2018年1月21日、評論家の西部邁は、東京都大田区を流れる多摩川で亡くなった。78歳だった。
西部は以前から、病院で延命されながら死を待つことを拒み、自ら選ぶ死を「自裁死」と呼んでいた。その言葉どおり、自分の人生を自分の意思で閉じようとしたのである。
しかし、死後に明らかになった事実は、その最期を単純な「思想の実践」として語ることを難しくした。
西部の死には、彼を深く慕う二人の男性が関わっていた。二人は自殺幇助の罪に問われ、いずれも有罪判決を受けた。
西部邁とは何者だったのか。
その問いを考えるには、華やかな言論活動よりも、むしろこの特異な最期から彼の人生を逆向きにたどる必要がある。
※本稿では、西部自身が用いた言葉として「自裁死」と表記する。この言葉によって自死を美化したり、肯定したりするものではない。
西部邁はなぜ「自裁死」を選んだのか
西部の死は、突発的な衝動によるものではなかった。
本人は50代のころから人生の終わらせ方を考え、晩年の著書でも病院で死ぬことへの拒否感を繰り返し書いている。死の直前に刊行された『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』や、没後に刊行された『保守の遺言』にも、その意思は明確に残されていた。
西部が嫌ったのは、死そのものだけではない。
自分の意思が失われた状態で、医療や介護の対象として扱われ、他人に生の最終局面を決められることだった。
現代社会で「自然死」と呼ばれているものの多くは、実際には病院のベッドで管理される「病院死」ではないか。西部はそう疑った。
だから彼にとって死に方は、人生の外側にある偶然ではなかった。
どのように生きたかを最後に確定する行為であり、「生き方の総仕上げ」だったのである。
病院ではなく、自宅で死ぬ道はなかったのか
ただし、ここには一つの疑問が残る。
病院で死にたくないのであれば、自宅で最期を迎える道もあったはずである。
在宅医療や訪問介護を受けながら、自分の家で死を待つ。病院死と自死の間には、本来そのような第三の道がある。
では、なぜ西部はそれを選ばなかったのか。
その背景には、妻の長い闘病と、それを支えた家族の姿があったと考えられる。
西部の妻は病を患い、家族は長期にわたる在宅介護を経験した。とりわけ娘は、母親の介護だけでなく、父親の執筆や生活も支えていた。
西部は著書の中で、母親が死へ向かう過程をすでに見届けた娘に、自分の身体的、精神的な苦しみまで重ねて見せたくないという趣旨を記している。それは彼にとって、家族への配慮であると同時に、他人へ負担を負わせないための「廉恥」の問題だった。
つまり、西部にとって自宅死は、自由な死ではなかったのだろう。
それは娘に介護を委ね、自分が衰えていく時間を家族に引き受けさせる死であった。
さらに、老いが進めば、死を選ぶ意思そのものを示せなくなるかもしれない。判断できるうちに決めなければ、やがて自分では何も決められなくなる。その恐怖もあったはずである。
しかし、これはあくまで西部が自ら作った枠組みでもある。
介護されることは、本当に恥だったのか。
家族に世話を委ねることは、ただ迷惑をかけることだったのか。
病院死と自裁死の間にあるはずの道を、西部自身が早い段階で閉じてしまった可能性は否定できない。
妻の死によって失われた「もう一人の自分」
西部の妻は、2014年3月に亡くなった。
二人の関係は高校時代から始まり、半世紀を超えて続いた。西部はその年月を『妻と僕―寓話と化す我らの死』に書いている。
妻は単なる生活上の伴侶ではなかった。
息子の証言によれば、西部の文章には妻の意見や反応がかなり反映されていたという。西部にとって妻は、最初の読者であり、批評者であり、自分の言葉を現実へつなぎ止める存在でもあった。
その妻を失ったことは、親しい人を一人失ったというだけではない。
自分の思想を受け止め、修正し、日常へ戻してくれる「もう一人の自分」を失ったことに近かったのではないか。
西部は妻の死後、自死への意思をいっそう固めていった。
もちろん、妻の死だけを自死の原因とすることはできない。西部はそれ以前から死について考えていた。だが、妻の不在が、老いと身体の衰えを一人で引き受けなければならない現実を決定的にしたことは確かだろう。
理路整然と語る「西部邁」という自己像
テレビで見る西部邁は、いつも理路整然としていた。
