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市橋達也とは何者だったのか|自ら顔を変え、無人島で生き延びた961日間の逃亡

市橋達也の逃亡記録 書物私論
※本ページはプロモーションが含まれています

2007年3月26日夜、千葉県市川市のマンションを訪ねてきた警察官の目の前から、一人の男が逃走した。

市橋達也。当時28歳。

その部屋のベランダからは、後に英国人女性リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)の遺体が発見される。

市橋は警察官を振り切って逃走すると、そのまま行方をくらませた。

それから逮捕されるまで、実に961日。約2年7か月である。

この間、市橋は日本各地を転々とした。野宿を続け、四国を歩き、沖縄の無人島に潜伏した。自分の顔に手を加えて容貌を変え、建設現場で働いて金を貯め、その金を美容整形に費やした。

しかも、整形をしたのは一度ではなかった。

その逃亡生活には、通常の殺人事件とは異なる、奇妙な執念が見える。

さらに不可解なのは、市橋が事件前には親から仕送りを受け、定職にも就かずに暮らしていたことだ。

社会的には自立していなかった男が、逃亡者になると、誰にも頼らず生き延びるための行動力を発揮した。

市橋達也とは、いったい何者だったのか。

生い立ちと事件、そして異様なまでの逃亡生活を時系列で追っていく。

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医師の家庭に生まれた市橋達也

市橋達也は1979年1月5日に生まれ、岐阜県で育った。

父親は医師、母親は歯科医師。

医療に携わる両親のもとで育ち、自身も医師になることを目指していた。

岐阜県立羽島北高校を卒業後、医学部への進学を希望するが、合格できなかった。

4年間の浪人生活を経て、進学したのは千葉大学園芸学部だった。

市橋は園芸学部で緑地環境や庭園設計などを学んだ。大学では空手にも取り組んでいた。

千葉大学時代の恩師、本山直樹名誉教授によれば、市橋は学生時代、決して何もしない人物ではなかったという。

庭園設計にも取り組み、卒業後はアメリカの大学院で環境デザインなどをさらに学びたいという希望を持っていた。

2005年、市橋は千葉大学を卒業する。

しかし、就職はしなかった。


市橋と同じように、医学部への進学を志しながら、別の道へ進んだ殺人犯がいる。

1999年の下関通り魔殺人事件を起こした上部康明である。

上部は医学部への進学を断念し、九州大学工学部建築学科へ進んだ。その後、一級建築士となり、独立開業まで果たしている。

市橋とは生い立ちも事件の背景も異なる。しかし、希望した進路とは違う人生を歩み、やがて重大事件を起こしたという共通点がある。

関連記事: 下関通り魔殺人事件・上部康明とは何者だったのか|九大卒・一級建築士が無差別殺人に至るまで

大学を卒業しても働かなかった

大学卒業後、市橋は千葉県市川市にある両親所有のマンションで暮らしていた。

家賃はかからず、親から月15万円ほどの仕送りを受けていたとされる。

すでに26歳。

その後も定職に就くことなく、事件を起こす28歳までこの生活を続けた。

ただし、何も目指していなかったわけではない。

市橋はアメリカの大学院進学を希望しており、独学で英語の勉強を続けていた。

本山教授が卒業後の市橋を知る人物から聞いた話では、英語学校に通うには多額の費用が必要だったため、独学でTOEFLの勉強を続けていたという。

しかし、大学院進学に必要な英語力には届かなかった。

医師を目指して4年間浪人する。

医学部への進学を断念し、別の大学を卒業する。

今度はアメリカの大学院を目指すが、それも実現しない。

こうして市橋は、大学卒業から約2年間、進学も就職もしない生活を送っていた。

親から仕送りを打ち切られる

事件直前、市橋は両親から生活の自立を求められていたという。

本山教授の証言によれば、両親は2007年3月末で仕送りを打ち切り、マンションからも出て自活するよう求めていた。

市橋は28歳だった。

両親がいつから、どのような条件で自立を求めていたのかは明らかではない。

市橋にとって人生の転機だったことは想像に難くない。

医師になることはできず、海外大学院への進学も実現していない。

