備会社時代の同僚証言を見ると、加藤智大は、周囲とまったく関係を持てない人物ではなかったことがわかる。

元同僚が加藤について、普通のサラリーマンと同じように日常的な会話をしていたと振り返っている。共通の趣味としてアニメの話をすることもあり、『エヴァンゲリオン』の話題も出ていたという。

ここに見えるのは、事件後のイメージとは少し違う加藤智大である。

彼は常に孤立していたわけではない。職場で会話をし、趣味の話をし、同僚に送迎してもらうような関係もあった。

この証言は、加藤智大の人となりを考えるうえで重要である。

この時期の加藤智大は、社会に参加していた。

彼は仕事ができない人物ではなかった。一定の実務能力はあった。職場で評価される場面もあった。

だが同時に、感情の制御が難しい面も見せていた。

その後、職を転々とする

警備会社を離れた後、加藤智大は職を転々とする。

埼玉県の自動車工場、茨城県の電子部品関連の仕事、青森での運送会社勤務などが報じられている。いずれも長く安定した職歴にはならなかった。

ここで見えてくるのは、加藤智大が完全に働けない人物だったわけではないということだ。

彼は働いていた。警備、工場、運送、自動車関連の仕事を経験していた。だが、職場に定着できなかった。

この「働いているが、定着できない」という状態は、加藤智大の人生を考えるうえで重要である。

無職の孤立ではなく、働きながら孤立していく。

社会の中にいながら、社会からこぼれていく。

そこに彼の経歴の特徴がある。

事件直前は静岡県の自動車関連工場で派遣社員だった

事件直前、加藤智大は静岡県裾野市の自動車関連工場で派遣社員として働いていた。

このため、事件後には「派遣労働」「格差社会」「非正規雇用」と結びつけて語られることが多かった。もちろん、当時の雇用環境や派遣労働の不安定さは無視できない。

しかし、加藤智大の人生を時系列で追うと、事件を「派遣社員の怒り」だけで説明することはできない。

青森の進学校。
自動車短大。
仙台の警備会社。
職を転々とした時期。
ネット掲示板への依存。
そして事件直前の派遣労働。

これらが重なって、加藤智大という人物の輪郭ができている。

加藤智大とは何者だったのか

加藤智大とは何者だったのか。

彼は、単なる異常者でも、単なる派遣労働者でもない。

青森高校に進む学力があり、自動車の専門教育も受け、警備会社や工場で働いた経験もあった。

それでも安定した職業人生に入れず、非正規労働と孤立の中で自己像を崩していった。その意味で彼は、就職氷河期世代の歪みを極端な形で背負った人物だった。

ただし、その歪みを社会への問いではなく、無関係な人々への殺傷として爆発させたところに、加藤智大という人物の取り返しのつかなさがある。

加藤智大の人生を時系列で見ると、見えてくるのは「一気に壊れた人間」ではなく、「少しずつ居場所を失っていった人間」である。

派遣社員、ネット依存、家庭環境、格差社会といった一つの言葉では片づかない。

加藤智大という人物を知るには、報道や裁判記録、関係者の証言だけでは届かない部分もある。

事件後、加藤本人は『』などの著作を残している。もちろん、そこに書かれた言葉をそのまま真実として受け取ることはできない。加害者本人の言葉には、自己弁護や歪みも含まれる。

それでも、加藤智大が自分自身をどのように説明しようとしたのかを知る資料としては重要である。事件を外側から見るだけでなく、本人の言葉まで確認したい場合は、あわせて読んでおきたい。


秋葉原無差別殺傷事件そのものの経緯や、氷河期世代、加害者家族のその後については、別記事で整理している。

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