中核派と革マル派は、日本の新左翼運動を語るうえで避けて通れない二つの党派である。
どちらも、もとは革共同と呼ばれる革命的共産主義者同盟の流れから生まれた。だが、1963年に分裂すると、両派は単なる別組織ではなく、激しく対立する敵同士となった。
赤軍派が日本赤軍や連合赤軍へつながり、ハイジャック、山岳ベース事件、あさま山荘事件という劇的な形で記憶されたのに対し、中核派と革マル派は、学生運動、労働運動、街頭闘争、そして内ゲバの記憶と結びついている。
革命を掲げた者たちは、なぜ国家ではなく、同じ左翼を敵として殺し合うようになったのか。
この記事では、中核派と革マル派の違い、革共同分裂の経緯、内ゲバ、そして現在までを整理する。
革共同から中核派と革マル派への分裂
中核派の正式名称は、革命的共産主義者同盟全国委員会である。
一方、革マル派の正式名称は、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派である。
名前だけを見ると非常にわかりにくい。
しかし、簡単にいえば、どちらも日本共産党とは異なる新左翼党派であり、もとは同じ革共同の流れから生まれた組織である。革共同とは、革命的共産主義者同盟の略称である。
1950年代後半、日本共産党の路線に不満を持った学生や活動家たちは、より急進的な革命運動を求めて新しい組織を作っていった。そこから生まれた流れの一つが革共同だった。
1960年安保闘争のあと、新左翼運動はさらに分裂と再編を繰り返す。
その中で、革共同内部でも対立が深まった。
中心にいたのが、本多延嘉と黒田寛一である。
本多延嘉は、のちに中核派の指導者となる人物である。
黒田寛一は、革マル派の理論的指導者となる人物である。
1963年、革共同は中核派と革マル派に分裂した。
ここから両派は、同じ新左翼の一部でありながら、互いを最大の敵とみなすようになっていく。
中核派と革マル派の違い
両派はいずれも「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げた。
つまり、アメリカを中心とする帝国主義にも、ソ連型の官僚的社会主義にも反対するという立場である。
しかし、同じ理論的出発点を持っていたからこそ、対立は激しくなった。
中核派と革マル派の違いは、かなり単純化すれば、次のように整理できる。
| 項目 | 中核派 | 革マル派 |
|---|---|---|
| 正式名称 | 革命的共産主義者同盟全国委員会 | 日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派 |
| 主な指導者 | 本多延嘉 | 黒田寛一 |
| 機関紙 | 前進 | 解放 |
| イメージ | 街頭闘争、大衆運動、労働運動 | 理論、組織建設、労組内の拠点形成 |
| 活動の特徴 | 外へ出る党派 | 内部を固める党派 |
| 対立の記憶 | 革マル派との内ゲバ | 中核派・解放派などとの内ゲバ |
もちろん、これは大まかな区分けである。実際の運動史はもっと複雑で、時期によって路線も変化している。
ただ、まず理解するなら、
中核派は「街頭に出る党派」、革マル派は「組織を固める党派」
と見るとわかりやすい。
中核派は、デモ、集会、学生運動、労働運動、成田闘争、国鉄闘争など、外に向かって運動を展開してきた。
一方の革マル派は、理論と組織建設を重視し、大学自治会や労働組合など、組織の内部に拠点を築こうとした。
中核派とは何か
中核派は、1963年に革マル派と分裂して発足した新左翼党派である。
機関紙は『前進』。そのため、中核派は「前進派」と呼ばれることもある。
中核派の特徴は、街頭闘争や大衆運動に積極的に関わってきたことにある。学生運動、反戦運動、成田闘争、国鉄闘争、反原発運動など、その時代ごとの争点に入り込んできた。
赤軍派のように国外へ飛び出していった組織ではない。中核派は、国内に残り、デモ、労働組合、大学、地域運動の中で活動を続けた党派である。
その意味では、中核派は新左翼運動の「地上戦」を続けてきた組織だった。
中核派自身は、自らの運動を革命運動、労働者階級の闘いとして位置づけている。
革マル派とは何か
革マル派は、正式には日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派という。
理論的指導者は黒田寛一である。機関紙は『解放』。
革マル派の特徴は、理論と組織建設を重視したことにある。
中核派が街頭へ出る党派だったとすれば、革マル派は組織内部に深く根を張る党派だった。大学自治会、労働組合、基幹産業などへの影響力がたびたび問題視されてきた。
特に警察当局は、革マル派について、JR総連やJR東労組への浸透を指摘してきた。