そのうえ、生活を支えてきた仕送りが終わろうとしていた。

しかし、市橋がこの状況をどう受け止めていたのか、本人の内面は十分には明らかになっていない。

そして2007年3月、事件が起こる。

リンゼイ・アン・ホーカーさんとの出会い

リンゼイ・アン・ホーカーさんは、英国から来日し、千葉県内で英会話講師として働いていた22歳の女性だった。

2007年3月20日ごろ、市橋は行徳駅周辺でリンゼイさんに声をかけた。

英語を教えてほしいという申し出だった。

市橋は以前から海外留学を目指し、英語を勉強していた。英会話の個人レッスンを希望したこと自体は、その経歴と矛盾しない。

その後、2人は連絡を取り合い、個人レッスンの日程を決めた。

3月25日午前9時ごろ。

行徳駅近くの喫茶店で、初めての英語の個人レッスンが行われた。

料金は1時間3,500円。

レッスンの途中、市橋は料金を持っていないと説明し、近くの自宅まで一緒に来てほしいと申し出た。

リンゼイさんは市橋とともにマンションへ向かった。

しかし、彼女が自宅に帰ることはなかった。

英会話レッスンから殺人事件へ

市橋は自宅に入ったリンゼイさんに性的暴行を加え、手足を拘束した。

その後、長時間にわたって自由を奪い、翌26日未明に首を圧迫して窒息死させた。

性的暴行から殺害までには約16時間が経過していたとされる。

裁判では、市橋が殺意を持って首を圧迫したのかが争点となった。

市橋は殺意を否定し、逃げようとするリンゼイさんを止めようとしたと主張した。

しかし、千葉地裁は強い圧迫が一定時間続いていたことなどから、殺意があったと判断した。

性的暴行の発覚を恐れたことが殺害の動機だったと認定されている。

市橋は遺体をベランダに置いた浴槽に隠し、園芸用の土などで埋めた。

一方、リンゼイさんが勤務先に現れなかったことから、関係者が不審に思い、警察に相談していた。

市橋はリンゼイさんに自分の名前や連絡先を知らせていた。

2人が喫茶店にいた姿も防犯カメラに残っていた。

警察が市橋のマンションへたどり着くまで、長い時間はかからなかった。

2007年3月26日、市橋達也が警察官の目の前から逃走

3月26日午後9時すぎ。

警察官らが市橋のマンションを訪ねた。

市橋は警察官を振り切り、非常階段などを使って逃げ出した。

靴を履く余裕もなかった。

裸足のままマンションを飛び出し、夜の街へ逃げ込んだのである。

警察官は後を追ったが、市橋を確保できなかった。

まもなく部屋からリンゼイさんの遺体が発見される。

ここから961日間の逃亡生活が始まった。

市橋達也が自ら書いた逃亡手記『逮捕されるまで』

2011年1月、市橋達也は拘置所から一冊の手記を出版した。

『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』である。

2007年3月26日に警察官の目の前から逃走し、2009年11月10日に逮捕されるまでの961日間を、市橋自身が振り返ったものだ。

青森への逃避行、四国遍路、沖縄の無人島での生活、建設現場での労働、美容整形。逃亡中にどこへ行き、何を食べ、どのように生活していたのかが詳しく記されている。

自分で描いた挿絵も収録されている。

しかし、この手記には大きな空白がある。

逃亡生活については詳細に語っている一方、なぜリンゼイさんを殺害したのか、その核心についてはほとんど語られていない。

出版当時、市橋はまだ裁判の判決を受けていなかった。

手記は本人の視点から書かれたものであり、記述のすべてが客観的に確認されているわけではない。それでも、961日間の逃亡生活を知るための重要な資料である。

以下では、この手記と当時の報道をもとに、市橋がどのように逃亡生活を送っていたのかを追っていく。

関連書籍:▶市橋達也『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』をAmazonで見る

逃亡初日、自分の鼻を縫って顔を変える

市橋は逃走した直後から、自分の容貌を変えようとしていた。

本人の手記や日本テレビの再現取材によれば、逃亡初期、市橋は東京都内に移動し、病院のトイレで自分の鼻に手を加えた。

使ったのは裁縫道具だった。

医師による整形手術ではない。

自分で鼻を縫い、形を変えようとしたのである。

当然ながら、感染や組織損傷などの危険を伴う行為だった。

