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中原中也とは何者だったのか|たった一冊の詩集を残して30歳で死んだ詩人

中原中也とは何者だったのか 書物私論
※本ページはプロモーションが含まれています

中原中也は、日本近代詩を代表する詩人の一人である。

「サーカス」「朝の歌」「一つのメルヘン」など、現在まで読み継がれる詩を数多く残した。

しかし、その知名度から考えると意外な事実がある。

中也が生きている間に、自ら刊行できた創作詩集は『山羊の歌』ただ一冊だった。

第二詩集『在りし日の歌』は、中也自身が原稿をまとめて小林秀雄に託していたものの、刊行されたのは中也が30歳で亡くなった翌年である。

現在から振り返れば、中原中也は「有名な詩人」である。

しかし本人が生きていた時代は、必ずしもそうではなかった。

詩集を作ろうとしても予約者はほとんど集まらず、出版資金にも困った。

恋人は親友のもとへ去り、弟を亡くし、最愛の息子も失った。

それでも詩を書いた。

そして最後には、自分の詩を一冊にまとめ、かつて恋人を奪った男でもある小林秀雄に託して死んでいる。

中原中也とは、どのような人物だったのだろうか。

30年という短い生涯を、時間の流れに沿ってたどってみたい。

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1907年|山口に医師の長男として生まれる

中原中也は1907年4月29日、現在の山口県山口市湯田温泉に生まれた。

父・謙助、母・フクの長男だった。

父が軍医だったため、幼少期には中国の旅順、広島、金沢と転居を重ね、1914年に山口へ戻っている。

のちの放浪的な人生とは違い、中也は比較的恵まれた家庭に生まれている。

しかし、幼いころから死は近くにあった。

1915年|8歳で弟を亡くし、詩を書き始める

1915年1月、弟の亜郎が病死した。

中也は8歳だった。

この弟を歌ったことが「詩作の始まり」だったとされている。

中也の人生では、その後も身近な人間の死が繰り返される。

友人の富永太郎。

弟の恰三。

そして長男の文也。

中也の詩には喪失や過ぎ去った時間を感じさせるものが多いが、それを単純に「不幸だったから悲しい詩を書いた」と結びつけることはできない。

ただ、中也にとって詩と言葉が、非常に早い時期から「失ったもの」と結びついていたことは確かである。

1920年~|文学にのめり込み、学校を落第する

13歳で山口中学校へ入学すると、中也は文学に熱中していった。

短歌を新聞などへ投稿しながら、次第に学業を怠るようになる。

そして1923年、16歳で落第した。

その結果、中也は京都の立命館中学校へ転校する。

結果的には、この落第が中也の人生を大きく変えることになる。

京都で中也は一冊の詩集に出会った。

高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』である。

高橋新吉の詩を読み「ダダイスト中也」になる

当時16歳だった中也は、京都の古書店で高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』を手にした。

既存の文学表現から大きく外れたその世界に強い衝撃を受け、中也自身もダダイズムの詩を書き始める。

このころ中也は自らを「ダダイスト中也」と名乗るほどだったという。

後年の中也の詩はダダそのものではない。

しかし、既成の言葉を一度壊し、独自のリズムや音で組み直していく感覚には、この時期の経験が残ったとも考えられている。

中原中也を詩人へ向かわせた人物の一人が、高橋新吉だった。

関連記事:高橋新吉とは何者だったのか|『るす』を書いたダダイスト詩人の生涯

長谷川泰子との出会い

同じ1923年、中也は京都で3歳年上の長谷川泰子と出会った。

泰子は劇団「表現座」に所属していた女優だった。女学校卒業後、女優を目指して家を出た人物でもある。

翌1924年、中也と泰子は同棲を始めた。

後に小林秀雄を含めた三角関係で文学史に名前を残すことになる泰子だが、もともとは文学者の周辺にいた女性ではなく、自ら舞台や映画の世界を目指していた人物だった。

このころ中也は富永太郎とも知り合い、富永を通してフランス象徴詩に接するようになった。

高橋新吉のダダイズムとは別の方向から、ランボーやヴェルレーヌといったフランス詩の世界が中也へ入ってくる。

ダダとフランス象徴詩。

この二つが、若い中也の詩の土台になっていった。

1925年|恋人・長谷川泰子と東京へ

1925年3月、18歳の中也は泰子とともに上京した。