幅広い教養を背景に、複雑な問題を独特の言葉で組み立て、相手の主張を受け止めながら論点をずらさない。『朝まで生テレビ!』のような議論が混線しやすい番組でも、西部の言葉には一つの形があった。
視聴者が見ていたのは、知的で、冷静で、自分を制御できる人物である。
そして、おそらく西部自身も、そのような自分であることに強い自負を持っていた。
ところが晩年、身体はその自己像から離れていった。
西部は神経痛や皮膚炎に悩まされ、重い頚椎症性脊髄症によって手先の細かな動作が難しくなっていた。文章を書くことさえ一人では思うようにできず、日常生活にも周囲の助けが必要になっていた。
言葉によって自分を作ってきた人間が、自分の手で言葉を書けなくなる。
自分で考え、自分で判断し、自分で語ることを人生の中心に置いてきた人間が、次第に他人の手を借りなければ生きられなくなる。
それは単なる身体的不調ではなかったはずである。
西部の中にあった「西部邁」という人物像と、現実に老いていく身体との間に、埋めがたい距離が生まれていたのではないか。
自分自身を俯瞰し続けた人
西部は、自分自身をかなりの強度で俯瞰し続けた人物だったように見える。
何を感じているのか。
なぜその言葉を選ぶのか。
自分の振る舞いは、自分が掲げてきた思想と矛盾していないか。
普通なら感情の中に埋もれてしまう場面でも、西部はもう一人の自分を立たせ、自分自身を観察していたのではないか。
それは思想家としての強さである。
同時に、老いを受け入れるうえでは残酷な能力でもある。
身体が衰えても、それを観察する意識だけは明晰に残る。できなくなったことを曖昧にせず、一つずつ数えてしまう。昨日までの自分と今日の自分の差を、誰よりも正確に理解してしまう。
西部は老いに飲み込まれたというより、老いていく自分を最後まで見つめ続けたのかもしれない。
そして、その観察者としての自分まで失われる前に、人生を閉じようとした。
これは本人の内面を断定するものではない。しかし、西部の言葉と晩年の状況を重ねると、そのように考えなければ理解しにくい部分が残る。
小田実と西部邁|左右から言葉をぶつけた二人
『朝まで生テレビ!』で西部とたびたび議論した人物の一人に、小田実がいる。
小田はベ平連を率いた作家であり、市民運動の側から戦後日本を問い続けた。西部は60年安保の学生運動を離れ、やがて保守の側から戦後日本を批判した。
二人の立場は大きく異なる。
しかし、共通していたものもある。
どちらも既成の組織に完全には収まらず、自分の言葉で社会へ向き合った。テレビの中では、大きな存在感を持つ「論客」であり続けた。
そして晩年、二人とも老いた身体と、それまで築いてきた自己像の間に立たされた。
小田実は、変わらない世界を前に、自分が半生をかけて何をしてきたのかと問い直した。西部は、自分の身体が自分でなくなっていく前に、人生そのものを閉じようとした。
一人は最後まで世界を問い、もう一人は最後に自分の生を裁こうとしたのである。
関連記事:小田実とは何者だったのか|ベ平連を率いた作家、その生涯と思想
左翼活動家から保守思想家へ
西部邁は、最初から保守思想家だったわけではない。
1939年、北海道長万部町に生まれた。少年時代には重い吃音があり、18歳ごろまでほとんど話さずに過ごしたという。
その青年が東京大学へ進み、共産主義者同盟、いわゆる第一次ブントに加わる。1960年の安保闘争では、東大自治会委員長として学生運動の中心にいた。
しかし、安保闘争の後、西部は急進的な左翼運動から離れた。
大学院で経済学を学び、横浜国立大学を経て東京大学教授となる。1988年には中沢新一の任用をめぐる東大駒場の騒動の中で辞職し、その後は在野の評論家として活動した。
この経歴だけを見ると、左翼から保守へ「転向」した人物に見える。
だが、西部の中で、反抗する姿勢そのものが消えたわけではない。
若いころには国家や大学の権威に反抗し、保守思想家となってからは大衆社会、対米依存、経済至上主義、戦後民主主義の空疎さを批判した。
立つ場所は変わっても、時代の多数派から距離を取り、その前提を疑う姿勢は変わらなかった。
西部邁は、固い保守思想家ではなかった
西部は保守の論客として知られるが、一般に想像される「右翼」とはかなり異なる。
決められた教義を守り、同じ陣営の言葉を繰り返す人物ではなかった。保守の側にいながら保守政治を批判し、親米保守とは対立し、立場の異なる左派の論客とも対話した。
そもそも保守とは、完成した答えを守ることではない。