さらに逃亡中には、自分の下唇の一部を切り取ったとも記している。

警察が全国に公開する指名手配写真には、市橋の顔の特徴が記載されていた。

市橋は、その特徴を消すことを考えた。

写真と違う顔になれば、道ですれ違った人間にも気づかれにくくなると考えたのだろう。

市橋は、警察官を振り切ったその日のうちに、自分の顔を傷つけていたのだ。

逃亡先も決まっていない。今後どこで暮らすのか、生活費をどうするのかもわからない。

それでも、市橋が真っ先に手をつけたものの一つが、自分の顔だった。

普通なら、住む場所や食料、逃亡資金の確保を考えるところだろう。

市橋は真っ先に、自分の顔を変えるという行動を起こしていたのである。

埼玉、茨城、群馬、そして青森へ

逃亡初期の市橋は、特定の場所に腰を落ち着けることができなかった。

本人の記録によれば、埼玉、茨城、群馬などを移動し、さらに北へ向かった。

電車やバスを使うこともあれば、歩き続けることもあった。

人目を避け、野宿し、食べ物にも困る生活だった。

手記には、疲労や睡眠不足で移動中の記憶が曖昧になった時期があったことも記されている。

やがて新潟を経て、青森方面へ向かった。

青森では海沿いの公園周辺に身を寄せ、橋脚付近などで野宿したという。

仕事を探すことも考えた。

しかし、この段階では身分を明かすことへの警戒心が強く、安定した就労には至らなかった。

金は減っていく。

食料を買えば、さらに減る。

だが、どこかで働けば自分の顔を見られ、身元が明らかになるかもしれない。

逃亡初期の市橋は、そうした状況の中を移動し続けていた。

四国を歩く、市橋達也の遍路生活

2007年春、市橋は西日本へ向かい、四国を巡った。

手記では、4月中旬から5月中旬ごろの出来事として記されている。

四国八十八カ所の霊場を巡る遍路道を歩いたのである。

なぜ四国だったのか。

本人の記録では、読んだ小説などの影響もあったとされる。

四国遍路の道は長い。

山道もあれば、海沿いの道もある。都市部だけを歩いて終わるような旅ではない。

市橋は徒歩で各地を移動しながら、野宿などを続けていた。

市橋は当時、警察から逃げていた。

遍路が精神的な救済を求める行動だったのか、身を隠すための移動だったのか、その両方だったのかは断定できない。

いずれにしても、長距離を歩き続けるだけの体力と持続力があったことは、彼の逃亡生活の一つの特徴である。

市橋は四国遍路の途中、自分の指名手配写真を見て、無人島への逃亡を考え始めたという。

しかし、完全な無人島では飲み水や食料を確保するのが難しい。

そこで、住民が少なく、人目を避けながら生活できそうな島を図書館で探した。

その後、市橋は四国から九州へ渡り、鹿児島方面を経て沖縄を目指した。

沖縄の無人島で生き延びようとする

2007年5月ごろ、市橋は沖縄へ向かった。

那覇から久米島へ移動し、さらにその周辺にあるオーハ島へ渡る。

オーハ島は、久米島の近くに位置する小さな島だ。

定住者のいない島として知られているが、農作業などで島に通う人もいた。

市橋がこの場所を選んだ理由は、人目を避けて生活するためだったと考えられる。

住民の多い都市部では、どこにいても誰かに顔を見られる。

一方、人の少ない島なら、その危険は小さくなる。

しかし、人目につかないことと、生きていけることは別だった。

魚が釣れない、水も確保できない

市橋は、島で自給自足の生活を試みた。

寝袋などを持ち込み、魚を釣って食料にしようとした。

ところが、思うように魚が釣れなかったという。

さらに深刻だったのが飲み水の問題だった。

周囲には海が広がっている。しかし、海水はそのまま飲むことができない。

市橋は手元にあるものを使って海水から飲み水を得ようとしたものの、うまくいかなかった。

食料も水も十分に確保できない。

夜には蚊や虫が襲ってくる。

市橋は寝袋にくるまり、屋外で夜を過ごした。

やがて空腹と脱水に苦しむようになった。

最初の無人島生活は、短期間で行き詰まった。

ここで初めて、市橋は誰にも見つからない場所で生活することの厳しさを知ったのかもしれない。

それでも無人島へ戻った

しかし、市橋は無人島生活を諦めなかった。

その後も沖縄と本土を往復し、オーハ島を繰り返し潜伏先に選んでいる。

手記をもとにした逃走経路の整理では、オーハ島への渡島は計4回とされている。

