山口組の歴史をたどっていくと、「山健」という名前に何度も出会う。
山健組。
のちに五代目山口組組長となる渡辺芳則。そして2015年の山口組分裂では、山健組を母体とする勢力が神戸山口組の中心となった。
その「山健」の名の由来となった人物が、山本健一である。
三代目山口組組長・田岡一雄のもとで若頭まで上り、四代目山口組組長の最有力後継者とみられながら、田岡の死からわずか半年余り後に亡くなった。
しかし山本が残した組織と人脈は、本人の死後も山口組の歴史を大きく動かしていく。
そして山本健一という人物を追っていくと、鶴田浩二、美空ひばり、さらには細木数子まで、昭和を代表する著名人たちの名前が次々と現れる。
山本健一とは、いったい何者だったのだろうか。
山本健一とは
山本健一は1925年生まれ。1982年2月4日に56歳で亡くなった。
三代目山口組では若頭を務め、自らが結成した山健組の初代組長でもある。
若い時代には「ピス健」「二丁拳銃の健」「いけいけの健」などの異名で呼ばれたとされ、ノンフィクション作家・溝口敦も著書『武闘派 三代目山口組若頭』で、その生涯を一冊かけて追っている。
鶴田浩二襲撃事件、福岡事件、大阪戦争など山口組の抗争史に名を残した人物として紹介されている。
だが、単純に「武闘派のヤクザ」と説明するだけでは山本健一は見えてこない。
むしろ重要なのは、田岡一雄が作り上げた三代目山口組を、次の時代へ引き継ぐ位置まで上げた人物だったことである。
戦後の神戸から山口組へ
山本健一は戦時中に横須賀海軍工廠で働き、軍隊生活も経験したとされる。
終戦後、神戸に戻った山本はやがて裏社会へ入っていく。
1950年代初頭には、三代目山口組若頭だった安原政雄率いる安原会に入り、山口組の系列に加わった。
まだこのころの山本は、後年の全国的な巨大組織のナンバー2ではない。
一人の若い組員にすぎなかった。
その名前が一気に知られることになる事件が起きる。
鶴田浩二襲撃事件で名前を知られる
1953年1月に起きたのが、鶴田浩二襲撃事件である。
当時、鶴田浩二は映画、歌謡界で絶大な人気を誇るスターだった。
一方、田岡一雄率いる山口組は神戸芸能社を通じて興行界にも進出しており、美空ひばりの興行にも深く関わっていた。
田岡側が鶴田側に美空ひばりとの合同公演を持ちかけたものの話がまとまらず、その後、山本健一らが大阪の旅館にいた鶴田を襲撃した。
竹垣悟の回想では、山本らは鶴田をウイスキー瓶やレンガで殴り、鶴田は頭や手を負傷したとされる。山本はその後、実刑判決を受けた。
現在から見れば凄まじい事件である。
しかし同時に、この事件は当時の芸能興行と暴力団が現在とは比較にならないほど近かった時代を象徴する出来事でもあった。
そして、この事件から山本健一と昭和芸能界を結ぶもう一本の線が生まれる。
美空ひばりが刑務所で「健ちゃん」と呼びかけた
服役した山本健一のもとを、意外な人物が訪れている。
美空ひばりである。
山本が加古川刑務所に収監されていた際、美空ひばりが慰問に訪れた。
竹垣悟の著書『懲役ぶっちゃけ話 私が見た「塀の中」の極道たち』によれば、美空ひばりは舞台上から山本に向かって「健ちゃん」と呼びかけ、身体に気をつけて務めを終えるよう激励したという。
そこには田岡一雄と美空ひばりとの関係があった。
このエピソードは、山本健一にとっても大きな意味を持ったと伝えられている。
刑務所にいる一組員のために、日本を代表するスターがやってくる。
それ自体が、田岡一雄の持つ力を見せつける出来事でもあった。
田岡一雄の直参となり、山健組を結成
出所後の1957年、山本健一は田岡一雄から直接盃を受け、三代目山口組の直参となった。
そして1961年、山健組を結成する。
ここから「山本健一」という個人の名前が、「山健」という組織の名前へ変わっていく。
山健組は山口組内部で存在感を増し、山本自身も執行部へ進出。1971年には三代目山口組の若頭となった。
若頭は単なる幹部ではない。
