村上龍の『五分後の世界』を読んだとき、私はベトナム戦争を思い出した。
圧倒的な軍事力と物量を持つアメリカを相手に、地下へ潜り、地形を利用し、長い戦争を続ける人々。
もちろん、『五分後の世界』の地下日本とベトナム戦争は同じではない。
しかし読んでいるうちに、ひとつの疑問が浮かんできた。
もし1945年の日本が降伏せず、本土決戦のあとも地下へ潜り、ゲリラ戦へ移行していたら、アメリカはいつまで日本で戦争を続けただろうか。
日本がアメリカを軍事力で打ち破ることは、おそらくできなかった。
だが、戦争は相手軍を完全に撃破しなければ終わらないわけではない。
相手に、
「これ以上戦う価値がない」
と思わせることでも戦争は終わる。
後のベトナム戦争では、圧倒的な軍事力を投入したアメリカが、最終的に地上部隊を撤収した。
ならば、もうひとつの疑問が生まれる。
なぜベトナムは諦めず、日本は諦めたのか。
村上龍の『五分後の世界』は、その問いを考えるための奇妙な実験装置のようにも読める。
そこに描かれているのは、戦争に勝った日本ではない。
敗北しても、戦争を終わらせなかった日本である。
※以下、作品の内容に触れる。
『五分後の世界』とは
『五分後の世界』は、村上龍が1994年に発表した長編小説である。
主人公の小田桐は、いつの間にか自分が知っている世界とは違う日本へ迷い込んでいる。
そこは未来でも過去でもない。
現実からわずか五分だけずれた、もうひとつの世界である。
その世界では、日本は第二次世界大戦で無条件降伏していない。
国土の大部分を失いながら、一部の日本人は地下へ移り、人口約26万人の地下国家を築いている。
そして戦後になっても国連軍を相手にゲリラ戦を続けている。
幻冬舎による作品紹介にも、
「日本国は第二次大戦において、無条件降伏を拒否し地下に国家を興した」
という設定が明記されている。
つまり、これはよくある「もし日本が第二次世界大戦に勝っていたら」という架空戦記ではない。
むしろ正反対である。
日本は敗北している。
ただし、
敗北を受け入れていない。
ここが『五分後の世界』という作品の出発点である。
戦争に負けることと、戦争をやめることは同じなのか
この小説を読んでいると、「敗戦」という言葉そのものが少し奇妙に見えてくる。
1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、戦争を終えた。
われわれはこちらの歴史を知っているため、日本の敗戦は1945年8月で確定した出来事として考える。
だが厳密に考えれば、軍事的に不利になることと、戦争をやめることは同じではない。
国土の一部を占領されても戦争はできる。
政府が崩壊しても抵抗運動はできる。
正規軍が壊滅しても、ゲリラ戦という方法が残る。
『五分後の世界』は、1945年に日本が選ばなかったその先を描いている。
もし降伏しなかったら。
もし国家が地下へ潜ったら。
もし正規軍による戦争からゲリラ戦へ移ったら。
日本という国家は、どこまで戦争を続けることができただろうか。
実際の日本にも「アメリカの戦争継続意思を折る」という発想はあった
これは村上龍が完全な無から作り出した発想でもない。
終戦直前、日本軍は連合軍の本土上陸に備えて「決号作戦」を準備していた。
その目的のひとつは、単純に米軍を海へ追い返すことだけではなかった。
特に九州への上陸が予想された地域では大量の兵力を投入し、上陸してくる米軍に可能な限り大きな損害を与えようとしていた。
米海軍の戦史資料でも、日本側はアメリカの弱点を「甚大な人的損失に耐えながら戦争を続けられるか」にあると考えていたと説明されている。
つまり、
アメリカ人を大量に死なせれば、アメリカ国民が戦争継続を嫌がり、交渉による終戦へ持ち込めるのではないか。
という発想である。
結果として、その本土決戦は行われなかった。
しかし『五分後の世界』を読んでいると、この発想をさらに先まで延長したらどうなるのかと考えてしまう。
九州で敗れる。
本州でも敗れる。
都市も失う。
それでも終わらない。
山岳地帯や地下へ潜り、正規戦からゲリラ戦へ移る。
十年でも二十年でも戦う。
それが、『五分後の世界』の地下日本なのである。
そこで思い出すのがベトナム戦争である
だから私は、この作品を読んだときにベトナム戦争を思い出した。
ベトナム戦争では、アメリカは圧倒的な航空戦力、火力、兵站能力、科学技術を持っていた。
しかし北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線側は戦争をやめなかった。
