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高橋新吉とは何者だったのか|『るす』と「五億年」、ダダから禅へ生きた詩人

高橋新吉とは何者だったのか 書物私論
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高橋新吉という名前を、私は10代のころに知った。

きっかけは「るす」という、わずか数行の詩だった。

そこに出てくる、

「五億年たったら帰って来る」

という言葉を見たとき、文学とはすごいものだと思った。

何がすごいのかは、当時うまく説明できなかった。

死を語っているようにも見える。永遠を語っているようにも見える。仏教について何かを知っていれば、また違う読み方もできるのだろう。

だが、そんな知識とは関係なく、この「五億年」という途方もない時間と、それをまるで少し家を空けるだけのように「留守といえ」と言ってしまう感覚に圧倒された。

達観している。

そして、何より格好よかった。

それから何十年経っても、この詩を忘れることがなかった。

では、こんな詩を書いた高橋新吉とは、いったいどんな人間だったのだろうか。

放浪し、ダダイズムに飛び込み、精神的な危機を経験し、寺で修行し、文学者たちと交わり、戦争を生き、空襲で家を失い、50歳を過ぎて家庭を持った。

「るす」の静けさにたどり着くまでには、かなり激しい人生があった。

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海辺の町に生まれた高橋新吉

高橋新吉は1901年1月28日、愛媛県西宇和郡伊方村、現在の伊方町に生まれた。

父・春次郎は当時、伊方尋常高等小学校の校長だった。

新吉は自伝『海の中より』で、自分が生まれた場所を海と結びつけて語っている。伊方は佐田岬半島に位置する海辺の土地である。

6歳ごろに八幡浜へ移り、1912年、11歳で母を亡くした。

後年の新吉の詩には、海、魚、鳥、石、太陽など、人間の都合とは関係なく存在するものが何度も現れる。

もちろん、それをすべて伊方での少年時代に結びつけることはできない。

ただ、人間の人生をはるかに越えた時間や自然を見つめる新吉の詩を読むと、海辺に生まれた少年だったという事実は妙に印象に残る。

学校を辞め、17歳で放浪へ出た

新吉は八幡浜商業学校に進学した。

しかし1918年、在学中に父に無断で上京する。父は学校へ退学届を出した。

まだ17歳だった。

その年には大阪で放浪生活を送り、その経験をもとに「生蝕記」を書いている。

この作品を読んだ佐藤春夫は、若い新吉の文章について、世俗的な善悪にとらわれない心境と、その年齢に似つかわしくない冷めた筆致に驚いた。

後の高橋新吉を知っていると、ここは興味深い。

「るす」が書かれる30年以上前から、新吉にはすでに、社会の普通の尺度から少し離れた場所から物事を見る感覚があったのである。

1920年には小説「焔をかかぐ」が『萬朝報』の懸賞に当選する。

19歳だった。

そして、そのわずか半月後、新吉の人生を決定的に変える出来事が起きる。

『萬朝報』でダダイズムを知る

1920年8月15日、新吉は『萬朝報』に掲載されたダダイズムの記事を読んだ。

強烈な衝撃を受けたという。

ダダは第一次世界大戦中のヨーロッパから生まれた前衛運動である。

既成の芸術や価値観、論理そのものを疑い、破壊しようとした。

学校を辞め、放浪し、すでに既存の社会にうまく収まっていなかった19歳の青年にとって、それは単なる外国の芸術運動ではなかったのだろう。

自分の違和感を説明してくれる言葉が、突然目の前に現れた。

その後、新吉はダダ的な作品を次々に書いていく。

1922年には「ダガバジ断言」「ダダの詩三つ」などを発表。

1923年、辻潤の編集によって『ダダイスト新吉の詩』が刊行された。代表作として知られる「皿」もこの時期の作品である。

日本のダダイズムを語るうえで、高橋新吉は避けて通れない人物となった。

ダダとほぼ同時期に仏教へ向かっていた

高橋新吉については、しばしば「若いころはダダイストだったが、後に禅へ向かった」と説明される。

しかし実際には、ダダと仏教のあいだには、それほど長い時間はない。

1920年、新吉は『萬朝報』の記事を通してダダイズムを知った。

その翌年の1921年には、愛媛県の金山出石寺に入り、小僧として生活しながら仏教書を読んでいる。

数か月後には寺を出て再び上京し、埼玉県栗橋近くの利根川堤防下にある小屋を借り、自炊生活を始めた。