再び島へ渡った際には、サバイバルに関する本を読み、生活に必要な物資を準備したという。

島ではコンクリートブロック造りの建物を見つけ、そこを生活場所として利用することもあった。

最初の島暮らしでは、水や食料の確保に失敗している。

そこで次は準備を変える。

しかし、食料が尽きたり、天候が悪化したりすれば、島を離れざるを得なかった。

市橋の無人島生活は、映画の中に登場するような完全な自給自足生活ではなかった。

本土との往復を必要とする、不安定な生活だったのである。

そして島で暮らすためにも、金が必要だった。

市橋は再び関西へ向かう。

大阪・西成で仕事を探す

市橋は大阪市西成区のあいりん地区などで仕事を探した。

日雇い労働者を募集する業者が集まり、建設現場などの仕事を紹介する地域である。

市橋はそこで住み込みの仕事を見つけた。

仕事は建設現場の作業や解体作業だった。

朝から身体を使って働き、寮に戻って眠る。

逃亡生活の中で、市橋は初めて継続的に働くようになる。

当時の仕事について、日本テレビは日当約1万円、寮費が1日約3,000円という条件を紹介している。

市橋は本名を名乗らず、経歴も偽っていた。

しかし、現場では仕事をこなしていた。

肉体労働を続け、数十万円を貯める

逃亡初期、市橋は食べ物や寝る場所にも困っていた。

しかし、住み込みで働くようになると事情が変わる。

食事が取れる。

寝る場所がある。

そして、毎日働けば金が貯まる。

日本テレビの取材では、市橋が神戸周辺の建設現場で働いた際、月25万円ほどを稼ぎ、数か月で約80万円を蓄えた経緯が紹介されている。

市橋は寡黙で、必要以上に人と関わらないようにしていたという。

また、他人の前では利き手を変えて振る舞うなど、身元を知られないための行動も取っていたとされる。

だが、同じ職場で長く働けば、当然ながら顔を覚えられる。

同僚がテレビの指名手配犯について話しただけで、市橋はその場に居続けることを危険だと考えた。

やがて職場を去る。

働いて金を貯める。

危険を感じると姿を消す。

そして、別の場所へ移る。

逃亡生活は、次第にこの繰り返しになっていった。

2007年末、貯めた金で美容整形を受ける

市橋は逃亡中、自分の顔に繰り返し手を加えていた。

鼻を縫い、唇を切る。

さらに、指名手配書に特徴として記載されていた頬のほくろも、自分でカッターナイフを使って取り除いたという。

しかし、自分の手で顔を変えることには限界がある。

そこで市橋は美容外科を訪れた。

2007年12月ごろ、大阪の美容外科で鼻の整形手術を受けたとされている。

費用は約60万円。

逃亡中に建設現場で働いて貯めた金だった。

通常、美容整形は本人が望む容姿に近づくために行う。

しかし、市橋の場合は違った。

指名手配写真と異なる顔になることが重要だった。

元の顔立ちがどうであろうと、別人に見えることが優先されたのである。

そして市橋は、整形後も逃亡を続けた。

2008年、無人島と建設現場を行き来する

2008年に入っても、市橋の逃亡生活は終わらなかった。

再び沖縄へ渡ってオーハ島に潜伏し、関西へ戻って仕事を探す。

本人の手記では、兵庫県加古川周辺の建設現場で働いた時期についても語られている。

河川敷の整備、住宅造成、解体工事など、仕事はさまざまだった。

日雇い労働や住み込みの仕事を続けながら、金を貯めていく。

しかし、報道で自分の名前が取り上げられると、そのたびに警戒心を強めた。

職場の人間が市橋の事件を話題にする。

市橋自身も報道を知る。

身元が明らかになる前に、また姿を消す。

この時期、市橋は沖縄と関西を繰り返し移動していた。

だが、長い逃亡生活の中でも、比較的安定して過ごした期間があった。

「井上康介」として大阪で1年以上働く

2008年夏、市橋は再び関西で仕事を見つける。

大阪府茨木市の建設会社だった。

市橋は「井上康介」という偽名を使用し、会社の寮に住み込んで働いていた。

この会社で働いた期間は、2008年夏から2009年10月までの約1年2か月に及ぶ。

事件からすでに1年以上が経過していた。

市橋は工事現場で働き、寮で生活し、給料を受け取っていた。

同僚たちは、彼が全国指名手配中の人物だとは知らなかった。

当時の報道によれば、市橋は仕事熱心で、休日にも働きたがる人物だったという。