革マル派は、表の政治運動として目立つよりも、組織の内部に足場を作ることを重視してきた。そのため、一般の読者から見ると、中核派よりもさらに見えにくい。
中核派が赤い旗を持って路上に出る存在だとすれば、革マル派は、建物の奥、組織の名簿、大学の自治会室、労働組合の内部に現れる存在だった。
見えにくいから消えたわけではない。
見えにくい場所で続いてきたのである。
なぜ中核派と革マル派は対立したのか
中核派と革マル派の対立は、単なる派閥争いではない。
もちろん、組織の主導権争いもあった。理論の違いもあった。運動方針の違いもあった。
しかし、より根深かったのは、相手を「別の考えを持つ仲間」と見られなくなったことだった。
革命運動では、路線の違いが人生の違いになる。どの党派に属するかは、どの未来を信じるかという問題になる。
そのため、相手の路線は単なる意見の違いではなく、「革命を裏切るもの」として扱われた。
国家権力と戦うはずだった者たちが、まず隣の左翼を敵にした。
資本主義を倒すはずだった者たちが、同じ革命を語る者を倒し始めた。
中核派と革マル派の対立は、思想が人を救う物語ではなく、思想が人を追い詰める物語でもあった。
内ゲバとは何か
内ゲバとは「内部ゲバルト」の略である。
ゲバルトは暴力を意味する。つまり内ゲバとは、もともと近い立場にある党派同士、あるいは左翼内部で行われた暴力的抗争のことである。
中核派と革マル派の歴史を語るとき、この内ゲバを避けることはできない。
新左翼運動の一部は、1970年代に入ると、国家や企業との対決だけでなく、セクト同士の暴力抗争へ深く沈んでいった。
相手党派の活動家を襲撃する。鉄パイプで殴る。待ち伏せる。拉致する。殺害する。
それはもはや政治運動というより、組織と組織の戦争だった。
1970年代半ばには、内ゲバは最も激しい時期を迎える。警察白書でも、1974年から1975年にかけて内ゲバが頂点に達し、多数の死者と負傷者を出したことが記録されている。
川口大三郎事件と本多延嘉殺害
内ゲバを象徴する事件の一つが、川口大三郎事件である。
1972年、早稲田大学の学生だった川口大三郎が、革マル派の活動家らによって中核派のスパイとみなされ、暴行を受けて死亡した事件である。
川口大三郎は、中核派の幹部でもなければ、武装した活動家でもなかった。一般学生が党派の論理に巻き込まれ、命を奪われた。
この事件は、早稲田大学における学生運動の転機となった。革マル派支配への反発が広がり、学生運動そのものへの信頼も大きく崩れていった。
さらに1975年には、中核派の最高指導者だった本多延嘉が、革マル派によって殺害されたとされる事件が起きた。
本多延嘉は中核派の象徴的存在である。その殺害は、両派の抗争をさらに激化させた。
ここから中核派と革マル派の対立は、全面戦争のような様相を帯びていく。
革命を掲げる者たちが、革命の名のもとに、同じ左翼を殺していった。
川口大三郎事件については、のちにドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』も制作された。同作は、1972年11月8日に早稲田大学文学部キャンパスで起きた川口大三郎リンチ殺人事件を出発点に、革マル派による早稲田支配、事件後の早大解放闘争、そして新左翼党派間の内ゲバの時代を追った作品である。
原作的な位置づけにあるのは、元朝日新聞記者・樋田毅の本、『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』である。
中核派と革マル派の対立を知るうえで、事件の名前だけでは見えない当時の空気を伝える資料でもある。
赤軍派との違い
ここで、赤軍派との違いも整理しておきたい。
赤軍派は、世界同時革命や武装闘争を掲げ、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループなどへつながっていった。
その記憶は、ハイジャック、海外テロ、山岳ベース事件とあさま山荘事件など、非常に劇的である。赤軍派の系譜は、外へ飛び出す運動だった。
一方、中核派と革マル派は、国内に残り続けた。
派手な国際テロの記憶は赤軍派の方が強い。
だが、新左翼運動の長期的な存在感という意味では、中核派と革マル派の方がむしろしぶとかった。
日本赤軍は解散した。連合赤軍は山岳ベース事件とあさま山荘事件で崩壊した。
しかし、中核派と革マル派は、現在も組織名として残っている。
関連記事:日本赤軍とは何だったのか
関連記事:連合赤軍とは何だったのか
現在の中核派と革マル派
中核派と革マル派は、過去の歴史用語ではない。
警察庁の資料では、現在も極左暴力集団の主要セクトとして中核派、革マル派、革労協などが挙げられている。勢力は縮小しているが、完全に消滅したわけではない。
中核派は現在も機関紙『前進』を発行し、集会やデモ、労働運動、反戦運動などに関わっている。