つまり新吉にとって、ダダと仏教は人生の前半と後半にきれいに分かれたものではなかった。

既成の価値を壊そうとするダダに惹かれる一方で、ほぼ同じ時期に仏教にも向かっている。

後年の禅への傾倒は、ダダを捨てたあと突然始まったものではなく、20歳前後からすでに新吉の中にあったのである。

ダダイスト新吉の裏側にあった精神的危機

1924年、新吉は小説『ダダ』を出版した。

妻となる一柳喜久子が後年記した解説によれば、この作品には1922年秋から1924年冬ごろまでの新吉自身の行動や精神状態が色濃く反映されている。

当時の新吉は極度の神経的不調を経験しており、『ダダ』にはその時期の奇異で時には粗暴な行動まで書き込まれた。

そのため周囲の人物との関係にも影響し、作品そのものが長く正当に扱われにくくなったという。

新吉が20代に深刻な精神的危機を経験したことは、その後の人生を考えるうえで無視できない。

新吉にとって「自我が壊れる」ということは、哲学書の中だけの問題ではなかった。

草野心平、林芙美子、そして中原中也

1920年代半ば、新吉は東京で下宿生活を送りながら文学活動を続けた。

そこで草野心平、壺井繁治、林芙美子、三好十郎、黒島伝治、中原中也らと交友を持つようになる。

現在の知名度だけを見ると、中原中也と高橋新吉には大きな差がある。

しかし当時、新吉はすでに『ダダイスト新吉の詩』を出した前衛詩人だった。

中也より先に、日本語という言葉そのものを壊し、並べ替え、意味の外へ出ようとしていた人物なのである。

高橋新吉は、いま考えられている以上に1920年代の日本詩の前衛にいた。

関連記事:中原中也とは何者だったのか|たった一冊の詩集を残して30歳で死んだ詩人

禅僧・足利紫山との出会い

1927年、新吉は八幡浜の万松寺で禅僧・足利紫山による『無門関』の講話を聞いた。

紫山は、その後の新吉にとって生涯の師となった。

翌1928年10月、高橋新吉は岐阜県伊深村の正眼寺で坐禅修行に入った。

ところが、厳しい接心の最中に精神状態を崩し、郷里へ戻ることになる。

ここから新吉の人生は、文学者としての経歴だけを追っていては見えてこない時期に入る。

禅寺で発病し、座敷牢へ入れられた

翌1929年春ごろから、新吉は「座敷牢」で生活するようになった。

これは後世の研究者が比喩的にそう呼んでいるわけではない。

新吉自身が、1934年に刊行した『戯言集』の中で、自分が置かれていた場所を「牢」と書いている。

四方を板壁に囲まれた狭い部屋で、新吉によれば広さは二畳ほどだった。

そこから自由に外へ出ることはできなかった。

新吉は後に、この状態が約三年間続いたと記している。『戯言集』には、「此の二畳敷の牢の中より、一歩も外へ」出ることができなかったという趣旨の言葉が残されている。

現在の感覚でいえば、精神的に不調となった家族を、自宅あるいは身内の管理する場所に閉じ込めて生活させる「私宅監置」に近い。

当時は精神医療そのものが現在とは大きく異なり、家族が患者を自宅で管理することも珍しくなかった。

ただ、新吉にとってそれがどれほど苛烈な経験だったかは、本人の言葉から伝わってくる。

『戯言集』で新吉は、この三年間について、怒りと屈辱によって精神がすり減り、骨を削るような日々だったという意味のことを書いている。

そして何より印象的なのは、新吉がその場所で「悟り」に達していたわけではないことである。

死ぬのが怖い。

ここから出たい。

自分の精神さえ信じることができない。

そうした極めて生々しい感情を書いている。

後年の「るす」に見られるような、人間の生死を遥かな時間の中から眺める感覚とは、まったく違う。

この時期の新吉は、達観していたのではない。

生きたいと必死だったのである。

辻潤が記録した1929年の高橋新吉

しかも、この座敷牢生活については新吉本人だけでなく、かつて『ダダイスト新吉の詩』を編集した辻潤も書き残している。

辻は『癡人の独語』の中で、八幡浜から東京へ戻ってきた新吉の友人「S君」から聞いた話として、1929年当時の新吉の様子を記録している。

それによれば、新吉はその年の春以来、座敷牢で生活していた。

状態はかなり激しく、大声を上げ続け、家族や友人の区別なく糞尿を投げつけることもあったという。

これは辻自身が直接目撃したものではなく、友人から聞いた話である。その点には注意が必要だが、少なくとも当時の新吉が周囲の家族だけでは対応しきれないほど深刻な状態にあったことを伝える同時代資料である。

