小田実という名前を知っているだろうか。
作家であり、世界を歩いた旅行者であり、そして1960年代のベトナム反戦運動「ベ平連」の代表的人物だった。
若いころの小田実を一躍有名にしたのは、1961年に刊行された『何でも見てやろう』である。
アメリカ留学を終えた青年が、世界各地を歩き、自分の目で見たものを書いた旅行記だった。
しかし、その数年後、小田実は旅行作家という枠を大きく飛び越えていく。
ベトナム戦争が激しくなると、「ベトナムに平和を!市民連合」、通称・ベ平連の中心人物となり、日本の反戦運動を代表する存在になった。
ただし、小田実は共産党の活動家でも、新左翼党派の革命家でもない。
彼が最後までこだわったのは、組織ではなく「一人の人間」、そして「市民」だった。
小田実とは何者だったのか。
その生涯を追いながら、彼が残した「難死」の思想、市民運動への考え方、そして死を前にした最後の姿まで見ていく。
- 小田実の生涯|1932年から2007年まで
- 大阪に生まれ、13歳で敗戦を迎えた
- ハーバード大学へ留学し、世界を歩く
- 『何でも見てやろう』が大ベストセラーになる
- 1965年、「難死の思想」からベ平連へ
- ベ平連は新左翼ではなかった
- 重信房子も最初はベ平連のデモに参加した
- 小田実の「難死」の思想とは何だったのか
- 日本人は被害者であり、同時に加害者でもある
- 米軍脱走兵を支援したベ平連
- 1974年、ベ平連は解散した
- 阪神・淡路大震災で再び「市民」へ
- 2004年、「九条の会」の呼びかけ人になる
- 2007年、スキルス性胃がんが見つかる
- NHK『小田実 遺す言葉』に残された晩年
- 「こんな世界になるなら、私は今まで何をやってきたのか」
- まとめ|小田実とは何者だったのか
小田実の生涯|1932年から2007年まで
まず、小田実の75年間を簡単な年譜で見てみよう。
| 年 | 小田実の歩み |
|---|---|
| 1932年 | 大阪市に生まれる |
| 1945年 | 13歳。大阪で戦争と空襲を経験する |
| 1952年 | 東京大学へ進学 |
| 1957年 | 東京大学文学部言語学科卒業。大学院で西洋古典学を学ぶ |
| 1958年 | フルブライト奨学生としてハーバード大学大学院へ留学 |
| 1960年 | 世界各地を回ったのち帰国 |
| 1961年 | 『何でも見てやろう』刊行。ベストセラーとなる |
| 1965年 | 「難死の思想」を発表。ベトナム反戦運動を始め、ベ平連の代表となる |
| 1960年代後半 | ベ平連を通じて反戦運動、米軍脱走兵支援などに関わる |
| 1974年 | ベ平連が解散 |
| 1995年 | 阪神・淡路大震災で被災 |
| 1996年以降 | 被災者への公的援助を求める「市民=議員立法運動」を進める |
| 2004年 | 「九条の会」の呼びかけ人となる |
| 2007年 | スキルス性胃がんが判明。同年7月30日、75歳で死去 |
小田実の人生を大きく分ければ、旅行する作家だった若い時代、ベ平連を中心とした市民運動の時代、そして震災や憲法問題へ関わった晩年という三つの時期が見えてくる。
大阪に生まれ、13歳で敗戦を迎えた
小田実は1932年、大阪市に生まれた。
終戦時は13歳だった。
この戦争体験は、後の小田実の思想を考えるうえで重要である。
戦争とは、歴史の教科書に書かれる国家同士の出来事ではない。
その下では、名前も残らない普通の人間が死ぬ。
後に小田実が考えることになる「難死」の思想の根には、戦争を少年として経験した記憶があった。
小田実はその後、東京大学へ進み、文学部言語学科を卒業する。
大学院では西洋古典学を専攻した。
政治学者として出発したわけでも、革命思想を専門に学んだわけでもない。
もともとの小田実は、文学の人だった。
