1988年から1989年にかけて、埼玉県と東京都で4歳から7歳の女児4人が相次いで姿を消した。
やがて少女の遺体が発見され、別の少女の自宅には遺骨が届けられた。「今田勇子」を名乗る人物から犯行声明まで送られてくる。
日本社会を震撼させた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件である。
警察庁では広域重要指定117号事件として扱われた。一連の事件で逮捕されたのが、当時26歳だった宮崎勤である。1988年8月から1989年6月までに4人の女児を誘拐・殺害したとして起訴され、長い裁判を経て死刑が確定した。
宮崎勤という人物の生い立ちや学歴、会社員時代、ビデオ収集、そして「ひきこもりのオタク」と呼ばれるようになるまでについては、別記事で詳しく取り上げている。
関連記事:宮崎勤とは何者だったのか?「オタク殺人鬼」と呼ばれるまでの26年間
本記事では人物像ではなく、宮崎が起こした4つの事件、その逮捕と裁判、そして事件後に宮崎勤の家族がたどった人生を追っていく。
1988年8月、最初の女児が姿を消した
最初の事件は1988年8月22日に起きた。
埼玉県入間市で、4歳だった今野真理さんが行方不明となった。
当初は少女が突然姿を消した事件であり、その時点で殺人事件と判明していたわけではない。
しかし約1か月半後の10月3日、今度は埼玉県飯能市で7歳の吉沢正美さんが行方不明になる。
さらに12月9日、川越市で4歳の難波絵梨香さんが姿を消した。
半年足らずの間に、埼玉県西部で幼い女児3人が相次いで行方不明になる異常事態となった。。
3人目の女児が遺体で発見される
最初に遺体となって発見されたのは、3人目に行方不明になった難波絵梨香さんだった。
1988年12月、埼玉県内の山林で遺体が発見された。
ここで「少女がどこかで生きているかもしれない」という失踪事件の様相は大きく変わる。
一方、先に行方不明になっていた今野真理さんと吉沢正美さんの行方は依然として分からなかった。
三つの事件が同一犯によるものなのか。それとも偶然重なった別々の事件なのか。
まだ犯人に直接つながる手掛かりはなかった。
遺骨が自宅に置かれた
事件がさらに異様な展開を見せるのは1989年2月である。
最初に行方不明になった今野真理さんの自宅前に、段ボール箱が置かれていた。
その中には骨や歯などが入っていた。
後にそれらが真理さんのものであると確認され、死亡が確定する。
単に遺体を遺棄するのではなく、時間を置いて遺族のもとへ戻す。
この行為によって、事件はそれまでの連続失踪事件とは異なる姿を現し始める。
「今田勇子」から届いた犯行声明
さらに、「今田勇子」を名乗る人物から朝日新聞東京本社や今野さんの家族へ文書が送られてきた。
そこには事件への関与を示す内容が記されていた。
今野さんの葬儀当日にも「告白文」が送られ、当時のテレビや新聞は「今田勇子とは何者なのか」と連日取り上げた。
犯人が女性を装っている可能性など、さまざまな推測が飛び交った。
後に、この「今田勇子」こそ宮崎勤が使用した偽名だったことが明らかになる。
事件は、犯行だけでなく、犯人自身がマスメディアと遺族へ働きかけるという異様な性格を帯びていったのである。
犯人が声明文を通じて社会や報道機関に自らの存在を刻みつけようとした事件としては、1997年の神戸連続児童殺傷事件もある。「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る人物から新聞社に犯行声明文が送りつけられ、その文面そのものが事件の大きな一部となった。
関連記事:酒鬼薔薇聖斗とは何者だったのか|神戸連続児童殺傷事件と犯行声明
1989年6月、4人目の事件が起きる
1989年6月6日。
今度は東京都江東区で5歳の野本綾子さんが行方不明となった。
数日後、埼玉県飯能市で遺体が発見された。
それまで主に埼玉県西部で起きていた事件が東京へ広がったことになる。
しかし、この時点でも宮崎勤の名前は捜査線上に浮かんでいなかった。
事件が解決へ動き始めるきっかけは、4人の事件とは別の場所で偶然生まれることになる。
宮崎勤が捕まったのは連続殺人ではなかった
1989年7月23日、宮崎勤は東京都八王子市で別の女児に性的な目的で接触した。