大学進学を考えていたが、受験では書類不備や遅刻などが重なり、うまくいかなかった。

二人はそのまま東京で暮らす。

そして、この東京生活で中也は小林秀雄と知り合った。

後に日本を代表する文芸評論家となる人物である。

当時の小林秀雄はまだ東京帝国大学の学生だった。

中也と小林は急速に親しくなり、毎日のように文学について語り合ったという。

しかし、その関係に長谷川泰子が入る。

恋人は小林秀雄のもとへ去った

小林秀雄は、友人である中也の恋人・泰子にひかれるようになった。

そして1925年11月、泰子は中也のもとを離れ、小林のもとへ去った。

同じ月には、京都時代からの友人・富永太郎も24歳で病死している。

中也にとって1925年の秋は、恋人と友人をほぼ同時に失った時期だった。

普通に考えれば、小林秀雄との関係もここで終わりそうなものである。

実際、二人の交友はいったん途絶えた。

ところが終わらなかった。

中原中也記念館に残る書簡から、翌1926年11月には二人の交流がすでに復活していたことが分かっている。

ここからの中也と小林秀雄の関係は、単なる「恋人を奪った男と奪われた男」では説明できない。

後に小林は、中也が詩人として作品を発表するうえでも重要な人物になっていく。

そして中也は死の直前、自分の第二詩集を小林秀雄に託すことになる。

1926年~|大学を辞め、それでも詩を書く

1926年、中也は日本大学予科に入学した。

しかし、その年の9月には家族に無断で退学する。

その後はアテネ・フランセでフランス語を学び、1929年には河上徹太郎らと同人誌『白痴群』を創刊した。

1931年には東京外国語学校専修科仏語に入学する。

1931年|再び弟を失う

1931年9月、弟の恰三が病死した。

中也は後に、弟を追悼する詩や小説「亡弟」を書いている。

8歳のときには弟・亜郎を失い、それが詩作の始まりになった。

24歳になった中也は、また弟を失った。

中也の人生には、死者が繰り返し戻ってくる。

1932年|『山羊の歌』を出そうとするが、予約は10人程度

1932年、中也は初めての詩集『山羊の歌』を出版しようとした。

しかし、ここで現在の知名度からは想像しにくい現実が見えてくる。

予約出版を計画して募集したところ、申し込みは10人程度しか集まらなかった。

母親から300円の援助を受けて印刷を始めたものの、資金が足りず、すぐには出版できなかった。

中原中也といえば、現在では書店の詩集コーナーに名前が並び、教科書にも登場する詩人である。

しかし25歳の中也が、自分の詩を一冊にまとめようとしたとき、それを事前に買おうという人間は十数人にも満たなかった。

詩人として後世に残ることと、生きている間に売れることは別である。

中也は、その現実の中にいた。

1933年|上野孝子と結婚する

1933年3月、中也は東京外国語学校専修科を修了した。

同年12月、遠縁にあたる上野孝子と結婚する。

同じ年には、訳詩集『ランボオ詩集』も刊行している。

1934年|長男・文也が生まれる

1934年10月、長男の文也が生まれた。

その2か月後、中也にとって長年の念願だった出来事が起きる。

第一詩集『山羊の歌』が刊行されたのである。

構想から出版までには約7年を要した。

予約者が集まらず、母から資金援助を受けても刊行できず、出版社もなかなか見つからなかった。

最後に版元となった文圃堂書店を紹介したのは、小林秀雄だった。

かつて恋人・泰子が去っていった相手である。

その小林秀雄が、中也の最初の詩集を世に出す手助けをした。

生前に刊行できた創作詩集は『山羊の歌』一冊だけだった

『山羊の歌』には、中也を代表する作品が収められている。

「サーカス」。

「朝の歌」。

「帰郷」。

そして現在まで広く知られる作品もある。

中也はその後も詩を書き続け、雑誌『文学界』『歴程』『四季』などで作品を発表した。

しかし、生前に自分の創作詩を一冊の詩集として刊行できたのは、結局この『山羊の歌』一冊だけだった。

現在の中原中也像から見ると、ここには大きな落差がある。

後世にこれほど名を残した詩人が、自分では一冊しか詩集を世に送り出せなかったのである。

1934年|太宰治との接点

同じ1934年、中也はもう一人、後世に巨大な名前を残す作家と接点を持つ。

太宰治である。

太宰を中心として同人誌『青い花』が創刊されることになり、中也も太宰から声をかけられて同人に加わった。

『青い花』は創刊号だけで終わったが、中也はそこに詩を発表している。太宰と中也は『青い花』『鷭』『文学界』など同じ文芸誌に作品を寄せており、周囲の証言から互いを強く意識していたことがうかがえる。