ハーバード大学へ留学し、世界を歩く
1958年、小田実はフルブライト奨学生としてアメリカのハーバード大学大学院へ留学した。
しかし、彼はアメリカだけを見て帰ってきたわけではなかった。
メキシコ、ヨーロッパ、中近東、インドなど、世界各地を歩いている。
後の小田実を考えるとき、この「歩く」という行為はかなり重要に思える。
誰かが説明した世界を信じるのではなく、自分で行って、自分で見る。
政治運動へ入った後も、小田実は世界各地を動き続けた。
机の上だけで世界を考える思想家ではなかったのである。
『何でも見てやろう』が大ベストセラーになる
1961年、その旅行体験をもとにした『何でも見てやろう』が刊行された。
これが大ベストセラーとなり、小田実は一躍有名人になる。
現在から見ると、小田実には「ベ平連の小田実」という印象が強い。
しかし、当時の一般読者にとっては、まず世界を歩いてきた若い作家だった。
戦後日本が高度経済成長へ向かい、海外旅行がまだ誰にでもできるものではなかった時代である。
世界を自分の足で歩き、その風景を日本へ持ち帰った『何でも見てやろう』は、多くの読者にとって窓のような本だった。
そして、その「自分で見てやろう」という姿勢は、後の政治活動とも切れてはいない。
小田実は世界を見た。
やがて、その世界で起きている戦争を見過ごせなくなっていく。
1965年、「難死の思想」からベ平連へ
1965年1月、小田実は「難死の思想」を発表する。
その数か月後の4月24日、東京でベトナム戦争に反対する集会とデモが行われた。
ここから「ベトナムに平和を!」市民連合、通称・ベ平連へとつながっていく。
小田実自身の年譜でも、「難死の思想」はベ平連の運動の思想的原点だったと位置づけられている。
ベ平連については別の記事で詳しく扱っている。
関連記事:ベ平連とは何だったのか
ここで注意しておきたいのは、小田実が強力な中央組織のトップとしてベ平連を統率していたわけではないことである。
本人も、自分が「自然なかたちで代表になった」と振り返っている。
このあたりが、当時の新左翼党派とはかなり違っていた。
関連記事:新左翼とは何だったのか
ベ平連は新左翼ではなかった
1960年代後半というと、学生運動、新左翼、全共闘、赤軍派などのイメージが強い。
しかし、ベ平連はそれらの党派とは性格が違う。
革命党をつくり、組織の方針に従って国家権力を奪取することを目的とした運動ではなかった。
会社員でも、学生でも、主婦でも、作家でも、自分の意思で反戦運動に参加できる。
参加するのも自由なら、離れるのも自由だった。
小田実は後に『ひとりでもやる、ひとりでもやめる』という題名の本も出している。
この言葉は、小田実の市民運動観をよく表している。
みんながやるからやるのではない。
組織が命令したからやるのでもない。
自分が必要だと思えば、一人でもやる。
そして違うと思えば、一人でもやめる。
ベ平連が単なる反戦デモの集まりではなく、新しい運動のあり方そのものを模索していたことが分かる。
重信房子も最初はベ平連のデモに参加した
ベ平連から新左翼へ向かっていった若者もいた。
その一人が、後に日本赤軍の最高幹部となる重信房子である。
重信房子は、自身が最初に参加したデモとしてベ平連の反戦デモを振り返っている。
ここは1960年代の政治運動を考えるうえで興味深い。
後から歴史を見ると、重信房子は最初から赤軍派の革命家だったように見えてしまう。
しかし最初の入口には、もっと広いベトナム反戦運動があった。
そこから学生運動へ入り、共産主義者同盟、赤軍派へと進んでいく。
小田実と重信房子は、最終的にはまったく違う場所へ向かった。
小田実は最後まで「市民」にこだわった。
重信房子は組織による革命と国際武装闘争へ向かった。
同じ時代の反戦運動から、二つの道が分かれていったのである。
関連記事:重信房子とは何者か