人間の理性は不完全であり、社会は設計図どおりには作れない。だから過去から続く慣習や関係を軽々しく壊さず、現実の中で少しずつ判断する。その懐疑こそが、西部の保守思想の中心にあった。
ところが、西部自身の人生は、穏やかな漸進とは程遠い。
学生運動の前面に立ち、東京大学を辞め、論壇で論争を続け、最後には自ら死を選んだ。
思想は保守でありながら、生き方にはどこか革新的で、時に過激なものがあった。
西部は「保守」という場所に落ち着いたのではない。
保守という思想を使いながら、最後まで自分の時代と衝突し続けたのである。
三島由紀夫との共通点と違い
西部が高く評価した人物の一人に、三島由紀夫がいる。
三島もまた、単純な右翼ではなかった。戦後日本への違和感を文学と身体によって表現し、最後には自らの死を一つの作品のように社会へ提示した。
西部と三島には、戦後日本をそのまま肯定できなかったこと、自分の思想と死に方を切り離さなかったことという共通点がある。
ただし、二人の死は大きく異なる。
三島の死は、公衆の前で行われた政治的、演劇的な死だった。肉体を鍛え、その最も充実した時期に、自分の美学を完成させようとした。
一方、西部の死は、老いによって身体が失われていく中で選ばれた。社会に決起を求めたのではなく、医療や介護に委ねられる前に、自分の人生を自分で閉じようとした。
三島が死を最後の表現にしたのだとすれば、西部は死を最後の自己決定にしようとした。
しかし、どちらの死も、その劇的な印象によって、それ以前の複雑な生涯を覆い隠す危険を持っている。
関連記事:三島由紀夫は本当に右翼だったのか|左翼の時代へのアンチテーゼとしての美学
西部邁の死を助けた二人は有罪となった
西部の最期を考えるうえで、自殺幇助事件を避けることはできない。
西部の死に関わったのは、私塾「表現者塾」で塾頭を務めた青山忠司と、TOKYO MXの番組『西部邁ゼミナール』の制作に携わった窪田哲学である。
二人は、西部を長く支え、深く慕っていた。
西部は身体が不自由になり、一人では死の準備を完結できない状態にあった。そこで二人に協力を求めたのである。
青山は起訴内容を認め、西部の意思が固く、安心して逝ってもらいたかったという趣旨を法廷で語った。窪田は、西部が自らの意思で行動したのであり、自分は自殺を幇助していないと無罪を主張した。
しかし東京地裁は、二人の行為が西部の自死を心理的、物理的に容易にしたと判断した。
2018年7月、青山に懲役2年、執行猶予3年。同年9月、窪田にも懲役2年、執行猶予3年の判決が言い渡された。
いずれの判決でも、西部本人からの強い働きかけがあり、自死の意思も固かったことが考慮された。それでも、本人が望んだ死であることによって、手助けした側の刑事責任が消えることはなかった。
人間は一人では生きられない。それでも西部は最期を自分で決めた
西部邁は、子どもたちにこれ以上の負担をかけたくないと考えていた。
最後の著書『保守の真髄』でも、自分が周囲にもたらすものより負担の方が大きくなったとき、死を考えるべきだという趣旨を書いている。娘に残した手紙にも、これ以上迷惑をかけたくないという思いが記されていた。
しかし、西部の最期を「家族に迷惑をかけたくなかったから」とだけ説明すると、おそらく一番重要なものが抜け落ちる。
西部が長く考えてきたのは、そもそも人間とは何かという問題だった。
西部にとって、人間は一人で完成する存在ではなかった。
人は家族や友人と関わり、社会の中で生き、過去の人間から言葉や慣習を受け取り、まだ生まれていない世代へ何かを渡していく。西部自身、生きることを「他者との付き合い」として捉え、その他者には死者や未来の子孫まで含めていた。
人間は、自分一人の理性だけで自分を作った存在ではない。
だからこそ西部は、個人の合理性によって社会のすべてを設計できるという近代的な発想を疑った。それが彼の保守思想の重要な部分でもあった。
ところが人生の最後で、西部は自分の死をかなり具体的に設計した。
病院で最期を管理されることを嫌い、自分の意思が失われる前に、自分で生き方としての死に方を決めようとした。
ここに、西部の最期を考えるうえで避けて通れない問いがある。
人間が本当に他者との関係の中にある存在なら、自分の死だけを自分一人の意思によって閉じることなど、そもそも可能なのだろうか。
実際、西部の死は一人では完結しなかった。