二人については、有名な酒席の逸話も残る。

酔った中也が太宰に絡み、好きな花を尋ねたところ、太宰が「桃の花」と答えたという話である。

この酒席の様子は、同席していた檀一雄が後年、『小説 太宰治』の中で回想している。

つまり「中原中也と太宰治は仲が悪かった」という一言では片付かないことである。

太宰治もまた、中也とは別の形で、自分自身を作品へ持ち込んだ作家だった。

関連記事:太宰治とは何者だったのか|作家名を人間として読ませた文学

詩人として生きながら、生活は実家に支えられていた

中也は詩だけで安定した生活を送っていたわけではない。

『山羊の歌』の出版費を母に頼ったことからも分かるように、実家からの経済的な支援を受けていた。

1936年9月にはNHKの入社面接も受けているが、就職には至らなかった。

「詩人として生きる」という言葉だけを取り出すと格好よく聞こえる。

しかし実際には、詩だけで食べていくことのできない生活があった。

出版社を探し、家族に金を頼み、就職を考える。

その一方で詩を書き続ける。

中原中也の人生には、文学者という肩書きの裏側に、そうした現実も存在していた。

1936年|2歳の文也が死ぬ

1936年11月。

長男・文也が病死した。

わずか2歳だった。

翌12月には次男・愛雅が誕生するが、中也の精神状態は悪化していく。

神経衰弱が昴じ、1937年1月には千葉市の中村古峡療養所へ入院した。

文也の死は、中也の晩年を考えるうえで避けることのできない出来事である。

退院後、中也は東京を離れて鎌倉へ移る。

文也との思い出が濃く残る東京で生活することを望まなかったことが、鎌倉への転居につながったという。

この時期の中也を、強烈な映像として描いたテレビドラマがある。

1990年に放送された、三上博史主演『ロマンの果てII 汚れっちまった悲しみに』である。

ドラマの冒頭では、文也を失った後の中也が屋根の上にいる姿が描かれる。

中原中也という名前を文学ではなく、あのドラマで初めて知った人もいるだろう。

私もその一人だった。

関連記事:三上博史が中原中也を演じた『汚れっちまった悲しみに』とは|今も記憶に残る屋根の場面

1937年|最後の238日を鎌倉で過ごす

1937年2月、中也は療養所を退院し、鎌倉へ移った。

残された時間は長くなかった。

中也は鎌倉で友人たちと交流し、本を読み、詩を書き、フランス詩の翻訳を続けた。

そして故郷・山口へ帰ることを考えるようになる。

だが、その前に一つの仕事を終わらせた。

第二詩集の編集だった。

『在りし日の歌』を小林秀雄に託す

1937年9月、中也は第二詩集『在りし日の歌』の原稿を編集し、清書した。

そして、その原稿を小林秀雄に託した。

ここまで中也の人生をたどってくると、この場面は重い。

12年前。

長谷川泰子は中也のもとを離れ、小林秀雄のもとへ去った。

一度は交友が途絶えた。

しかし二人は再び付き合い始めた。

小林は『山羊の歌』の出版を助け、『文学界』で中也が作品を発表できる場にもなった。

そして最後に、中也は自分の詩を小林秀雄へ預けた。

恋愛だけを基準に考えれば、理解しにくい関係である。

だが中也と小林秀雄を結びつけていたものは、長谷川泰子だけではなかった。

文学があった。

1937年10月22日|30歳で死去

1937年10月、中也は結核性脳膜炎を発症した。

入院後、10月22日に死去した。

30歳だった。

故郷の山口へ戻る願いはかなわなかった。

そして中也の死後にも、悲劇は続く。

1938年1月、次男・愛雅が病死した。

その3か月後の4月、『在りし日の歌』が創元社から刊行された。

中也自身は、その本を見ることができなかった。

中原中也は何を残したのか

中原中也は30年しか生きなかった。

生前に刊行できた創作詩集は『山羊の歌』一冊。

第二詩集『在りし日の歌』は死後に出版された。

だが、残された詩はその後も読み継がれた。

「サーカス」。

「朝の歌」。

「一つのメルヘン」。

そのほかにも数多くの詩が残っている。

フランス詩、とりわけランボーの翻訳にも取り組んだ。

生前の出版点数だけを見れば、大量の本を残した作家ではない。

それでも中原中也という名前は消えなかった。

まとめ|詩人になったのではなく、最後まで詩人であり続けた

中原中也の人生だけを取り出せば、何度も何かを失った人だった。

幼いころに弟を失った。

恋人・長谷川泰子は親友の小林秀雄のもとへ去った。

友人の富永太郎を失った。

別の弟も亡くした。

そして、ようやく自分の家庭を持ったあと、2歳の長男・文也まで失った。

しかし、中也を「悲劇の詩人」という一言だけで片付けると、何かが抜け落ちる。

中也は酒を飲み、人と衝突し、恋をし、学校を辞め、金に困り、友人と文学について語り合った。

高橋新吉からダダを知った。

富永太郎からフランス象徴詩を知った。

恋人を奪った小林秀雄とは、その後も文学を通じてつながり続けた。

太宰治とも同じ時代の文壇ですれ違った。

そして死の直前まで詩を書いた。

中也は、悲しみを経験したから詩人になったというより、自分に起きたことを最後まで言葉で表現し続けた人だったのではないか。

生前に自ら世に送り出せた創作詩集は、たった一冊。

それでも、その一冊と、死後に残された言葉は、本人の30年をはるかに越えて生き続けている。

中原中也の生涯を知ると、これまで何気なく読んでいた詩も少し違って見えてくる。

『山羊の歌』『在りし日の歌』だけでなく、中也が残した作品をまとめて読みたい人には、『中原中也全詩集』がある。

30年という短い生涯の中で、中也が何を見て、何を失い、それをどのような言葉に変えたのか。人物像を知ったあとに、改めて詩そのものを読んでみるのもいいだろう。

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