小田実の「難死」の思想とは何だったのか
では、小田実の思想の中心にあった「難死」とは何なのか。
難しい哲学用語として考える必要はない。
国家や政治が巨大な理屈を掲げるとき、その下で普通の人間が意味もなく殺される。
戦争では「何万人死亡」という数字が並ぶ。
だが、その一人一人には生活があり、家族があり、名前があった。
国家にとっては戦没者の一人でも、その人間にとっては人生そのものが終わる。
小田実が見ようとしたのは、国家の側から見た戦争ではなく、死んでいく一人の人間の側から見た戦争だった。
だから彼の思想の中心には、常に「人間」がいる。
日本人は被害者であり、同時に加害者でもある
小田実の反戦思想でもう一つ重要なのが、「被害」だけでは戦争を見なかったことである。
日本人は空襲を受けた。
広島と長崎には原爆が投下された。
多くの市民が殺された。
しかし、日本は同時にアジア各地へ軍隊を送り、別の人々を殺した国家でもあった。
自分が被害者であることと、自分たちの側が加害者であることは両立する。
どちらか一方だけを語れば、戦争の姿は歪む。
小田実の思想を研究するうえでも、「難死の思想」と「加害の論理」は重要な軸として扱われている。
被害者と加害者をきれいに二つへ分けるのではなく、一人の人間、一つの国家の中にも両方が存在する。
これは現在でも簡単には答えの出ない問題である。
米軍脱走兵を支援したベ平連
ベ平連はデモだけを行った運動ではない。
ベトナム戦争への従軍を拒否して米軍から脱走した兵士を支援する活動にも関わった。
小田実自身も、脱走兵を受け入れてもらうための交渉などでヨーロッパやアジア各地を動き、北ベトナムにも入っている。
ここでも小田実は「見る人」から「動く人」になっている。
『何でも見てやろう』で世界を歩いた青年は、その後、戦争から逃げようとする一人の兵士を助けるために世界を歩くようになった。
旅と運動は、小田実の中では一本につながっていたのだろう。
1974年、ベ平連は解散した
ベ平連は1974年1月に解散集会を開いた。
面白いのは、その解散集会に小田実本人がいなかったことである。
小田実は当時、世界各地を旅行していた。
代表的人物がいないまま運動が解散する。
普通の政治組織なら考えにくい。
しかし、小田実の公式年譜には、仲間が解散集会で「小田実氏ぬきでベ平連は解散」「いかにもベ平連らしい」と語った様子まで残されている。
指導者がいなければ解散できない組織ではなかった。
それ自体が、ベ平連という運動の性格を象徴している。
阪神・淡路大震災で再び「市民」へ
小田実の市民運動は、ベトナム戦争が終われば終わりというものではなかった。
1995年、阪神・淡路大震災が発生する。
西宮に住んでいた小田実自身も被災した。
そこから被災者に対する公的支援を求める運動へ入っていく。
1996年には、震災被災者への公的援助を求める「市民=議員立法運動」が始まった。
ここでも発想は同じだった。
国家が何かしてくれるのを待つだけではない。
市民自身が動く。
しかし、国家そのものを破壊しようとするわけでもない。
政治家を動かし、制度を変える。
ベ平連の時代から数十年が経っても、小田実の「市民から政治を動かす」という姿勢は続いていた。
2004年、「九条の会」の呼びかけ人になる
2004年6月、「九条の会」が発足した。
九条の会とは、日本国憲法第9条を改正する動きに対し、9条を守るという一点で立場の違いを超えて市民に行動を呼びかけた運動である。政党そのものではなく、各地の地域、職場、大学などでも「九条の会」がつくられ、全国へ広がっていった。
最初の呼びかけ人となったのは、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子の9人だった。
ここで小田実と並んで鶴見俊輔の名前が再び出てくる。