給料を浪費することも少なく、現金を貯めていた。

2009年秋に姿を消した時点では、100万円近い金を蓄えていたとも報じられている。

ここに、市橋の事件前の姿との著しい落差がある。

大学を卒業しても就職せず、両親の仕送りで生活していた男。

その男が、全国に指名手配されながら建設現場で1年以上働いていた。

身元を偽り、人間関係を制限していたとはいえ、仕事を続けるだけの身体能力と持続力はあった。

ただし、その生活は決して普通の自立ではない。

市橋は偽名を使い、他人に本当の自分を知られないようにしていた。

働くことで生活を成り立たせてはいたが、いつ発覚するかわからない逃亡生活の一部だった。

2009年10月、再び顔を変えようとする

2009年10月。

市橋は、それまで働いていた建設会社から突然姿を消した。

本人の手記では、寮の周辺で不審な車やスーツ姿の人物を見かけ、警察ではないかと疑ったことが語られている。

実際に警察が来ていたかどうかは別として、市橋はそこに居続けることを危険だと考えたようだ。

その後、市橋は美容整形を受けようとして各地の医療機関を訪れた。

10月13日には福岡県内の美容外科を訪れたが、希望する手術を断られている。

そして10月24日。

名古屋市内の美容外科で、鼻の付け根付近などの形を変える手術を受けた。

ここで市橋の逃亡生活は大きく変わる。

美容外科の医師が市橋に気づく

手術後、医療機関の関係者が市橋の容貌に疑問を抱いた。

顔には、以前ほくろを取り除いたような痕が残っていた。

それが指名手配中の市橋の特徴と一致するのではないか。

医療機関から警察へ情報が寄せられた。

2009年11月5日、警察は美容外科で撮影された市橋とみられる男性の顔写真を公開した。

それまでの指名手配写真とは異なる顔だった。

だが、この新しい顔写真が公開されたことで、捜査は一気に進展する。

大阪府茨木市の建設会社の関係者も写真を見て、以前働いていた男と似ていることに気づいた。

警察に通報し、寮に残された指紋などから、市橋が働いていたことが裏づけられていく。

逃亡するために受けた美容整形が、結果として追跡の手がかりになったのである。

2009年11月、市橋は最後に沖縄を目指した

整形後の顔写真が全国に公開され、市橋は再び逃亡を続けた。

このころ、市橋は福岡県内のホテルにも滞在していたという。

一方、警察には各地から目撃情報が寄せられていた。

すでに顔写真が公開され、かつての勤務先も判明している。

それでも、市橋は出頭しなかった。

本人の手記などによると、最後に向かおうとした場所は沖縄だった。

かつて潜伏していたオーハ島へ再び渡ることを考えていたのである。

市橋は沖縄行きのフェリーを探し、神戸へ向かった。

しかし、神戸から希望する便は出ていなかった。

そこで、大阪南港からのフェリーに乗ることにした。

ほとんど荷物を持たない男

神戸のフェリーターミナルで、市橋は職員に沖縄行きの便について尋ねた。

職員は、その男の様子に違和感を覚えたという。

沖縄へ向かう長距離フェリーの利用者であるにもかかわらず、大きな荷物をほとんど持っていなかったからだ。

さらに、市橋の整形後の顔写真が報道されていたこともあった。

職員は不審に思い、関係先へ連絡した。

大阪南港では、すでに警察が情報を把握していた。

2009年11月10日午後8時17分。

沖縄行きのフェリーを待っていた市橋は、警察官に身柄を確保された。

確認を経て逮捕された。

2007年3月26日に裸足で警察官を振り切ってから、約2年7か月。

961日間の逃亡生活は、大阪南港で終わった。

無期懲役判決

市橋は逮捕後、殺人、強姦、死体遺棄の罪に問われた。

2011年7月21日、千葉地裁は無期懲役の判決を言い渡した。

市橋側は控訴したが、2012年4月11日に東京高裁が控訴を棄却。その後、上告せず無期懲役が確定した。

市橋は裁判で殺意を否定したが、裁判所はその主張を認めなかった。

市橋達也の逃亡生活を映画化した『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』

2013年11月9日、市橋達也の961日間の逃亡生活を描いた映画『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』が公開された。

