1989年、日本中を震撼させた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件。
逮捕された宮崎勤の名前は、その後「オタク」「大量のビデオ」「薄暗い部屋」といったイメージと強く結びつけられることになった。
しかし、事件をいったん横に置き、逮捕されるまでの人生だけをたどってみると、少し違った人物像が見えてくる。
宮崎勤は、生まれてからずっと自室に閉じこもっていた人物ではない。
高校を卒業し、短期大学へ進学し、会社員として働いた経験もある。退職後には実家の仕事を手伝い、車を運転して外出し、ビデオの交換や同人活動を通じて他人との交流も持っていた。
では宮崎勤とは、いったい何者だったのだろうか。
後世につくられた「オタク殺人鬼」という人物像から少し離れ、1962年の誕生から26歳で逮捕されるまでを追っていく。
宮崎勤は1962年、東京都五日市町に生まれた
宮崎勤は1962年8月21日、東京都西多摩郡五日市町、現在のあきる野市周辺で育った。
実家は地域紙『秋川新聞』を発行する印刷業を営んでいた。
祖父は織物工場を経営し、町議を務めたこともある人物だったとされる。宮崎はこの祖父によく懐き、祖父側も孫の宮崎を可愛がっていたという証言が残されている。
後年の宮崎を「社会から完全に孤立した家庭の出身」と考えると少し違う。
少なくとも宮崎家は地域社会と無縁の家ではなく、父親は地域新聞を発行し、祖父も地域で事業を営んでいた。
宮崎は、そうした家庭の長男として育ったのである。
生まれつき両手に障害があった
宮崎には、生まれつき両手首を十分に回転させて手のひらを上に向けることが難しい身体的な障害があったと伝えられている。
このことを本人が気にしていたという証言もある。
ただし注意しておきたいのは、身体的な障害と後の犯罪を直接結びつける根拠はないという点である。
凶悪事件が起きた後には、犯人の少年時代の特徴が「原因」であるかのように語られがちだ。
宮崎の場合も、身体的特徴、家庭環境、趣味、性格など、さまざまな要素が後から犯罪と結びつけて説明された。
しかし、それらは「宮崎勤という人物を理解する材料」と「殺人事件の原因」とに分けて考える必要がある。
明大中野高校から東京工芸大学短期大学部へ
宮崎は明治大学付属中野高校へ進学した。
その後、1981年に東京工芸大学短期大学部画像技術科へ進学している。
写真や印刷など画像技術を学ぶ学校であり、後に宮崎が印刷会社に就職する経歴ともつながっている。
学生時代にはパズルに熱中し、自作したパズルを雑誌に投稿するなど、特定の対象を集中的に追う傾向もすでに見られたとされる。
少なくともこの時点の宮崎は、学校に通わず部屋から出ない生活をしていたわけではなかった。
高校、短大と進学し、卒業後には就職している。
短大卒業後は印刷会社員になった
1983年、短期大学を卒業した宮崎は、叔父の紹介で東京都内の印刷会社に就職したとされる。
そこで印刷機のオペレーターとして勤務していた。
宮崎勤という人物について現在残っているイメージだけを見ると、最初から定職を持たず自室に閉じこもっていたようにも見える。
しかし実際には、20代前半には会社員として働いていた時期が存在する。
その生活が変わるのが1986年だった。
勤務先を退職した宮崎は、その後しばらく自室にこもるような生活を送り、やがて父親が営む印刷・新聞関係の仕事を手伝うようになったと、当時の報道や後年の資料では伝えられている。
ここから宮崎の生活は、一般的な会社員生活から徐々に離れていく。
宮崎勤は「ひきこもり」だったのか
宮崎勤を紹介する際、「ひきこもり」という言葉が使われることがある。
確かに、会社を辞めた後、自室に閉じこもっていた時期はあったとされる。
しかし、宮崎の20代後半の生活全体を「ひきこもり」と表現すると、実態を単純化しすぎる。
宮崎はその後、家業を手伝っている。
自動車も頻繁に運転していた。
さらにビデオ収集では、全国の愛好家とテープを交換するビデオサークルのネットワークを利用していた。
インターネットが存在しない時代、地方で放送された番組を別地域の会員に録画してもらい、郵送でビデオテープを交換する文化が存在していた。宮崎もそうしたネットワークに参加していたと当時報じられている。
つまり、対人関係が広かった人物ではないにしても、社会との接点を完全に失っていたわけではない。
現在一般的に想像される「家から一歩も出ないひきこもり」とはかなり違う。
現代では、その細い接点がインターネットやYouTubeに置き換わっている。社会から距離を取りながらも、ネットを通じて自分の生活や存在を発信する人々については、別記事「ひきこもりYouTuberとは何か|同じ時代に分岐した3つの生存構造(シロズミ・イエティ・恥かき人生)」で詳しく取り上げている。
約6000本のビデオを集めていた
宮崎勤を象徴するものとして語られるのが、逮捕後に報道された大量のビデオテープである。
部屋からは6000本近いビデオテープが見つかったとされる。
アニメ、特撮、映画、テレビ番組などを録画したもので、宮崎は複数のビデオサークルなどを利用してコレクションを増やしていた。
重要なのは、宮崎が単にアニメを見続けていた人物というより、「集めること」そのものに強くこだわっていた側面があったことである。
ビデオサークルを通じて希少な番組を探し、他人と交換しながら大量のテープを蓄積していった。
