1999年9月8日、東京・池袋で通行人が無差別に襲われる事件が起きた。
池袋通り魔事件である。
犯人は造田博。事件当時23歳だった。
池袋通り魔事件の犯人・造田博とは何者だったのか。
事件の概要からたどりながら、その実像に迫ってみたい。
池袋通り魔事件とは
池袋通り魔事件は、1999年9月8日に東京・池袋のサンシャイン通り周辺で起きた無差別殺傷事件である。
造田博は、包丁と金槌を持ち、路上にいた通行人を次々と襲った。被害者は造田と面識のない人々だった。
この事件で2人が死亡し、6人が重軽傷を負った。
犯行の直接のきっかけは、造田の携帯電話にかかってきた無言電話への怒りだったとされる。
事件が起きた1999年は、ノストラダムスの大予言が騒がれた年でもあった。
オウム真理教事件の記憶がまだ近く、バブル崩壊後の停滞が続き、若者の未来が細くなっていた時代である。
同じ1999年には、下関通り魔事件も起きている。
池袋通り魔事件は、そうした世紀末の不安の中で起きた事件だった。
造田博とはどんな人物だったのか
造田博は1975年生まれである。
世代でいえば、就職氷河期世代に入る。
ただし、造田博を単に「就職に失敗した若者」と見るだけでは足りない。
彼の人生は、就職活動の段階より前に大きく崩れているからだ。
中学時代の造田は成績がよく、地元でも有数の進学校に入ったとされる。
そのままいけば、勉強し、進学し、通常のルートに乗る可能性はあった。
しかし、家庭の事情がそれを断ち切った。
両親が借金を抱え、家族の足場が壊れていくなかで、造田は高校を中退した。
高校中退後、造田は職を転々とする。
パチンコ店、住み込みの仕事、新聞販売店など、不安定な労働を続けた。
彼は仕事を選んでいたというより、寝る場所を確保するために、寮付きの仕事へ流れていただけのように見える。
この「仕事を失うことが、そのまま住む場所を失うことにつながる」という構造は、のちの非正規雇用問題とも重なる。
2008年、秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大も、派遣労働の不安定さの中にいた。そして同じ2008年末には、派遣切りで仕事と住まいを失った人々を支援する「年越し派遣村」が東京・日比谷公園に開設された。
造田博の時代には、まだ「派遣村」という言葉はなかった。
しかし、寮付きの仕事を転々とし、職を失えば寝床も失うという構造は、すでに1990年代末の造田の人生に現れていた。
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アメリカへ渡った造田博
事件の前年、造田は単身でアメリカへ渡っている。
ただし、それは計画された留学でも、仕事を得るための渡米でもなかった。所持金は少なく、現地で生活を続ける準備も乏しかった。
これは「海外挑戦」というより、漂流に近い。
彼にとってアメリカは、自由の国というより、「日本ではない場所」だったのかもしれない。だが、日本ではない場所に行けば、人生が変わるわけではない。
言葉。金。仕事。人間関係。それらを持たないまま外国へ行けば、自由ではなく孤立が待っている。
案の定、彼はアメリカで行き詰まり、日本領事館に保護され、ポートランドの教会関係者の世話になったとされる。
それでも、ポートランドで保護された時間は、彼にとって小さな救いだった可能性がある。だが、その場所は一時的な避難所であって、人生の再出発地点にはならなかった。
帰国した造田は、再び日本社会の中へ戻る。
そして、池袋の路上へ向かうことになる。
判決と死刑確定後の現在
池袋通り魔事件の裁判では、造田博に死刑判決が下された。
一審で死刑判決が言い渡され、控訴審でも判決は維持された。
その後、2007年に最高裁が上告を退け、造田博の死刑が確定している。
精神鑑定も行われたが、裁判所は完全責任能力を認めた。
2022年時点では、造田博は確定死刑囚として収監中と報じられている。
その後、死刑が執行されたという公表は確認できない。
事件は1999年に起きた。
死刑が確定したのは2007年である。
それから長い時間が経っている。
池袋の路上で起きた事件は、すでに世紀末の記憶になりつつある。
しかし、造田博という人物は、まだ塀の中で生きている。
造田博教とは何だったのか
造田は、事件後、拘置所からの手紙で語ったとされる私的な宗教、あるいは自己思想のようなものがある。
それが、造田博教である。
もちろん、一般的な意味での宗教団体ではない。
信者がいたわけでも、社会的な教義体系があったわけでもない。
むしろそれは、社会から切り離された一人の男が、自分を世界の中心に置き直すために作った、孤独な思想装置だったと見るべきだろう。
造田は、現実の社会に居場所を作れなかった。
その果てに、彼は現実の社会ではなく、自分だけの世界観の中へ沈んでいった。
造田博教とは、救済の言葉ではない。
社会とつながれない人間が、自分だけの教義を作る。
現実の人間関係を築けない人間が、世界全体を相手にした物語を作る。
弱い立場に置かれた自分に耐えられず、自分を裁く側へ反転させる。
このあたりの詳細は、青沼陽一郎『池袋通り魔との往復書簡』に詳しい。著者は、造田博から届いた手紙をもとに、事件後の彼の内面を追っている。
まとめ|池袋通り魔事件が残したもの
造田博は、日本から逃げたかった男だったのかもしれない。
だが、外に出ても、彼は自分の場所を作れなかった。
その行き詰まりが、池袋の路上へ向かった。
もちろん、それは何の免罪にもならない。
被害者は、造田博の人生の破綻とは無関係だった。
それでも池袋通り魔事件を振り返るとき、そこには1999年という時代の暗さがある。
世紀末の日本で、ひとりの若者が、自分だけの終末を都市の群衆へ向けてしまった。
造田博教とは、その後に残された、孤独な自我の残響だったのかもしれない。
造田博の内面に迫るには、青沼陽一郎『池袋通り魔との往復書簡』が参考になる。
関連書籍:青沼陽一郎『池袋通り魔との往復書簡』
また、造田が自己を重ねたとされる中上健次『十九歳の地図』を読むことで、新聞配達、若さ、鬱屈、社会への敵意という視点から、この事件を別の角度で考えることもできる。
十九歳の地図は映画化もされている。
造田博の事件を考えると、のちの秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大、そして学校という象徴へ向かった宅間守の事件も、別の角度から見えてくる。
いずれも同じ事件ではない。
だが、社会への怒りが、どこで現実の暴力へ変わるのかという問いではつながっている。