身体の衰えた西部が計画した死を実行するには、親しい二人の助力が必要だった。そして二人は逮捕され、自殺幇助罪に問われ、有罪判決を受けることになる。
それは単に「他人に迷惑をかけた」という問題ではない。
むしろ、西部自身が考え続けてきた人間という存在の姿が、最後の瞬間に現れたとも考えられる。
一人で死を決めたつもりでも、人は一人では死ねなかった。
自分の人生を自分で閉じようとしても、そこには家族がいて、友人がいて、弟子がいて、社会があり、法律があった。
西部は、人間が孤立した個人ではないことを知っていた。
それでも最後には、自分の人生の結末だけは自分で決めようとした。
そして、その試みそのものが、逆説的に「人間は他者との関係から逃れられない」という彼自身の思想を証明するような結果になった。
西部邁の死は、彼の思想を完成させたのだろうか。
それとも、彼が生涯考え続けた「人間」という存在の矛盾を、最後に自ら露出させたのだろうか。
まとめ|西部邁とは何者だったのか
西部邁は、保守思想家だった。
しかし、体制に従うだけの保守ではなかった。
若いころには左翼学生運動の中心に立ち、その後は保守の側から大衆社会と戦後日本を批判した。大学を去り、論壇へ移り、異なる立場の人間と議論しながら、自分の言葉を作り続けた。
テレビで見せた姿は、理路整然として知的であり、自分を強く制御できる人物だった。
だが、老いはその自己像を少しずつ崩していった。
妻を失い、身体が思うように動かなくなり、書くことにも他人の助けが必要になった。自分が自分でなくなる未来を、西部は誰よりも早く、誰よりも冷静に見ていたのかもしれない。
そこで彼は、死を自分で選ぶことによって、最後まで自分であろうとした。
しかし、その死は一人では実行できなかった。
弟子ともいえる元塾頭と、長く番組を支えた制作者が手を貸し、二人は有罪となった。
西部の最期を、思想を貫いた美しい死として語ることはできない。
かといって、他人を巻き込んだ身勝手な死という一言だけで片付けることもできない。
そこには、老いることへの恐怖、家族へ負担をかけたくないという思い、自分の意思を失いたくないという執念、そして人間は一人では死ぬことさえできないという現実が重なっている。
西部の最期は、彼の人生への答えではない。
人はどこまで自分の生を決められるのか。
老いて他者に委ねることは、自己を失うことなのか。
迷惑をかけずに死ぬことなど、本当に可能なのか。
その最期は今も、答えの出ない問いとして残っている。
西部邁の人生と死生観をさらに読む
西部邁の最期だけを切り取っても、なぜ彼があのような死を選んだのかは見えてこない。
彼自身がどのように自分の人生を眺め、老い、死、他者との関係を考えていたのか。その内側に近づくなら、まず読んでおきたいのが晩年の自伝的作品『ファシスタたらんとした者』である。
そして今回の記事と特に深くつながるのが、『妻と僕 寓話と化す我らの死』である。
妻の病を前に、西部は夫婦とは何か、孤独とは何か、生と死とは何かを考えている。後年の自死を知ったうえで読むと、西部の死生観が最晩年になって突然生まれたものではなかったことも見えてくる。
もう一冊が、死の直前に刊行された『保守の真髄』である。
これは西部の保守思想を知るための本であると同時に、老いた西部が自分自身の生と死をどう考えていたのかを読むことのできる一冊でもある。
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西部邁の最期を考えることは、死だけを考えることではない。
彼がどのように生き、自分自身をどのように見つめ、最後まで「人間とは何か」を考え続けたのか。その過程をたどることで、あの最期もまた違って見えてくる。
西部邁から、さらに時代をたどる
西部邁がテレビで論争を交わした相手の一人に、小田実がいる。
小田はベ平連を率いた左派の作家・思想家であり、西部とは政治的な立場を異にしながら、『朝まで生テレビ!』など同じ言論空間に立った。二人を並べて見ると、昭和から平成にかけて、思想家がテレビの中で真正面から議論していた時代も見えてくる。
一方、西部邁の保守思想を考えるうえでは、三島由紀夫も興味深い対照となる。
三島は国家、天皇、肉体、死をめぐる思想を自らの生き方と結びつけ、最後には自決という形で人生を閉じた。西部と三島は同じ「右翼」や「保守」という一語では括れないが、思想と死が最後に重なった人物という点では、比較して読む意味がある。