女児の父親が異変に気づき、宮崎を取り押さえたことから警察に身柄を引き渡される。
この時点で宮崎が逮捕された容疑は、4人の女児殺害ではなかった。
別件のわいせつ事件である。
ところが取調べを進める中で、宮崎は同年6月に殺害された野本綾子さんの事件について供述を始める。
その供述をもとに捜索した結果、遺体の一部が発見された。
さらに捜査が進み、前年から続いていた残る3事件についても宮崎の関与が明らかになっていった。
つまり、日本犯罪史に残る連続殺人事件の解決は、別の女児への事件を父親が発見したことから始まったのである。
26歳の宮崎勤という男
逮捕時、宮崎勤は26歳だった。
東京工芸大学短期大学部を卒業し、印刷会社へ就職した経験があり、その後は父親が経営する印刷業や地域紙の仕事を手伝っていた。
大量のビデオを収集し、同人活動やコミックマーケットにも参加していた。
逮捕後、こうした趣味が大々的に報道され、「オタク殺人鬼」というイメージが形成されていくことになる。
しかし、宮崎の26年間の人生と、事件後に作られた人物像は必ずしも同じではない。
その点については前述の宮崎勤人物記事で詳しく整理している。
1990年、裁判が始まる
宮崎勤の初公判は1990年3月30日、東京地裁で開かれた。
裁判では宮崎が4人の事件に関与したかどうかだけでなく、犯行時に刑事責任能力があったのかが大きな争点となった。
宮崎は公判で不可解な発言を繰り返し、精神鑑定でも専門家の見解が分かれた。
ただし、この問題は一つの見出しで処理できるほど単純ではない。
宮崎は精神病だったのか。
なぜ複数の鑑定結果が異なったのか。
そして「精神疾患があること」と「刑事責任能力がないこと」は何が違うのか。
これについては別記事で詳しく取り上げる。
東京地裁は死刑を言い渡した
1997年4月14日、東京地裁は宮崎勤に死刑を言い渡した。
裁判所は宮崎について完全責任能力があったと判断した。
宮崎側は控訴したが、2001年6月28日に東京高裁が控訴を棄却。
さらに最高裁へ上告したが、2006年1月17日、最高裁第三小法廷は上告を棄却した。弁護側による判決訂正の申し立ても退けられ、同年2月に死刑が正式に確定した。
最初の事件から、実に17年以上が経過していた。
2008年、宮崎勤の死刑が執行される
2008年6月17日、宮崎勤の死刑が東京拘置所で執行された。
45歳だった。
最初の事件を起こしたとき26歳。
逮捕から約19年、死刑確定から約2年4か月後のことである。
これによって宮崎勤本人に対する刑事手続きは終わった。
しかし、事件によって壊された人生まで元に戻ったわけではない。
当然ながら、その中心にいるのは4人の被害者とその家族である。
そしてもう一方で、事件は加害者である宮崎勤の家族の人生も大きく変えていた。
宮崎勤の家族は事件後どうなったのか
宮崎勤は、父親、母親、妹たちのいる家庭で育っていた。
逮捕直後、父親は報道陣に対して息子について「物静かで大人しい性格だった」という趣旨の説明をし、当初は重大事件への関与を信じられない様子だったことが当時の取材記録に残っている。
しかし宮崎の犯行が次々と明らかになるにつれ、家族を取り巻く状況も一変していく。
報道陣が自宅周辺に殺到し、地域社会の中でも「宮崎勤の家族」として生きることを余儀なくされた。
家族自身が犯罪を起こしたわけではない。
だが、重大事件では加害者本人とその家族との境界が社会の中で消えてしまうことがある。
家族自身が犯罪を起こしたわけではない。
だが、重大事件では加害者本人とその家族との境界が社会の中で消えてしまうことがある。
宮崎家もその渦中に置かれた。
同じように、秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大の家族も、事件後に厳しい社会的視線にさらされた。加害者の家族が事件の後にどのような人生を背負うことになるのかについては、別記事で詳しく取り上げている。
関連記事:加藤智大の家族は事件後どうなったのか|両親と弟が背負ったもの
父親は近所を回って謝罪した
事件後の宮崎家を取材した集英社オンラインの記事では、近隣住民の証言として、母親が近所を一軒ずつ回って謝罪していたことや、父親が住民宅で土下座しながら謝っていたことが伝えられている。