地下トンネルも利用した。
ジャングルも利用した。
ゲリラ戦も行った。
そして膨大な犠牲を払いながら戦争を長期化させた。
もちろん、ベトナム戦争を「ゲリラだけでアメリカに勝った戦争」と説明するのは正確ではない。
北ベトナムには正規軍があり、ソ連や中国からの支援もあった。戦争後半には大規模な通常戦も行われている。
それでも重要なのは、
アメリカより強い軍隊を作らなければ、アメリカを撤退させることはできない、というわけではなかった
ことである。
アメリカ国内では戦争への反対が拡大した。
兵士が死ぬ。
莫大な金がかかる。
何年戦っても終わらない。
そして、
「そもそも、なぜアメリカ人がここで戦い続けなければならないのか」
という問いが大きくなっていった。
ニクソン政権は1969年から米軍撤収を進め、1973年のパリ和平協定によって米軍戦闘部隊はベトナムから撤退する。
その後もベトナム人同士の戦争は続き、1975年にサイゴンが陥落した。
アメリカは軍事力そのものを失ったわけではない。
戦争を続ける政治的意思を失っていったのである。
そして、戦争が終わっても、その傷まで消えたわけではない。
ベトナムから帰還した兵士たちは、祖国へ戻ればすべてが元に戻るわけではなかった。戦場で生き残った人間と、戦争から距離を置こうとする社会。その断絶を描いた作品の一つが、映画『ランボー』である。
関連記事:『ランボー』とは何だったのか|ベトナム帰還兵とアメリカ社会
ならば日本もゲリラ戦を続ければ、アメリカは諦めたのか
ここで『五分後の世界』が現実の歴史に入り込んでくる。
もし日本が1945年に降伏しなかったらどうなったのか。
米軍が九州へ上陸する。
日本軍は山岳地帯へ後退する。
都市を失う。
正規軍として戦うことが不可能になれば、小部隊へ分散する。
地下施設を作る。
夜間に攻撃する。
補給線を襲う。
占領軍に損害を与え続ける。
十年。
二十年。
もしそこまで続いたら、
アメリカはいつまで日本を占領するために兵士を死なせ続けただろうか。
ベトナム戦争を知っている現在のわれわれから見ると、「いつまでも戦った」と断言することもできない。
日本側がゲリラ戦へ移行し、占領コストを延々と上昇させれば、どこかでアメリカ国内から撤退論が出てきた可能性はある。
つまり、
日本も戦争を終わらせなければ、いつかアメリカの方が戦争を終わらせた可能性はあったのではないか。
『五分後の世界』を読んでいると、どうしてもそう考えてしまう。
しかし、これは結果を知ることのできない歴史の反実仮想である。
そして現実には、日本とベトナムには非常に大きな違いがあった。
日本とベトナムでは条件がまったく違う
「ベトナムができたのだから、日本にもできた」
と単純には言えない。
1945年の日本は島国であり、海上交通をほぼ遮断されていた。
都市は空襲を受け、産業能力も急速に失われていた。
広島と長崎には原子爆弾が投下された。
さらに8月にはソ連が対日参戦した。
戦争を続ければ、本土だけではなく日本という国家そのものがどこまで破壊されるのかわからない状況に入っていた。
ベトナムには中国やソ連という強力な支援者もいた。
そして何より、アメリカがベトナムで行っていた戦争と、第二次世界大戦で日本に対して行っていた戦争では目的そのものが違う。
ベトナム戦争は冷戦下の限定戦争だった。
アメリカには中国やソ連との全面戦争に発展させたくないという制約もあった。
一方、1945年の日本に対して連合国が求めていたのは、日本軍の降伏だった。
条件が違いすぎる。
だから、
「日本がゲリラ戦をしていればアメリカに勝てた」
と断言することはできない。
むしろ本土決戦からゲリラ戦へ進めば、軍人だけではなく膨大な民間人が死亡し、日本列島そのものが戦場になり続けた可能性が高い。
それでも、ひとつの問いだけは残る。
どこまで犠牲が増えても日本が戦争をやめなかった場合、アメリカは永遠に戦争を続けただろうか。
これは誰にも答えられない。
そして、その答えのない場所に村上龍は地下日本を作った。
村上龍はその後、『半島を出よ』でも、平和に慣れた日本社会へ突然「戦争に近い現実」を突きつけている。『五分後の世界』が敗戦を受け入れなかった日本を描いた作品なら、『半島を出よ』は、戦うことをほとんど忘れた日本が武力に直面したとき何が起きるのかを描いた作品とも読める。
関連記事:村上龍『半島を出よ』とは何か|福岡が日本でなくなる日
なぜベトナムは諦めず、日本は諦めたのか
すると、もっと大きな疑問が出てくる。
なぜベトナムは諦めず、日本は諦めたのか。
民族性の違いという話ではない。
