1960年代の反戦運動というと、全共闘や新左翼、ヘルメットをかぶった学生たちを思い浮かべる人が多いかもしれない。
しかし、その少し前から、日本にはそれとはかなり違う反戦運動が存在していた。
「ベ平連」である。
正式には「ベトナムに平和を!市民連合」。
共産党でも社会党でも、新左翼の党派でもない。規約もなく、厳密な会員制度もない。それでも最盛期には全国各地にベ平連を名乗るグループが生まれ、ベトナム戦争反対を掲げて活動した。
しかも、その活動はデモだけにはとどまらない。
ベ平連は、ベトナム戦争から逃れようとしたアメリカ兵の脱走まで支援している。
いったいベ平連とは何だったのか。
1960年代の日本には、政党にも革命組織にも収まりきらない、もう一つの反戦運動が存在していた。
ベ平連とは何か
ベ平連は1965年に始まったベトナム反戦運動である。
1965年4月24日、東京で「ベトナムに平和を!」を掲げたデモが行われ、その参加者たちによってベ平連が発足したとされる。
中心人物の一人となったのが作家の小田実だった。
ほかにも哲学者の鶴見俊輔、作家の開高健、政治学者の高畠通敏、いいだももなど、文化人や知識人が参加している。
当初は「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」と名乗り、後に「ベトナムに平和を!市民連合」となった。
しかし、ここで重要なのは名前よりも、その組織のあり方である。
ベ平連には一般的な政治団体のような規約や厳密な会員制度が存在しなかった。
自発的に行動する者をベ平連と考える。
そうした緩やかな運動体だった。研究でも、規約も会員・役員も持たず、個人の自主性を基礎とした運動だったことが指摘されている。
共産党でも新左翼でもなかった
1960年代の政治運動には、明確な「所属」が存在することが多かった。
日本共産党系、社会党系、共産主義者同盟、革共同、中核派、革マル派。
それぞれに思想があり、組織があり、機関紙があり、指導部が存在した。
ベ平連はそうした党派とはかなり違っていた。
もちろん、参加者の中には左翼思想を持つ者もいたし、旧左翼や新左翼と接点を持った者もいた。
しかし「ベ平連に参加するためには、この思想を信じなければならない」というものがない。
ベトナム戦争に反対する。
その一点で一緒に歩くことができた。
つまり、
「革命をするためにベトナム戦争に反対する」
というより、
「この戦争には反対だから、まず反対する」
というところから始めることができたのである。
この入口の広さこそ、ベ平連の大きな特徴だった。
「普通の市民」が政治運動に入ってきた
ベ平連が掲げた「市民」という言葉にも意味がある。
それまでの大規模な政治運動では、労働組合や政党、学生自治会など、既存組織が人を動員する形が大きな力を持っていた。
ベ平連はそこから少し離れた。
会社員でもいい。
学生でもいい。
教師でもいい。
作家でもいい。
特定の党に所属していなくてもいい。
「ベトナム戦争に反対する」という個人として参加できる。
最盛期には全国各地に多数のベ平連が生まれたとされ、後の無党派的な市民運動や住民運動にもつながる運動スタイルの一つになったと評価されている。
現在から見ると珍しくない。
しかし1960年代の政治運動として考えると、この仕組みはかなり新しかった。
なぜ日本でベトナム戦争に反対したのか
ベトナム戦争は、日本から遠く離れた東南アジアで起きた戦争である。
それでも日本で大規模な反戦運動が起きた。
理由の一つは、日本が無関係ではなかったからだ。
日本国内や沖縄の米軍基地は、アメリカの極東戦略の重要な拠点だった。
つまり日本に暮らしながらベトナム戦争を批判することは、単に「外国で行われている戦争」を批判することではない。
日本にある基地や日米関係を通して、自分たちの社会もその戦争とつながっている。
そう考える人々が現れた。
ベ平連には、
「自分たちは戦争の被害者であるだけではなく、別の国に対する戦争の加害側にもなり得るのではないか」
という問題意識があった。
戦争反対を国家と国家の問題だけではなく、一人の人間がどう関わるかという問題へ引き寄せたのである。
全共闘や新左翼とは何が違ったのか
ベ平連が活動した1960年代後半、日本では学生運動も急速に激しくなっていく。
1967年の羽田闘争、1968年から69年にかけての大学闘争。
やがて全共闘、新左翼各派の姿がテレビや新聞を覆うようになる。
同じベトナム反戦を掲げていても、ベ平連と新左翼では性格が違う。
新左翼の多くは、ベトナム戦争を資本主義、帝国主義、革命といった大きな政治思想の中で捉えた。
対してベ平連には、必ずしも統一された革命理論が存在しない。
むしろ、
「私はこの戦争に反対する」
という個人から出発する。
だから両者は重なる部分を持ちながらも、同じものではなかった。
ベ平連の参加者が新左翼に進むこともあれば、新左翼の活動家がベ平連の運動に関わることもある。
1960年代には、それらの境界線が現在から見るほどきれいに分かれていたわけではない。