巨大組織となった山口組で、組長に次ぐ事実上のナンバー2である。
山本健一は、田岡一雄の最側近の一人となっていた。
「日本一の親分」の「日本一の子分」
山本健一を語るとき、田岡一雄との関係は外せない。
溝口敦の『武闘派 三代目山口組若頭』は、山本が田岡を「日本一の親分」と考え、自らはその「日本一の子分」を目指した人物として描いている。
山本の評価を高めていったのも、組織内部での政治だけではなかった。
山口組が全国へ勢力を広げていった時代、山本はさまざまな抗争の前面に立ち、「武闘派」として知られていった。
そこには当然、多くの暴力事件と犠牲がある。
ただ、その実績が山口組内部で山本の発言力を強めていったことも事実である。
やがて山本は、単なる若頭ではなく、「田岡の次」を意識される人物になっていった。
四代目山口組の最有力候補だった
1981年7月23日、三代目山口組組長・田岡一雄が死去した。
35年間にわたり山口組を率いてきた巨大な存在が消えた。
次の焦点は当然、「誰が四代目を継ぐのか」である。
その中心にいたのが若頭・山本健一だった。
しかし、そのとき山本自身も服役中で、健康状態を悪化させていた。
田岡の死から約半年後。
1982年2月4日、山本健一は死去する。
56歳だった。
田岡一雄と、その後継者になるとみられていた山本健一。
山口組は短期間のうちにトップとナンバー2を相次いで失った。
ここから、後の山口組史を決定づける跡目問題が始まる。
山本健一が生きていれば山一抗争は起きなかったのか
山本健一の死後、四代目をめぐる調整は難航した。
最終的に1984年、竹中正久が四代目山口組組長となる。
これに反発した山本広らは山口組を離脱し、一和会を結成。
翌1985年には竹中正久らが殺害され、山口組と一和会による「山一抗争」が激化していった。
そのため山口組史では、しばしば一つの仮想が浮かぶ。
もし山本健一が生きて四代目を継いでいたら、山一抗争は起きていたのだろうか。
もちろん歴史に「もし」の答えはない。
山本健一が生きていればすべて円満に収まった、とまで断定することもできない。
ただ、四代目の最有力候補だった若頭が田岡の直後に死亡したことが、後継者問題を一段と複雑にしたのは確かである。
山本健一の死は、一人の組長の死というだけではなかった。
巨大化した山口組の継承構造そのものに、大きな空白を作ったのである。
山本健一と昭和芸能界
山本健一という人物には、もう一つ興味深い側面がある。
芸能界との接点である。
これは単に「有名人と知り合いだった」という話ではない。
田岡一雄が神戸芸能社を通じて興行界へ進出していた時代、山口組と芸能界は現在とはまったく異なる距離にあった。
山本健一の人生を追うだけで、その時代の輪郭が見えてくる。
鶴田浩二
もっとも直接的なのが、先に触れた鶴田浩二である。
山本自身が1953年の鶴田浩二襲撃事件に加わった。
これは山本の経歴と昭和芸能史が直接ぶつかった事件だった。
美空ひばり
鶴田浩二襲撃事件の背景にも名前が登場し、その後には服役中の山本を慰問したのが美空ひばりだった。
山本、美空ひばり、田岡一雄の関係を見ると、当時の興行界と山口組との距離の近さがよく分かる。
細木数子とも接点があった
山本健一の人脈をたどっていくと、後に占い師としてテレビで知られることになる細木数子の名前も現れる。
ノンフィクション作家・溝口敦・著『細木数子 魔女の履歴書』によれば、細木が東京・赤坂でクラブを経営していた時代、山本健一はその店を訪れていた。
細木が山本に連番の1万円札を渡したという具体的なエピソードも残されており、二人には直接の接点があったことが分かる。
そして、この二人の関係を考えるうえで興味深いのが、歌手・島倉千代子をめぐる刑務所慰問の話である。
1977年ごろ、細木数子は島倉千代子の後見人的な立場となり、マネージャーとして芸能活動にも深く関わるようになっていた。
同じころ、神戸刑務所に服役していた竹中正久のもとへ島倉千代子が慰問に訪れている。