そして、その最中に父が死んだ。

高橋新吉の年譜では、1929年9月23日、父が死去し、「首を縊っての自殺という」と記されている。

辻潤も、友人から聞いた話として、新吉の病状に深く悩んだ父が縊死したと記している。

ただし、父の自死について、新吉の病気だけを原因だったと断定することはできない。

辻の記述も伝聞である。

わかっているのは、新吉が座敷牢で生活していた1929年に父が自死したと伝えられていること、そして後の新吉自身が父の死を非常に重く受け止めていたことである。

『戯言集』には、父の「悲痛な、さびしそうな顔」が忘れられないという趣旨の言葉がある。

そして父へ、

自分が生まれたこと自体が、父にとって死へつながる出来事だったのではないか。

そんな痛ましい自責まで書いている。

辻潤の記録では、父が亡くなった当時、新吉は父の死すら認識できない状態にあり、その後、父方の親族に引き取られたとされている。

座敷牢での三年間は、その後の新吉をどう変えたのか

高橋新吉研究では、この時期は単なる病歴として扱われていない。

鵜崎博の『高橋新吉論』では、「座敷牢の思想」という題だけで四つの章が設けられているほどである。

それも当然だろう。

新吉はダダによって社会の常識を破壊しようとしていた。

しかし座敷牢では、今度は自分自身が社会から物理的に切り離された。

自由もない。

自分の精神さえ信じられない。

父も死んだ。

そして、それでも新吉は生き残った。

1932年1月、32歳になった新吉は再び東京へ出る。

1932年、再び東京へ

1932年、新吉は再び東京へ向かった。

ここから禅への傾倒がさらに深まっていく。

しかし、新吉は過去の精神的危機を隠さなかった。

1936年には長編小説『狂人』、短編集『発狂』を刊行している。

一柳喜久子は『狂人』について、「真理は把握するものでなく悟るものだ」という新吉の方向転換を示す作品だったと説明している。

ここに、新吉のダダから禅への変化を見ることができる。

ダダは世界を壊した。

だが世界を壊したあとにも、自分は残る。

ならば、その「自分」とは何なのか。

新吉はそこから逃げず、禅へ入っていった。

高橋新吉はじっとしていた人ではない

禅の詩人という言葉から、寺や書斎に閉じこもった人物を想像するかもしれない。

実際には逆である。

新吉はかなり移動している。

1924年には朝鮮へ渡り、現地の詩人たちと交流した。この交流は現在も日本と朝鮮のダダイズムの関係として研究対象になっている。

1939年には朝鮮から奉天、北京、大同、包頭、済南、青島、上海を巡った。

翌1940年には樺太へ行き、日本各地の古社も訪ねたとされる。

