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山岳ベース事件からあさま山荘事件へ|連合赤軍はなぜ自壊したのか

山岳ベース事件とあさま山荘事件とは何だったのか 映画解読

あさま山荘事件は、連合赤軍の事件として広く知られている。

雪の中の山荘。
人質を取った立てこもり。
鉄球で壁を壊す機動隊。
テレビ中継を見守る日本中の人々。

その映像の強さによって、あさま山荘事件は日本の戦後史に深く刻まれた。

あさま山荘事件は、連合赤軍の始まりではない。

むしろ、終わりである。

その前にあったのが、山岳ベース事件だった。

この記事では、山岳ベース事件からあさま山荘事件までの流れを整理し、連合赤軍がなぜ自壊していったのかを見ていく。

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山岳ベース事件とは何か

山岳ベース事件とは、1971年末から1972年初めにかけて、連合赤軍の山岳アジトで起きた内部リンチ殺人事件である。

連合赤軍は、赤軍派と革命左派が合流して生まれた新左翼の武装組織だった。

彼らは武装闘争を掲げ、山中に拠点を置き、軍事訓練を進めようとしていた。

その山中のアジトが、いわゆる山岳ベースである。

だが、山岳ベースは革命の拠点にはならなかった。

そこは、閉じた組織の論理が暴走する場所になった。

連合赤軍の内部では、メンバーに対して「総括」が求められるようになる。

本来、総括とは自分の行動や考えを振り返る言葉である。しかし、連合赤軍の中では、それが次第に仲間を批判し、追いつめ、暴力を正当化する言葉に変わっていった。

その結果、連合赤軍のメンバー12人が死亡した。

山岳ベースに集まった連合赤軍メンバー:29人
リンチ・処刑で死亡:12人
生き残り:17人

この事件は、外部の敵に向けられたテロではない。

仲間同士の中で起きた事件だった。

連合赤軍の異様さは、まさにここにある。

国家権力と戦うはずだった組織が、実際には山の中で自分たちの仲間を裁き始めたのである。

関連記事:連合赤軍とは何だったのか

なぜ山へ入ったのか

連合赤軍が山岳ベースへ入った背景には、当時の新左翼運動の行き詰まりがあった。

1960年代後半、日本では学生運動や反安保闘争が激しく展開された。大学闘争、街頭デモ、機動隊との衝突。若者たちの一部は、政治運動の中に時代を変える可能性を見ていた。

しかし、運動は次第に退潮していく。

大衆運動としての広がりは失われ、組織は細分化し、内部分裂も進んだ。

その中で、一部のグループは「もっと強い闘争が必要だ」と考えるようになる。

デモでは足りない。議論では足りない。武装しなければならない。

そうした発想が、銃器の獲得や軍事訓練へつながっていった。

山へ入ることは、彼らにとって革命の準備だった。

都市の運動から離れ、山中で訓練し、革命戦士として自分たちを鍛え直す。

そのような意識があった。

だが、山は彼らを強くしたのではない。

むしろ、外部への目を失わせた。

閉じた空間の中で、組織の論理だけが濃くなっていった。

「総括」はなぜ暴力になったのか

山岳ベース事件を語るうえで避けられない言葉が「総括」である。

もともとの総括は、単純にいえば、自分の行動・思想・弱点を振り返り、革命運動にふさわしい人間へ自己変革する、という意味合いだった。反省、自己批判、討論、方針確認に近い。

