よど号メンバーのその後|北朝鮮へ渡った赤軍派9人はどうなったのか

よど号ハイジャック事件メンバーのその後 書物私論
※本ページはプロモーションが含まれています

1970年3月31日、日本航空351便、通称「よど号」が赤軍派のメンバー9人によってハイジャックされた。

彼らは乗客を人質に取り、最終的に北朝鮮へ渡った。目的は、北朝鮮を革命の国際根拠地にすることだった。

だが、その後の彼らの人生は、革命家の亡命生活というよりも、出口のない政治的漂流に近かった。

一部は北朝鮮で死亡し、一部は日本に戻って裁判を受け、一部はいまも北朝鮮に残っているとみられる。※日本の警察は、現在も、よど号グループのメンバーらを国際手配し、北朝鮮に対して身柄の引き渡しを求めている。

スポンサーリンク

よど号事件の実行メンバー9人

よど号事件を起こしたのは、共産主義者同盟赤軍派のメンバーだった。赤軍派はその後、よど号グループ、日本赤軍、連合赤軍などへ分かれていく。

実行メンバーは次の9人だった。

田宮高麿
小西隆裕
岡本武
田中義三
魚本公博(旧姓・安部公博)
若林盛亮
赤木志郎
吉田金太郎
柴田泰弘

彼らは北朝鮮に渡ったあと、「よど号グループ」と呼ばれるようになる。

関連記事:よど号ハイジャック事件とは何だったのか
関連記事:赤軍派とは何だったのか

北朝鮮に残った者、日本に戻った者、死亡した者

よど号グループのその後は、大きく三つに分かれる。

一つは、北朝鮮に残り続けた者。

一つは、国外や日本国内で身柄を拘束され、日本で裁判を受けた者。

そしてもう一つは、北朝鮮などで死亡したとされる者である。

警察資料などでは、現在も北朝鮮に残っている実行犯は小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎らとみられている。

岐阜県警の資料でも、ハイジャックに関与した被疑者5人のほか妻3人が北朝鮮にとどまっていると説明されているが、岡本武については死亡説があり、真偽不明とされてきた。

田宮高麿|よど号グループのリーダー

田宮高麿は、よど号事件のリーダー格だった。

大阪市立大学に在学し、赤軍派の軍事委員長でもあった。よど号事件は、田宮を中心とする赤軍派の軍事行動として実行された。

北朝鮮に渡った田宮は、その後もよど号グループの中心人物であり続けた。だが、1995年に北朝鮮で死亡したとされる。

彼は日本で裁判を受けることなく、北朝鮮で人生を終えた。

赤軍派の「世界同時革命」という荒々しい理論は、よど号事件によって現実の航空機を奪った。しかし、そのリーダーの人生は、革命の成功ではなく、北朝鮮の中で閉じていった。

ちなみに「世界同時革命」は、当時の赤軍派議長・塩見孝也の発想だった。塩見はよど号事件の前に逮捕され、20年の獄中生活を送り、出所した。そして晩年は駐車場の管理人として生涯を終えた。

塩見孝也については、以下の記事で詳しく整理している。

関連記事:塩見孝也とは何者だったのか

小西隆裕|田宮亡き後の中心人物

小西隆裕は、東京大学医学部中退とされる人物で、事件当時からよど号グループの中核にいた。

田宮高麿の死後は、グループの中心的存在になったとみられている。

小西隆裕は、事件後に、北朝鮮で結婚している。

小西隆裕の妻は、よど号事件前から小西と婚約していた女性で、事件後に北朝鮮へ渡り、のちに小西と結婚したとされる。

現在も北朝鮮に残っているとされ、国際手配の対象である。

魚本公博|拉致事件で国際手配された人物

魚本公博は、旧姓を安部公博という。

彼も現在、北朝鮮に残っているとみられている人物である。

魚本は、有本恵子さん拉致事件への関与が疑われ、国外移送目的拐取(かいしゅ)などの容疑で国際手配されている。

よど号事件は、もともとハイジャック事件だった。

しかし、その後のよど号グループを見ると、北朝鮮の対外工作、日本人妻、欧州での接触、日本人拉致疑惑へと問題が広がっていく。

魚本公博は、その接点にいる人物である。

若林盛亮|北朝鮮に残るメンバーの一人

若林盛亮も、現在まで北朝鮮に残っているとみられているメンバーである。

事件当時は若い学生運動家の一人だったが、よど号事件によって日本社会から姿を消し、北朝鮮で長い時間を過ごすことになった。

若林の妻とされる若林佐喜子(旧姓・黒田佐喜子)については、石岡亨さん、松木薫さん拉致事件への関与が疑われ、国際手配されている。

妻になった若林佐喜子は、もともと主体思想や朝鮮問題研究会に関わっていた女性で、後にパリで若林盛亮と出会い、1977年に若林とともに北朝鮮へ渡って結婚したとされる。