二人は1965年のベ平連にも関わり、それから約40年後、今度は憲法9条をめぐる市民運動で再び同じ場所に立った。
小田実は70代になっていた。
ベ平連が終わったあとも、彼の「国家や政党だけに任せず、市民自身が動く」という姿勢は変わっていなかったのである。
2007年、スキルス性胃がんが見つかる
2007年春、小田実はオランダやトルコなどを旅した。
出発直前から食欲不振があったものの旅を続け、4月9日に帰国。
診察を受けると、スキルス性胃がんが見つかった。
5月7日に入院。
そして7月30日午前2時5分、小田実は75歳で亡くなった。
死の直前まで書き続けた。
ペンを握ることが難しくなれば、言葉を口にして残した。
その最晩年の姿は、死後、NHKのドキュメンタリー『小田実 遺す言葉』として放送された。
NHK『小田実 遺す言葉』に残された晩年
『小田実 遺す言葉』は、2007年12月にNHK BSハイビジョンで放送された。
番組には、病院で執筆する小田実の姿だけでなく、過去のベ平連、市民運動、旅の映像なども収録された。制作はテレビマンユニオンである。
筆者は以前、インターネット上で小田実の晩年の映像を見たことがある。
現在もその映像が公開されているのか、また筆者が見たものがNHK『小田実 遺す言葉』の映像そのものだったのかは確認できなかった。
しかし、そのときの小田実の姿は今でも記憶に残っている。
「こんな世界になるなら、私は今まで何をやってきたのか」
筆者がそれまで知っていた小田実は、テレビ討論などで雄弁に語る人物だった。
大きな身体で身振りを交え、相手に言葉をぶつける。
『朝まで生テレビ!』などで見た小田実には、圧倒的なエネルギーがあった。
ところが、晩年の映像にいた小田実は違った。
そこにいたのは、病気によって力を失った、一人の老人だった。
その小田実が、
「こんな世界になるなら、私は今まで何をやってきたのか」
という趣旨の言葉を、力なく目に涙を浮かべ漏らしていたことを覚えている。
正確な発言を現在確認できないため、これは記憶に基づく要約である。
しかし、その姿だけは強く残った。
ベトナム戦争に反対した。
ベ平連をつくった。
米軍脱走兵を助けた。
世界中を歩いた。
阪神・淡路大震災の被災者支援に動いた。
憲法9条を守る運動にも参加した。
半世紀近く、社会を変えようとしてきた。
その人間が、人生の最後に「自分は何をやってきたのか」と問い直していた。
これを敗北と呼ぶこともできるだろう。
結局、戦争はなくならなかった。
国家は相変わらず戦争をする。
世界は、小田実が望んだ場所にはならなかった。
しかし、別の見方もできる。
世界が思い通りにならなかったからこそ、最後まで諦めることができなかった。
満足していたなら、そんな言葉は出てこない。
小田実は死を目前にしても、まだ世界に腹を立てていたのである。
まとめ|小田実とは何者だったのか
小田実は作家だった。
『何でも見てやろう』で世界を歩き、多くの日本人がまだ知らなかった外国の風景を書いた。
そして、その世界でベトナム戦争が始まると、見るだけでは済まなくなった。
ベ平連を通じて反戦運動へ入り、「難死の思想」で国家の大義の下に消えていく一人の人間を見ようとした。
彼が求めたのは、強固な革命組織ではなかった。
党派の命令でもなかった。
一人の人間が、自分で考えて動くことだった。
だから小田実からベ平連へ進んだ道と、そこからさらに赤軍派、日本赤軍へ進んだ重信房子の道は、途中まで同じ時代を歩きながら、やがて大きく分かれていった。
そして75歳。
死を前にした小田実は、自分がやってきたことさえ問い直していた。
そこまで含めて小田実なのだと思う。
最後に見えた世界は、彼が期待したほど美しいものではなかった。
それでも、見ることをやめなかった。
小田実とは、国家や組織の側からではなく、最後まで「一人の人間」の側から世界を見ようとした作家だったのである。