もちろんそれ自体にも閉鎖的で危険な要素はあるが、少なくとも最初から「殴って殺す儀式」ではなかった。

ところが山岳ベースでは、連合赤軍・委員長の森恒夫がそこに独特の理屈を持ち込んだ。

「総括できないのはブルジョア性が残っているからだ」
「殴られることで自分の弱さに気づく」
「死にかけるほど追い込まれれば革命戦士に変われる」

こういう方向にねじれていった。
つまり、反省や自己批判ではなく、暴力による人格改造になった。

さらに怖いところは、山岳ベースの総括には明確な到達点がなかった。

何を言えば総括できたことになるのか。
どこまで反省すれば許されるのか。
誰が合格を決めるのか。

その基準が曖昧なまま、森恒夫や副委員長の永田洋子が「まだ総括できていない」と判断すれば暴行が続く。これはもう思想ではなく、出口のない尋問装置だ。

さらに森自身も、総括の理論をその場で変えていった。最初から体系だったマニュアルがあったわけではない。誰かが倒れる、死ぬ。そのたびに、

「これは敗北死ではない」
「総括しきれなかったからだ」
「死を無駄にしないためにさらに総括を進める」

というように、現実の死を後から理屈で覆っていった。

死体が出ても止まらないどころか、死体が次の暴力の根拠になっていく。

永田洋子もそこに乗った。特に女性メンバーへの嫉妬や敵意、生活態度への批判、恋愛関係への介入などが、総括の名で正当化された。

だから山岳ベースの総括は、森の理論だけでなく、永田の感情や人間関係の歪みも混ざっている。

結果、仲間を裁く組織になっていった

連合赤軍は、外の社会と戦うために山へ入ったはずだった。

しかし、山岳ベースで彼らが始めたのは、仲間を裁くことだった。

組織の中で誰かが「不十分」とされる。

その人物に総括が求められる。

総括できていないと判断される。

さらに厳しい追及が行われる。

この流れが繰り返されていった。

いったん誰かが標的になると、周囲のメンバーもその流れに巻き込まれる。

誰かをかばえば、自分も疑われる。黙っていれば、組織に従っていることになる。批判に加われば、自分はひとまず安全な側にいられる。閉じた集団の中で、そうした空気が強まっていった。

これは単に「一部の幹部が異常だった」というだけでは説明しきれない。

もちろん、指導部の責任は大きい。

しかし同時に、組織全体が止まれなくなっていた。

山岳ベースは、外の社会から切り離された小さな世界だった。

その中では、組織の論理が現実よりも強くなった。

人が弱っていることよりも、総括が足りないことが問題にされた。

命が危険な状態にあることよりも、革命戦士として変われているかどうかが問われた。

思想が人間を見る目を奪っていったのである。

山岳ベースで組織はすでに壊れていた

山岳ベース事件によって、連合赤軍は内側から壊れていった。

メンバー12人が死亡したことは、単なる「内部トラブル」ではない。

組織そのものが維持できなくなっていたということである。

革命のための組織が、革命を起こす前に仲間を殺してしまう。

これは、連合赤軍の矛盾をもっとも露骨に示している。

彼らは社会の不正を批判していた。

国家権力を批判していた。

資本主義社会を批判していた。

しかし、その組織の内部では、さらに狭く、さらに逃げ場のない支配が生まれていた。

外の社会を変えるはずの言葉が、内側で人を追いつめる言葉に変わった。

山岳ベース事件とは、連合赤軍が社会に敗れた事件というより、自分たちの内部論理に敗れた事件だった。

山岳ベース事件の異様さは、単に「12人が死亡した」という数字だけでは見えてこない。

誰が誰を裁き、誰が沈黙し、誰が生き残ったのか。

その人物関係を整理すると、連合赤軍が内側から崩れていく構図がよりはっきりする。

主要人物の関係については、山岳ベース事件の人物相関図として別記事で整理している。

警察の捜査と逃亡

山岳ベース事件の後、警察の捜査は連合赤軍に迫っていった。

メンバーは山中を移動しながら逃亡を続ける。

すでに組織はまともな状態ではなかった。

その中で、森恒夫、永田洋子ら中心メンバーも次々に逮捕されていく。

連合赤軍は、もはや何かを実行するための組織ではなくなっていた。

残された者たちは、革命のために前進していたのではない。

追われていた。

逃げていた。

その逃亡の末に、あさま山荘事件が起きる。

あさま山荘事件とは何だったのか

1972年2月、連合赤軍の残ったメンバー5人が、長野県軽井沢町のあさま山荘に立てこもった。

これが、あさま山荘事件である。

事件は、1972年2月19日から2月28日まで続いた。連合赤軍の残った5人が人質を取って立てこもり、事件は10日間の攻防となった。

彼らは、警察に包囲され、テレビで大きく報じられた。当時、多くの人々が画面越しにその様子を見つめた。あさま山荘事件が強烈に記憶されたのは、事件そのものの重大性に加えて、テレビ中継の存在が大きかった。