日本人に戦う意思がなかったわけでもない。
沖縄戦や硫黄島を見れば、それは明らかである。
終戦直前まで軍部には本土決戦を主張する勢力が存在した。
むしろ違いは、
国家として、どこまで犠牲を払えば戦争をやめるのかという判断だった
のではないか。
1945年の日本は降伏した。
それによって戦争は終わった。
多くの人間が生き残った。
都市は再建された。
経済は成長した。
そして日本は、世界でも有数の豊かな国になった。
歴史の結果だけを見れば、その選択によって現在の日本がある。
だが『五分後の世界』は、その正しいはずの結論の横に、もうひとつの日本を置いてしまう。
戦争を終わらせなかった日本である。
地下日本は決して幸せな国ではない
重要なのは、『五分後の世界』の地下日本を理想郷として読まないことである。
そこには戦争がある。
死がある。
負傷がある。
貧困がある。
常に殺される可能性がある。
戦闘描写も生々しい。
現代日本と地下日本のどちらに住みたいかと聞かれれば、多くの人は現代日本を選ぶだろう。
ところが奇妙なことに、読んでいると地下日本の人々の方が力強く見えてくる瞬間がある。
彼らは、自分たちが何者なのかを知っている。
誰と戦っているのかを知っている。
何を守るのかを知っている。
明日死ぬかもしれない。
だから今日何をすべきなのかが明確である。
これが恐ろしい。
平和な日本には「何のために生きるのか」という問題が残った
こちら側の日本には、地下日本にないものがほとんどすべてある。
食料がある。
安全がある。
娯楽がある。
自由がある。
金さえあれば世界中の商品を買うことができる。
戦争で明日死ぬ可能性を考える必要もない。
これは間違いなく、戦後日本が手に入れた巨大な成果である。
しかし、人間にはもう一つ厄介な問題がある。
生きられるようになったあと、
何のために生きるのか。
という問題である。
地下日本の人々には生きる目的を考えている暇がない。
生き延びなければならない。
仲間を守らなければならない。
敵と戦わなければならない。
極端な環境が、人間に目的を強制する。
一方、現代社会では目的まで自分で決めなければならない。
何を仕事にするのか。
誰と暮らすのか。
何を欲しがるのか。
何を成功とするのか。
あらゆるものが自由になった。
その自由によって、人間はかえって迷うようになった。
『五分後の世界』の地下日本が魅力的に見える瞬間があるとすれば、おそらくここである。
戦争が魅力的なのではない。
迷う余地がないほど、生きることが切実なのである。
一方、戦争が終わったあとの自由な社会で、人間は何を支えに生きるのか。
その問題をまったく別の角度から考え続けた作家が坂口安吾だった。安吾は、既成の道徳や社会の価値観から人間を解放しようとした。しかし自由になれば、それだけで幸福になれるわけではない。最後には、自分の人生を自分で引き受けなければならない。
『五分後の世界』が極限状況によって迷いを消していく物語だとすれば、坂口安吾は、迷う自由まで含めて生きるしかない人間を見つめた作家だったともいえる。
関連記事:坂口安吾『堕落論』を読む|一般的な生活など存在しない
小田桐という男が地下世界で変わって見える理由
主人公の小田桐も、この構造を考えるうえで面白い。
元の世界では決して英雄的な人物ではない。
ところが地下日本へ入り、生存そのものが価値になる世界に置かれると、小田桐を見る物差しまで変わっていく。
社会が変われば、人間の価値も変わる。
現代社会で価値のある肩書きも、金も、社会的評価も、戦場ではほとんど役に立たない。
最後に残るのは、
判断できるか。
動けるか。
恐怖に耐えられるか。
生き延びられるか。
そうした非常に原始的な能力である。
『五分後の世界』は国家の物語であると同時に、文明によって人間の周囲に貼り付けられたものを、一枚ずつ剥がしていく物語でもある。
地下日本を美化してはいけない
だからこそ、この小説には危険な誘惑もある。
地下日本の人々は勇敢である。
規律がある。
誇りがある。
国家への帰属意識も強い。
そこだけを切り取れば、
「戦後の日本人は豊かさと引き換えに精神を失った」
という単純な話にすることもできる。
しかし、それでは地下日本で支払われている代償を無視することになる。
人間が次々に死んでいる。
何十年も戦争が終わらない。
平和そのものが存在しない。
自分が何者なのかを知るために戦争が必要なら、その代償はあまりにも大きい。
だから『五分後の世界』の面白さは、
地下日本と現実日本のどちらが正しいのかを決めることではない。
両方を並べることである。