この「収集家」としての性格は、宮崎勤の人物像を考えるうえで無視できない部分だろう。
コミックマーケットにもサークル参加していた
宮崎は漫画やアニメの同人活動にも関わっていた。
1989年3月25、26日に晴海で開催された「コミックマーケット35」にサークル参加していたことが報じられている。
コミックマーケット準備会の記録によれば、この回には約8900サークル、約7万人が参加していた。
つまり宮崎は、自宅で一人だけの趣味世界を作っていたわけでもない。
ビデオサークルに入り、コミックマーケットにも参加するなど、当時形成されつつあったファン文化の中にいた。
後にこれが、宮崎勤と「オタク」という言葉を結びつける大きな材料になっていく。
「オタク殺人鬼」という人物像は逮捕後につくられた
1989年8月、宮崎勤の名前が事件の容疑者として大々的に報道される。
そしてテレビや週刊誌が注目したのが、宮崎の自室だった。
大量のビデオテープ、漫画、雑誌。
それらの映像が何度もテレビで流され、「異常な趣味を持つ青年」という人物像が急速に形成されていった。
「おたく」という言葉自体は1980年代前半から一部で使われていたが、一般社会へ広く知られる大きな契機となったのが宮崎勤事件だったとされている。
しかも、後年には宮崎の部屋を撮影する際、テレビカメラマンが性的な内容の漫画を目立つ位置に置いて撮影したという取材証言まで出ている。
つまり、テレビで繰り返し映し出された「宮崎勤の部屋」そのものにも、報道する側による演出が加えられていた可能性が指摘されている。
事件の凶悪さは揺るがない。
しかし、
「アニメや漫画を好むオタクだったから殺人を犯した」
という単純な物語まで事実だったわけではない。
祖父の死
宮崎の人生を追ううえでもう一つ頻繁に登場するのが、祖父の存在である。
宮崎を幼少期から可愛がっていたとされる祖父は、1988年5月に亡くなった。
その約3か月後、最初の女児誘拐殺人事件が起きる。
この時間的な近さから、祖父の死を犯罪の転機として扱う書籍や報道は少なくない。宮崎が祖父に強い愛着を持っていたという家族や近隣住民の証言も伝えられている。
ただし、
「祖父が死んだから連続殺人を始めた」
とまで断定することはできない。
人間が重大犯罪に至る過程を、一つの出来事だけで説明することは難しい。
祖父の死は宮崎の人生における重要な出来事ではあるが、犯罪原因とは切り離して見る必要がある。
事件以前から問題行動はあった
一方で、「逮捕までまったく犯罪的な兆候がなかった普通の青年だった」とするのも正確ではない。
裁判では、宮崎が一連の殺人事件より以前の1984年ごろから、女児に対して性的な目的をうかがわせる撮影行為をしていたとする証言も明らかになっている。
前科を重ねながら徐々に凶悪犯罪へ進んだタイプではない。
しかし、表面上の社会生活の裏側では、後の事件につながっていく問題行動もすでに始まっていた。
ここが宮崎勤という人物の不気味なところでもある。
「ひきこもりのオタク」だけでは宮崎勤は見えてこない
宮崎勤は1962年に生まれた。
高校へ進学し、短期大学を卒業し、印刷会社へ就職した。
会社を辞めた後には自室にこもる時期もあったが、その後は家業を手伝い、車で外出し、ビデオサークルや同人活動にも参加した。
そして26歳のとき、逮捕された。
こうして経歴だけを追ってみると、
「社会と完全に断絶したひきこもりのオタクが、ある日突然殺人鬼になった」
というイメージでは説明できない人物であることが分かる。
宮崎が漫画やアニメ、特撮を好み、大量のビデオを収集していたことは事実である。
しかし、それらの趣味が4人の女児を殺害した原因だったことを示すものではない。
一方で、事件以前から性的な問題行動が存在したこともまた無視できない。
社会生活を営んでいた青年。
人間関係が希薄だった青年。
巨大なコレクションを作り続けた青年。
そして、人知れず危険な行動を始めていた青年。
それらはすべて、同じ宮崎勤の中に存在していた。
1988年8月、その26年間の日常は、最初の女児誘拐殺人事件によって決定的に変わる。
では宮崎勤は、4人の女児に何をしたのか。
そして事件は、被害者だけでなく宮崎自身の家族に何を残したのか。
それは次の記事で追っていく。
宮崎勤という人物をさらに知りたい人には、本人の手紙や文章をまとめた『夢のなか、いまも』がある。
一般的な意味での自伝ではないが、控訴審から最高裁で死刑判決が確定するまでの本人の告白に加え、未公開だった幼少期の写真や、宮崎自身が描いたイラストなども多数収録されている。
さらに、拘置所で読んでいた本やマンガ雑誌、聴いていたラジオ番組などの記録もあり、事件報道だけでは見えにくい宮崎勤という人物を知るための資料にもなっている。
あわせて読みたい
重大事件では、犯行そのものだけでなく、事件後に社会が犯人像を作り上げていくことがある。1997年の神戸連続児童殺傷事件でも、「少年A」という存在は事件を超えて一つの社会的記号となった。
▶ 酒鬼薔薇聖斗とは何だったのか|神戸連続児童殺傷事件と「少年A」
凶悪事件の犯人は、事件後に「社会から孤立した特殊な人間」として説明されやすい。しかし、その人生をさかのぼると、単純な言葉では収まらない経歴が見えてくる。秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大についても、別記事でその人生を追っている。