家出から始まり、東京、寺、朝鮮、中国、樺太へと移動する。

高橋新吉は、生涯のかなりの時間を「ここではない場所」へ向かって動いていた人でもあった。

そう考えると、「るす」という題もどこか意味深く見えてくる。

戦争の時代と日本の神々

1940年代、新吉は日本の古社や神々への関心を深める。

出版統制や検閲が強まるなか、小説の発表は少なくなり、全国の古社を巡った。

1942年には『神社参拝』を刊行し、島崎藤村と高村光太郎が序文を寄せている。

ここは、高橋新吉の生涯を「ダダから禅へ」という一本の美しい線だけで描かないためにも重要である。

新吉もまた、戦時下の日本社会の中に生きていた。

その思想と作品が、戦争や当時の国家観とどのように接していたのかについては、別に検討する必要がある。

44歳で新聞社へ入社する

意外なのは、新吉にも会社員として働いた時期があることである。

1944年2月、日本海事新聞に入社した。

同紙は1942年創刊の海事専門紙であり、新吉は「船長物語」「機関長物語」などを連載した。

学校を辞め、放浪し、ダダイストとなり、禅寺で修行した男が、40代半ばには新聞社へ通って原稿を書いていた。

高橋新吉という人物を一つのイメージに閉じ込められない理由がここにもある。

しかし、その生活も長くは続かなかった。

1945年5月、東京大空襲で住居を失い、江古田へ移った。

同年9月には日本海事新聞を退社している。

戦争が終わった。

その数年後、あの詩が生まれる。

「るす」を書いたのは若者でも老人でもなかった

1949年10月、日本未来派発行所から『高橋新吉の詩集』が刊行された。

「るす」は、この詩集に収められた。

「るす」を初めて読めば、すべてを見終えた老人が書いたようにも、あるいは常人には思いつかない言葉を平然と放つ奇才の若者が書いたようにも感じられる。

「五億年経ったら帰って来る」という一行には、年齢の感覚がない。

若者の大胆さにも見えるし、長い人生を経た老人の達観にも見える。

しかし、この詩を書いたとき、高橋新吉は48歳だった。

老人ではない。

かといって、ダダに熱中していた20代の青年でもない。

人生のちょうど半ばにいた。

母の死を経験し、学校を辞め、放浪し、ダダに出会い、精神的危機を経験し、禅寺へ入り、父を失い、再び東京へ戻り、戦争を経験し、空襲で家を失った。

そのあとで、

「留守と言え ここには誰も居らぬと言え 五億年経ったら帰って来る」

と書いたのである。

『高橋新吉の詩集』は、人間の時間を超えた視点から生と死を相対化する作品群として論じられている。詩集は「日」で始まり「るす」で終わり、五億年という時間が両端を結んでいる。