竹垣悟は著書『懲役ぶっちゃけ話 私が見た「塀の中」の極道たち』の中で、竹中が慰問を前に、
「ヤマケンが慰問に入れてくれるんや」
と語っていたことを紹介している。
実際に島倉は神戸刑務所を訪れ、その際にはマネージャーだった細木数子も同行していた。
山本健一
↓
細木数子
↓
島倉千代子
山本健一という人物を追っていくと、山口組内部の抗争史だけではなく、昭和芸能界の人脈までが思わぬところでつながってくる。
関連記事:細木数子とは何者だったのか
山本健一の死後、山健組はさらに大きくなる
山本健一の物語が特異なのは、本人が亡くなったところで終わらないことである。
山本の死後、山健組は渡辺芳則が二代目を継承した。
そして1989年、渡辺芳則は五代目山口組組長に就任する。
つまり山本健一自身は山口組組長になれなかったが、山本が作った山健組から、後に山口組組長が誕生したのである。山健組はその後も山口組内部の有力勢力として存在し続けた。
そして2015年。
六代目山口組から複数の団体が離脱し、神戸山口組が結成される。
その中心人物となった井上邦雄もまた、山健組の系譜にいた人物だった。
山本健一が1961年に作った一つの組織が、半世紀以上後の山口組分裂にまでつながっていく。
ここまで来ると、「山健」という名前が単なる山本健一の略称ではなくなっていることが分かる。
島田紳助問題にもつながる「山健」の系譜
さらに山健組の人脈を追っていくと、平成の芸能界にも行き着く。
2011年に芸能界を引退した島田紳助と関係が報じられた橋本弘文も、かつて山健組で最高幹部を務めた人物だった。
ただし、山本健一は1982年に亡くなっており、島田紳助と山本本人に直接の関係があったという話ではない。
ここでは「山本健一が作った山健組の人脈が、後の時代の芸能界にも現れる」という程度にとどめておきたい。
島田紳助と渡辺二郎、橋本弘文、極心連合会をめぐる関係については、別の記事で詳しく取り上げる。
山本健一とは何者だったのか
山本健一は、「武闘派」という一言だけで説明できる人物ではない。
三代目山口組・田岡一雄のもとで若頭まで上り、四代目を継ぐ可能性が極めて高い位置まで進んだ。
だが、田岡の死からわずか半年余り後、56歳で亡くなった。
山本自身はついに山口組組長にはならなかった。
それでも、彼が作った山健組から渡辺芳則が五代目山口組組長となり、その後の山口組分裂にも山健組の系譜が深く関わった。
そしてその人生の周囲には、鶴田浩二、美空ひばり、島倉千代子、細木数子という昭和史の別の世界の人物たちまで現れる。
山本健一を見ることは、一人のヤクザの生涯を見ることだけではない。
戦後の神戸から全国へ膨張していった山口組、興行と裏社会が隣り合っていた昭和芸能界、そして後の山口組分裂へ続く一本の系譜を見ることでもある。
山本健一は1982年に死んだ。
しかし、「山健」という名前はその後も長く残った。
むしろ、その死後にこそ、彼が作った組織の大きさが歴史の表面に現れていったのである。
山本健一をさらに知るなら
山本健一について、さらに詳しく知りたい人には、まず『武闘派 三代目山口組若頭』をすすめたい。
山本健一の生涯を追いながら、田岡一雄との関係、山口組内部での立場、抗争の時代、そして四代目を目前にした晩年までをたどることができる。
この記事で山本健一という人物に興味を持ったなら、最初に読んでおきたい一冊である。
山本健一という人物を、漫画で追ってみたい人には、『三代目山口組若頭 猛将山本健一』(実録極道抗争シリーズ)がある。
田岡一雄率いる三代目山口組の時代を舞台に、山本健一が若頭となり、巨大化していく山口組の内部や抗争の中でどのような位置にいたのかが描かれている。
この記事で触れた山本健一の人物像や、田岡一雄との関係をもう少し具体的にイメージしたい人には入りやすい作品だろう。
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