原作は、市橋自身が拘置所で執筆した手記『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』である。

監督と主演を務めたのは、ディーン・フジオカだった。

現在では俳優として広く知られているが、当時は日本での知名度がまだ高くなく、本作が映画監督デビュー作となった。

映画では、市橋が警察官の目の前から逃走した後、各地を転々とし、自ら顔を変え、肉体労働をしながら潜伏を続ける姿が描かれる。

ただし、単に逃亡経路を再現した作品ではない。

逃亡する市橋と、自分自身を見つめるもう一人の市橋を登場させることで、彼の内面にも踏み込もうとしている。

殺人事件の加害者を主人公にして映画化することには、公開当時から批判もあった。

市橋達也という人物が、事件後も社会の関心を集め続けたことを示す作品でもある。

関連作品:▶映画『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』をPrime Videoで観る

なぜ事件前には働かなかったのか

ここで改めて、市橋の事件前の人生に戻ってみたい。

父親は医師、母親は歯科医師。

本人も医学部を目指したが、4年間の浪人を経ても進学できなかった。

千葉大学園芸学部を卒業した後には、アメリカの大学院を目指した。

しかし、それも実現しなかった。

そして28歳まで親から仕送りを受けて生活していた。

一方、逃亡生活では建設現場で働き、長期間にわたって自分の生活を維持していた。

この落差をどう理解すべきだろうか。

市橋は、働く能力がなかったわけではない。

少なくとも逃亡中には、肉体労働を続け、金を貯めることができた。

では、なぜ事件前にはそれをしなかったのか。

一つの可能性として、理想としていた人生と、それ以外の人生との間に折り合いをつけられなかったことが考えられる。

医師を目指す。

海外の大学院を目指す。

そうした目標は持っていた。

しかし、それらが実現しなかった後、別の職業に就き、自分の生活を始めることはできなかった。

ところが逃亡者になった途端、置かれた状況が一変する。

学歴も職業上の理想も関係なくなった。

そこにあったのは、逮捕されたくないという切迫した目的と、その日を生きていくための必要だった。

もっとも、これは経歴から導かれる仮説である。

市橋が実際に働くことをどう考えていたのか、なぜ海外留学を諦めきれなかったのかは、本人の十分な説明が残されていない。

また、こうした人生上の挫折から性的暴行や殺人が起きたと説明することもできない。


市橋達也は1979年生まれで、2005年に千葉大学を卒業した。就職氷河期世代にあたる。

同じ世代には、2008年の秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大がいる。

加藤は1982年生まれ。2003年に中日本自動車短期大学を卒業し、警備会社勤務などを経て、事件当時は派遣社員として働いていた。

親の援助を受けながら就職しなかった市橋と、職を転々とした加藤。

同じ就職氷河期を生きながら、二人が歩んだ道は異なっていた。

関連記事: 加藤智大とは何者だったのか|青森高校から派遣社員へ、人生を時系列でたどる

まとめ|市橋達也の961日間が残したもの

2007年3月26日。

市橋達也は、警察官の目の前から裸足で逃走した。

その後、自ら顔を変え、日本各地を移動し、無人島に潜伏し、工事現場で働き、金を貯め、美容整形を受けた。

そして2009年11月10日。

再び沖縄へ渡ろうとした大阪南港で逮捕された。

市橋の逃亡生活は、長期間にわたって全国的な関心を集めた。

その行動があまりにも特異だったからだ。

そして、市橋の行動を詳しく追うことで、一つの疑問が残る。

これほどまでに生き延びようとする力を持っていた男が、なぜ事件前には、自分の人生を生きるためにその力を使えなかったのか。

医師になることも、海外大学院へ進学することもできなかった。

しかし、働くことはできた。

生活することもできた。

そのことを、市橋自身が逃亡生活の中で証明してしまったのである。

そして、その能力が発揮されたのは、すでに取り返しのつかない事件を起こした後だった。

市橋達也という人物の不可解さは、そこにある。

本人の手記を読んでも、すべてが明らかになるわけではない。

ただ一つ言えるのは、市橋の逃亡生活が単なる潜伏ではなかったことだ。

※本の印税は被害者の遺族へ渡す意向が示されたものの、遺族は受け取りを拒否した。その後、印税などが犯罪被害者支援のために寄付された。

犯人本人の言葉を読む

重大事件の加害者本人が書いた手記、告白、獄中記録などを、 「物語の断面図」で紹介した事件を中心にまとめています。



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