法律上、成人した息子が起こした殺人について両親が刑事責任を負うわけではない。
それでも父母は、自分たちの家から4人の子どもを殺した犯人が出たという現実を背負うことになった。
そして父親は、事件から約5年後に死亡する。
父親は1994年に自殺した
1994年11月、宮崎勤の父親は東京都青梅市の橋から多摩川へ身を投げ、自殺したと報じられている。
65歳だった。
宮崎勤本人は、この時点でも東京地裁で裁判を受けていた。
死刑判決が出るのは、それから約2年半後の1997年である。
つまり父親は、息子の刑事裁判の結論を見ることなく亡くなったことになる。
母親はその後も宮崎勤との面会を続けた
一方、母親は事件後も生き続けた。
後年の取材では、病気で身体が不自由になった後も、東京拘置所へ宮崎勤との面会に通っていたと伝えられている。
2008年に宮崎の死刑が執行された際にも、母親の存在が報じられている。
凶悪事件を起こした息子であっても、母親にとって息子であるという事実までは消えない。
その関係がどのような感情で維持されていたのかは、外部から簡単に説明できるものではない。
拘置所や刑務所の中にいる人間と、その外側で生きる家族とのつながりを描いた作品として、映画『金子差入店』がある。差し入れという行為を通して、犯罪者本人だけでなく、その家族や周囲の人々が抱える感情まで描いた作品である。
関連記事:映画『金子差入店』とは|拘置所の内と外をつなぐ「差し入れ」の意味
妹たちにも人生があった
宮崎勤には妹がいた。
事件後、妹たちが仕事や進路、結婚などで大きな影響を受けたとする記述は複数の書籍や記事で語られてきた。
ただし、この部分についてはネット上で同じ内容が繰り返し転載されているものも多く、本人たちの現在の生活を含め、確実に確認できない情報まで混在している。
したがって、少なくとも本記事では、妹たちの現在の氏名や居住地などを追う必要はないだろう。
重要なのは、宮崎勤の犯行とは無関係だった家族も、その名字と血縁によって事件の影響を受け続けたという事実である。
加害者家族はどこまで責任を負うのか
ここには、重大事件につきまとう別の問題がある。
4人の女児を誘拐し、殺害したのは宮崎勤である。
その父親でも母親でも妹でもない。
被害者と遺族が受けた被害と、加害者家族が受けた社会的な打撃を同じものとして扱うこともできない。
しかし同時に、犯罪を起こしていない家族までが社会生活を失い、謝罪を続け、人生そのものを変えざるを得なくなる現象も存在する。
宮崎勤の父親が事件から5年後に自ら命を絶った事実は、この事件が宮崎勤一人の刑事裁判だけでは終わらなかったことを示している。
事件は2008年で「終わった」のか
1988年8月、最初の少女が姿を消した。
1989年7月、宮崎勤が別件で逮捕された。
1997年、一審で死刑。
2006年、死刑確定。
2008年、死刑執行。
司法手続きだけを見れば、そこで事件は終わったことになる。
しかし事件には、裁判記録だけでは切り取れない時間が存在する。
幼い娘を失った家族には、その後の人生がある。
宮崎勤の両親や妹たちにも、その後の人生があった。
そして事件から数十年が経った現在も、宮崎勤という名前は「オタク」「ひきこもり」「精神鑑定」といったさまざまな言葉と結びつきながら語られ続けている。
では、宮崎勤自身は犯行当時、どのような精神状態だったのか。
専門家の精神鑑定はなぜ一致しなかったのか。
次の記事では、裁判最大の争点となった宮崎勤の精神鑑定と刑事責任能力を詳しく追っていく。
宮崎勤の裁判をさらに知るなら
宮崎勤の裁判を詳しく追いたい人には、作家・佐木隆三の『宮崎勤裁判』がある。
長期間にわたって公判を傍聴し、宮崎本人の法廷での証言や行動、検察・弁護側のやり取り、そして大きな争点となった精神鑑定までを記録したシリーズである。
事件報道だけでは見えにくい、法廷の中での宮崎勤を知るための資料として読める。
宮崎勤が「今田勇子」の名で遺族や新聞社へ文書を送りつけたように、後の神戸連続児童殺傷事件でも、犯人は「酒鬼薔薇聖斗」を名乗って新聞社へ犯行声明文を送った。
犯行だけでなく、声明文によって自らの存在を社会に示そうとした点で、二つの事件には共通する異様さがある。