関連記事:新左翼とは何だったのか
重信房子が最初に参加したデモもベ平連だった
そのことを象徴する人物が重信房子である。
後に赤軍派に参加し、日本赤軍の最高幹部となる重信房子だが、最初から革命運動に飛び込んだわけではない。
1965年に明治大学へ入学した重信が生まれて初めて参加したデモは、できたばかりのベ平連によるベトナム反戦デモだった。
当時の重信は会社で働きながら夜間大学へ通う学生だった。
大学の掲示板でデモを知り、クラスメートと参加したという。
服装も活動家らしいものではない。
中ヒールにスーツという、本人の言葉を借りれば「OLスタイル」だった。
そしてデモの途中で話しかけてきた男性たちが、後になって、いいだももと開高健だったことに気付いたという。
このときの重信は、まだ赤軍派とは何の関係もない。
そこから学生運動、第二次ブント、赤軍派、そしてパレスチナへと進んでいくことになる。
その歩みについては、「重信房子とは何者だったのか」で詳しくまとめている。
「ベ平連が重信房子を過激化させた」という話ではない。
そうではなく、1965年の時点では、後に新左翼へ進む若者が最初に政治運動へ触れる入口として、ベ平連のような市民運動が存在していたということである。
ベ平連には思想的にさまざまな人間がいた
ベ平連を「政治色のない善良な市民運動」と考えるのも少し違う。
ベ平連を作った人々自身が、それ以前の政治運動と無関係だったわけではない。
戦後思想、60年安保、旧左翼、新左翼など、さまざまな流れを経験した人間が集まっていた。
ベ平連は全く政治経験のない市民だけが突然集まって生まれたものではなく、複数の政治的・社会運動的な流れが交差して成立した。
だから面白い。
組織としては党派を否定する。
しかし、その中に入ってみれば、政治思想を持った人間もたくさんいる。
穏健な反戦運動を求める者もいれば、もっと急進的な行動を求める者もいる。
それでも「ベトナム戦争反対」という一点では同じ道路を歩くことができた。
ベ平連とは、そういう奇妙な空間だった。
デモだけではなかったベ平連
ベ平連の活動は街頭デモだけではない。
反戦広告、集会、ティーチイン、海外の反戦運動との交流など、さまざまな方法が使われた。
その中でも、ベ平連という運動の性格を最も鮮明に示したのが、米軍脱走兵への支援である。
1967年、アメリカ海軍の空母「イントレピッド」から4人の米兵が脱走した。
4人はベ平連につながり、日本を脱出することになる。
ベ平連の脱走兵援助活動は、この4人の国外脱出を成功させたことから本格化した。
これは単なる「戦争反対」の声明とは次元が違う。
アメリカ軍の兵士が、
「この戦争には参加したくない」
と軍隊から逃げる。
その人間を実際に助けたのである。
「イントレピッドの4人」と脱走兵支援
イントレピッドから脱走した4人は日本国内で支援を受け、最終的には国外へ脱出した。
その後、脱走兵を援助する活動はさらに続いていく。
ここから生まれたのがJATECと呼ばれる活動である。
JATECはベ平連とは形式上別の存在とされるが、実質的にベ平連の活動の一環として捉えられる場合がある。
当時の『ベ平連ニュース』の縮刷版には、『イントレピッド四人の会』『脱走兵通信』『ジャテック通信』も収録されている。
ここまで来ると、ベ平連は単なる文化人中心の平和運動とは言いにくい。
市民運動でありながら、国家や軍隊という巨大な制度と、個人の良心が衝突した場所へ直接入り込んでいったのである。
1974年、ベ平連は自ら解散した
ベ平連は1974年に解散した。
1965年から1974年までの活動となっている。
興味深いのは、ベトナム戦争そのものが完全に終結する1975年より前に、ベ平連がなくなっていることである。
巨大な政党として残ることもなかった。
「ベ平連」という組織を永続させることそのものが目的ではなかったからこそ可能だった終わり方ともいえる。
約9年間活動し、自ら幕を下ろした。
ベ平連とは何だったのか
ベ平連を「ベトナム戦争に反対した団体」とだけ説明すると、その面白さの半分ほどしか見えてこない。
共産党ではない。
社会党でもない。
新左翼の党派でもない。
しかし政治運動ではある。
組織ではないと言いながら、全国に活動が広がった。
暴力革命を掲げる革命党派ではないのに、米軍から逃げ出した兵士の国外脱出まで支援した。
そして、そのデモには、後に全く別の道へ進むことになる20歳の重信房子も歩いていた。
1960年代という時代は、後から見ると「全共闘」「新左翼」「赤軍派」といった名前で整理されてしまう。
しかし実際の街頭には、もっと雑多な人間がいた。
作家がいる。
会社員がいる。
学生がいる。
左翼活動家もいる。
政治活動などしたことのない若者もいる。
その人々が、とりあえず同じ方向へ歩いていた。
ベ平連は、その1960年代の雑然とした政治空間を象徴する運動の一つだったのである。
さらに、ベ平連についての詳細を知りたい人は、政治学者・平井一臣が当時の時代を描いた『ベ平連とその時代: 身ぶりとしての政治』が参考になる。