地下日本には誇りがあるが、平和がない。
現実日本には平和があるが、自分が何のために生きているのかわからない人間もいる。
その二つを並べられると、簡単な答えがなくなる。
「五分後」という距離
そして、この小説のタイトルは『五分後の世界』である。
百年後ではない。
千年後でもない。
異星でもない。
わずか五分である。
ほとんど隣にある。
だから地下日本は完全な空想世界には見えない。
1945年8月。
日本は戦争を終わらせた。
その一点から、われわれが知る戦後日本が始まった。
だが、そこで別の選択をした世界が、ほんの五分隣に存在している。
降伏しない。
本土決戦をする。
地下へ潜る。
ゲリラ戦へ移行する。
戦い続ける。
村上龍は、その道を最後まで歩かせてみた。
だから怖いのである。
まとめ
『五分後の世界』を読み終えても、最初に浮かんだ疑問は消えない。
なぜベトナムは諦めず、日本は諦めたのか。
そして、
もし日本が諦めなかったら、アメリカの方が先に諦めた可能性はなかったのか。
答えはわからない。
ベトナムと1945年の日本では条件が違いすぎる。
北ベトナムには国家があり、正規軍があり、中国とソ連からの支援もあった。
日本は海上封鎖され、都市を破壊され、原爆を投下され、ソ連まで参戦していた。
さらに本土決戦が始まれば、膨大な民間人が死んだ可能性がある。
日本が降伏したことで救われた命が無数にあったことも忘れてはならない。
それでも、戦争の歴史を見ると軍事力の強い国が必ず望む結末を手に入れるわけではない。
ベトナム戦争では、アメリカは軍事力を失ったから撤退したわけではなかった。
戦争が長期化し、死者と戦費が積み重なり、国内の反戦運動や政治的圧力も強くなる中で、戦争を続ける意思そのものが削られていった。
ならば1945年以降の日本でも、同じことが絶対に起こらなかったとは言い切れない。
日本が山へ潜り、地下へ潜り、何十年でも戦い続けたとしたら。
占領軍の兵士が毎年死に続けたとしたら。
アメリカ国民が、
「なぜ自分たちの若者が、日本の山の中で死ななければならないのか」
と問い始めた可能性はある。
どこかでアメリカが日本を諦めた可能性もある。
もちろん、そのとき残っている日本が、われわれの知っている日本より幸福だったとは到底言えない。
おそらく恐ろしく貧しく、多くの人間が死に、国土も荒廃していただろう。
だからこれは、
「日本は降伏すべきではなかった」
という話ではない。
そうではなく、
戦争とは、いったいどの瞬間に負けるものなのか。
という問いなのである。
軍隊が負けたときなのか。
国土を奪われたときなのか。
物資がなくなったときなのか。
それとも、
もう戦わないと決めたときなのか。
『五分後の世界』が描いたのは、戦争に勝った日本ではない。
敗北してもなお、
「まだ終わっていない」
と言い続けた日本である。
現実の日本は1945年に戦争を終わらせた。
そして平和と繁栄を手に入れた。
その選択を否定する必要はない。
しかし村上龍は、その歴史のすぐ横、わずか五分ずれた場所に別の日本を置いた。
地下へ潜り、戦い続ける日本。
それを見ていると、どうしても考えてしまう。
なぜベトナムは諦めず、日本は諦めたのか。
もし日本も諦めなかったら、最後に諦めたのは誰だったのか。
その答えを確認することは永遠にできない。
だからこそ、『五分後の世界』は読み終わったあとも不気味に残り続ける。
これは「もし日本が戦争に勝っていたら」という物語ではない。
「もし日本が戦争を終わらせなかったら」という物語なのである。
ここまで読んで、『五分後の世界』そのものに触れてみたいと思った方は、文庫版で読むことができる。
紙でじっくり読みたい方には、通常の文庫版がおすすめである。戦闘描写や地下日本の空気感を、自分のペースで追いたい作品でもある。
また、『五分後の世界』はAudibleでも配信されている。
Audibleの無料体験対象になっているから、登録後すぐに0円で聴くこともできる。文章で読むのとはまた違い、戦闘や緊張感のある場面を音で追うと、この作品の異様な世界観がより強く伝わってくるはずだ。
通勤中や移動中に聴きたい方は、こちらの方が入りやすいかもしれない。
※Audibleの無料体験期間や対象作品などの条件は変更される場合がある。登録前にAmazon公式ページで最新情報を、要確認。
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実際にAudibleを使うとどんな感じなのか、料金や無料体験、使い勝手まで知りたい方は、こちらの記事で詳しくまとめている。