連合赤軍という名前は、この事件によって全国に知られることになる。

だが、事件の流れを見れば、あさま山荘事件は連合赤軍の「作戦」ではない。

山岳ベース事件によって内部崩壊した組織の、逃亡の果てだった。

もちろん、人質を取り、銃を持って抵抗したことは重大な犯罪である。

しかし、連合赤軍の歴史の中で見るなら、あさま山荘事件は攻撃の始まりではなく、崩壊の終着点だった。

あさま山荘に立てこもった5人はその後どうなったのか

あさま山荘に立てこもった5人は、事件後に全員逮捕された。

しかし、その後の運命は一様ではなかった。

坂口弘は死刑が確定した。吉野雅邦は無期懲役となった。坂東國男は1975年のクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放され、国外へ出た。その後も逃亡を続け、現在も国際手配中である。

一方、加藤倫教は懲役13年が確定し、服役後に出所した。弟の加藤元久は当時16歳だったため、少年院送致となった。

名前当時の年齢その後
坂口弘25歳死刑確定。東京拘置所に収監
坂東國男25歳1975年のクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放。国外逃亡し、現在も国際手配中
吉野雅邦23歳無期懲役。服役中
加藤倫教19歳懲役13年が確定。服役後に出所
加藤元久16歳少年院送致。その後、退院

坂東國男の釈放は、連合赤軍事件が日本国内だけで完結しなかったことを示している。国内で自壊した連合赤軍の残党の一部は、日本赤軍による国際事件とも接続していった。

つまり、あさま山荘事件は1972年2月28日の逮捕で完全に閉じたわけではない。

死刑、無期懲役、出所、少年院送致、そして国外逃亡。

5人のその後を見ても、連合赤軍事件はそれぞれ違う形で長く尾を引いた事件だったことがわかる。

日本赤軍については、こちらの記事で時系列から整理している。

関連記事:日本赤軍とは何だったのか

なぜ連合赤軍は自壊したのか

連合赤軍は、なぜ自壊したのか。

一つには、運動の行き詰まりがあった。

大衆的な支持を失い、外の社会との接点が細くなっていく中で、彼らはより過激な方向へ進んだ。

もう一つには、閉鎖空間の問題があった。

山中に入り、外部の目を失ったことで、組織内部の論理が歯止めなく強まった。

さらに、思想の言葉が人間の現実を覆い隠した。

疲れている。
寒い。
空腹である。
怖がっている。
逃げたいと思っている。

そうした人間として当然の反応が、連合赤軍の中では「革命戦士として未熟」と見なされていった。

人間の弱さを認められない組織は、人間を壊す。

連合赤軍は、まさにそのように崩れていった。

彼らは強い組織になろうとした。

だが、強さを求めるあまり、人間であることを許せなくなった。

その結果、組織は外に向かって戦う前に、内側で人を殺し、自分自身を壊してしまったのである。

山岳ベース事件とあさま山荘事件は一本の線でつながっている

山岳ベース事件とあさま山荘事件は、別々の事件として語られることが多い。

しかし、実際には一本の線でつながっている。

山岳ベースで内部崩壊が起きる。

警察の捜査が迫る。

メンバーが逃亡する。

幹部や仲間が逮捕される。

最後に残った5人が、あさま山荘に立てこもる。

この流れで見なければ、あさま山荘事件の意味はつかめない。

あさま山荘事件は、山岳ベース事件の後に突然起きた別の事件ではない。

山岳ベースで壊れた組織が、逃亡の末に社会の前へ現れた事件だった。

まとめ|連合赤軍事件が残した問い

連合赤軍事件は、過激派の事件として片づけることもできる。

しかし、この事件が問いかけているのは、思想そのものの危うさだけではない。閉じた組織の危うさである。

正しさを掲げた集団が、外部の目を失ったとき、内部で何が起きるのか。仲間を批判する言葉が、いつ暴力に変わるのか。

総括という言葉自体は、新左翼運動の中で自己批判や思想点検を意味するものとして使われていた。しかし、山岳ベースでは森恒夫の解釈によって、暴力を通じて人間を作り替える儀式のようなものへ変質した。

人間を守るはずの理想が、なぜ人間を裁く道具になるのか。

山岳ベース事件は、その問いを突きつけている。

連合赤軍事件を映像で理解するなら、若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』がある。山岳ベース事件からあさま山荘事件までの流れを、一本の崩壊の過程として見ることができる作品である。


山岳ベース事件の主要人物については、誰が「総括」を主導し、誰が対象となり、誰が死亡し、誰が生き残ったのかを人物相関図としてまとめている。

連合赤軍という組織の全体像については、こちらの記事で整理している。

新左翼全体の流れについては、こちらの記事で整理している。

日本赤軍については、こちらの記事で時系列からまとめている。

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