さらに近年の中核派で特徴的なのは、YouTubeやSNS、メディアを使った発信である。
中核派のYouTubeチャンネル「前進チャンネル」は、2017年に開設され、若年層向けの発信媒体として注目された。※しかし、2025年9月上旬にアカウントが削除された。YouTubeによるBANではなく、自主削除だった可能性が高いとみられている。時期的には、同チャンネルに出演していた石田真弓氏の除名や、学生戦線をめぐる党内対立と重なっているが、削除理由が公式に明確化されたわけではない。
中核派の現在を象徴する人物の一人が、杉並区議会議員の洞口朋子である。洞口は2019年の杉並区議選で初当選し、2023年にも再選された。かつては前進チャンネルやテレビ番組にも登場し、現代の中核派を外部に見せる「顔」の一人となった。
ただし、2025年に前進チャンネルは削除され、チャンネル出演者をめぐる党内問題も表面化した。一方で、洞口本人は現在も杉並区議を続けており、中核派系の公然政治活動の象徴的存在であり続けている。
これは、かつての過激派のイメージとはかなり異なる。
ヘルメット、ゲバ棒、鉄パイプ、アジト。そうした昭和の映像だけで中核派を想像すると、現在の姿を見誤る。
現在の中核派は、街頭に出るだけでなく、カメラの前にも出る。若い活動家が顔を出し、メディアの取材にも応じる。
一方、革マル派は、中核派ほどメディアに顔を出す印象は強くない。
現在も、機関紙『解放』や理論誌『新世紀』を通じて主張を発信している。
ただし、その存在感は中核派よりも見えにくい。
革マル派らしさは、ここにも残っている。
中核派が動画や街頭で見える存在になっているのに対し、革マル派は現在も、組織、機関紙、労働運動、大学周辺の活動といった、見えにくい領域に軸足を置いているように見える。
まとめ
中核派と革マル派は、どちらも革共同から生まれた新左翼党派である。
中核派は、街頭闘争、大衆運動、労働運動に積極的に関わってきた。
革マル派は、理論と組織建設を重視し、大学や労働組合などの内部に拠点を築こうとした。
両派は1963年に分裂し、その後、激しい内ゲバを繰り広げた。川口大三郎事件や本多延嘉殺害は、その暗い歴史を象徴している。
赤軍派が国外や山岳へ向かった新左翼だとすれば、中核派と革マル派は国内に残り続けた新左翼だった。
そして現在も、両派は活動を続けている。
新左翼とは、ただ若者が社会を変えようとした運動ではなかった。
そこには理想があり、怒りがあり、組織があり、裏切りへの恐怖があり、そして死者がいた。
中核派と革マル派の内ゲバ史をさらに深く知るなら、立花隆『中核VS革マル』が代表的な一冊である。
本書は、両派の党派闘争が激化していた時代に書かれたノンフィクションであり、中核派と革マル派の分裂、対立、内ゲバの実態を追っている。
この記事では概要を整理したが、当時の空気、党派の論理、内ゲバがどのように拡大していったのかを知るには、書籍で読む方がはるかに生々しい。
中核派と革マル派の対立は、単なる過去の政治史ではない。
理想を掲げた運動が、なぜ隣にいた人間を敵とみなすようになったのか。
その過程を知るうえで、『中核VS革マル』は避けて通れない本である。
▶ Amazonで『中核VS革マル(上)』を見る
▶ Amazonで『中核VS革マル(下)』を見る
川口大三郎事件についてさらに深く知るなら、樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』がある。
映画『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』の原案にもなった作品であり、1972年に早稲田大学で起きた川口大三郎リンチ殺人事件、その後の早大解放闘争、そして内ゲバの時代を当事者の視点からたどったノンフィクションである。
中核派と革マル派の対立は、党派名だけを追っても実感しにくい。だが、この本を読むと、革マル派が支配していた早稲田大学の空気、一般学生が感じた恐怖、そして「内ゲバ」という言葉の奥にあった暴力の現実が見えてくる。
Audible無料体験を利用すれば、対象作品として0円で聴ける場合がある。読む時間が取りにくい人は、まず音声でこの事件の空気に触れてみるのもよい。
▶ Amazonで『彼は早稲田で死んだ』を見る
▶ Audible版で『彼は早稲田で死んだ』を聴く
新左翼運動全体の流れについては、「新左翼とは何だったのか」で整理している。
赤軍派から日本赤軍、連合赤軍へつながる流れについては、「日本赤軍とは何だったのか」「連合赤軍とは何だったのか」もあわせて読みたい。
また、東アジア反日武装戦線は、中核派・革マル派とは異なる反日思想、アナーキズム的な流れから生まれた組織だった。