だが、その意味を仏教用語だけで説明してしまうと、この詩のおもしろさを小さくしてしまうだろう。

五億年が何を意味するのか。

弥勒菩薩なのか。

禅なのか。

宇宙なのか。

そんなことを知らなくても、この詩は成立する。

「五億年」と言われた瞬間、人間の80年や90年という寿命が突然小さくなる。

死すら、しばらく家を空ける程度の出来事に見えてくる。

しかも新吉は、それを「永遠」「宇宙」「無」といった大きな言葉で説明しない。

留守だという。

帰って来るという。

この軽さが恐ろしく格好いいのである。

「るす」のあと、高橋新吉は結婚した

さらに面白いのは、「るす」が新吉の人生の終着点ではないことである。

1951年、新吉は一柳喜久子と結婚した。

そして1955年には長女が生まれる。

当時、新吉が知人へ送った書簡も残っている。

娘が生まれたことを報告し、自分が祖父と間違われることに困ったと冗談を書きながら、赤ん坊をたらいで風呂に入れるのが大仕事だと記している。

五億年後に帰って来ると言った男が、数年後には赤ん坊を風呂に入れている。

「ここには誰もいない」と書いた男の家に、妻と子供がいる。

抽象的な「禅詩人」ではない。

生活する高橋新吉がそこにいる。

そして私は、この姿を知ったことで「るす」が弱くなるとは思わない。

むしろ逆である。

宇宙的な時間を見ていた人間も、赤ん坊を風呂に入れる。

その両方が人生なのである。

ダダイストではなく、禅僧でもなく

その後も新吉は詩、小説、随筆、美術評論、仏教関係の著作を書き続けた。

1958年には『参禅随筆』『無門関解説』、その後も『道元』『詩と禅』『ダダと禅』などを刊行している。

1982年に刊行された『高橋新吉全集』第3巻には、禅に関する文章だけで90篇以上が収録されている。

一方、第4巻には自伝・エッセイ142篇と、一柳喜久子による解題、詳細な年譜が収められている。

つまり高橋新吉は、単純な「ダダイスト」でも「禅僧」でもない。

詩人であり、小説家であり、随筆家であり、美術について書き、仏教について考え続けた人だった。

僧侶として寺に収まったわけでもない。

俗世の中にいたまま、禅を考え続けた。

そこが新吉らしい。

「ゼン・ポエム」として海外へ

新吉の詩は戦後、禅の詩として海外にも紹介されていった。

新吉の詩が深い宇宙観を持ち、「ゼン・ポエム」として世界へ紹介されたのである。

日本では中原中也ほど一般的な名前にはならなかった。

しかし、新吉の詩が持っていた時間や自己についての感覚は、日本文学という枠を越えて読まれることになった。

ダダから始まった青年が、いつしか「禅の詩人」として海外で読まれる。

奇妙だが、その二つは新吉の中ではそれほど離れていなかったのかもしれない。

既成の意味を壊すダダ。

自我そのものを疑う禅。

方法は違うが、どちらも「われわれが当然だと思っている世界」を疑うところから始まる。

86歳まで生きた

1972年、新吉は『定本高橋新吉全詩集』を刊行し、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

1982年には青土社から全4巻の『高橋新吉全集』が刊行され、1985年には藤村記念歴程賞を受賞している。

1987年6月5日、86歳で死去した。

墓は愛媛県宇和島市の泰平寺にある。

1920年にダダを知った19歳の青年は、それから67年を生きたことになる。

若くして破壊を叫びながら、長く生きた。

それもまた、高橋新吉という人物のおもしろさである。

高橋新吉が求めたのは、真理を「知る」ことではなかった

高橋新吉には、「真理は把握するものでなく悟るものだ」という考えがあった。

把握するとは、真理を自分の外側にあるものとして、知識や論理によって理解することである。

しかし悟るとは、それとは違う。

自分と世界の見え方そのものが変わることである。

「人はいつか死ぬ」という事実は、誰でも知っている。だが、それを知識として理解することと、自分自身の問題として引き受けることは同じではない。

高橋新吉にとって、この違いは切実だったはずである。

若いころにはダダによって既成の価値や論理を壊そうとした。しかし、世界をどれだけ否定しても、「否定している自分」は残る。

その後、新吉は精神的危機を経験し、座敷牢での生活まで経験した。

そこで「自我とは何か」「生きるとは何か」という問いは、文学や思想の問題ではなく、自分自身の生そのものになった。

だから新吉にとって重要だったのは、世界について正しい理論を持つことではなく、自分という存在の見え方そのものが変わることだったのではないか。

その意味で、「るす」は新吉の思想を説明した詩ではない。

無常とも、空とも、生死を超えるとも書いていない。

ただ、留守だと言う。

そして、五億年したら帰ると言う。

理屈を説明するのではなく、読む側の時間と世界の縮尺を一瞬で変えてしまう。

10代のころ、この詩を読んで「何がすごいのかわからないが、すごい」と感じた。

いま思えば、それは意味を理解したからではなかった。

理解するより先に、世界の見え方を少しだけ変えられていたのである。

高橋新吉が求めた「悟り」とは、あるいはそういうものだったのかもしれない。

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