つまり、若林佐喜子は事件後、海外で若林と接点を持ち、よど号グループに合流した人物である。

よど号事件は単独のハイジャック事件では終わらない。

北朝鮮に渡ったメンバー本人だけでなく、その妻たちもまた、拉致問題の中で名前を挙げられることになった。

赤木志郎|北朝鮮に残るメンバーの一人

赤木志郎も、現在北朝鮮に残っているとみられるメンバーである。

事件当時は22歳前後の若者だった。

若くして日本を離れた赤木は、その後、日本社会に戻ることなく北朝鮮で暮らし続けたとみられている。

赤木については、田宮や小西、魚本ほど大きく語られることは少ない。だが、むしろそこに、よど号グループの奇妙な現実がある。

彼らは日本の戦後史に残る大事件を起こした。しかし、その後の半世紀は、北朝鮮の中でほとんど見えない存在になっていった。

事件の瞬間だけが強烈に照らされ、その後の人生は分厚いカーテンの向こうへ消えていったのである。

岡本武|死亡説と不明点が残る人物

岡本武は、京都大学農学部中退とされるメンバーであり、日本赤軍の岡本公三の兄にあたる。

岡本については、北朝鮮で死亡したとする情報がある一方、長く真偽不明とされてきた。

この不明瞭さは、よど号グループ全体を象徴している。

彼らは北朝鮮に渡ったことで、日本の司法の外へ出た。しかし同時に、自由な亡命者になったわけでもなかった。

北朝鮮という閉じた国家の中で、誰がどのように暮らし、どのように死んだのか。その詳細は、外からは見えにくい。

革命のために国境を越えた者たちは、やがて情報の国境の向こうに消えていった。

弟の岡本公三は、日本赤軍のメンバーとして1972年のロッド空港乱射事件に参加した。奥平剛士、安田安之とともにイスラエルの空港で銃を乱射し、多数の死傷者を出した事件である。

日本やイスラエルから見れば、岡本公三は民間人を殺傷したテロ実行犯である。だが、パレスチナ側の一部では、彼はイスラエルに対して命を投げ出した外国人義勇兵のように扱われ、「英雄」として記憶された。

つまり岡本兄弟は、兄がよど号事件で北朝鮮へ渡り、弟が日本赤軍としてパレスチナ闘争に加わったことになる。

関連記事:日本赤軍とは何だったのか

田中義三|タイで逮捕され、日本で服役中に死亡

田中義三は、よど号メンバーの中で、日本の司法で裁かれた人物の一人である。

田中義三は、1996年にカンボジアで偽ドル事件に関連して身柄を拘束され、その後タイへ移送された。タイで裁判を受けたのち、2000年に日本へ移送され、よど号事件をめぐって逮捕・起訴された。

2002年に東京地裁で懲役12年の判決を受け、2003年に刑が確定。熊本刑務所に収監されたが、服役中の2007年1月1日、肝臓がんのため死亡した。

よど号事件の実行犯の中で、田中は「北朝鮮に渡ったまま終わった人物」ではない。

彼は国外で拘束され、日本の裁判にかけられ、最後は日本で死亡した。

この点で、田中の人生は他の北朝鮮残留メンバーとは違う。

革命家として出国した若者が、長い時間を経て、被告人として日本に戻ってきたのである。

柴田泰弘|日本国内で逮捕された最年少メンバー

柴田泰弘は、よど号事件当時16歳の最年少メンバーだった。

事件後は他のメンバーとともに北朝鮮へ渡ったが、1980年代半ばに秘密裏に日本へ戻ったとされる。

別人名義で潜伏していたが、1988年5月に旅券法違反容疑で逮捕され、その後、よど号事件本体について再逮捕された。

裁判では、強盗致傷罪、国外移送目的略取罪などに問われ、1990年12月20日、東京地裁で懲役5年の判決を受けた。上訴したが、1993年11月に懲役5年が確定。未決勾留期間が刑期に算入されたため、1994年7月21日に出所した。

懲役5年は、よど号事件の重大性を考えると短く見えるが、柴田は事件当時16歳の最年少メンバーであり、田宮高麿らのような主導的立場ではなかった。また、よど号事件では乗客乗員を人質に取ったものの、死者は出ていない。こうした事情が量刑に影響したとみられる。

出所時には新潟市内のホテルで会見しているが、その後、よど号グループの帰国運動や新左翼運動の中心人物として表舞台に立ち続けたわけではない。

出所後は大阪市内で一人暮らしをしていたとされる。北朝鮮に残ったメンバーとも、日本赤軍のように国外で活動を続けたメンバーとも異なり、柴田は日本社会の片隅で静かに暮らした人物だった。

その後、2011年6月23日、大阪市内で死亡している。

柴田は、北朝鮮に残り続けたメンバーとは異なり、日本の司法で裁かれ、刑を終えたよど号犯である。

柴田の人生もまた、よど号グループの「その後」の複雑さを示している。

彼は北朝鮮に残り続けた者ではなく、日本に戻り、裁判を受け、刑を終えた人物である。

ハイジャック犯でありながら、最後には日本社会の中で死を迎えた。

吉田金太郎|北朝鮮で死亡したとされる人物

吉田金太郎は、よど号メンバーの中でも情報が限られている人物である。

北朝鮮で死亡したとされる。

岡本武と同じく、吉田の死についても、外部から確認しにくい部分がある。

よど号事件の実行犯9人は、事件当時、日本中に名前を知られた。しかし北朝鮮に渡った後、その人生の細部は急速に見えにくくなっていった。

吉田金太郎は、その典型のような人物である。

よど号グループと日本人拉致問題

よど号グループのその後を語るうえで避けられないのが、日本人拉致問題との関係である。

外務省は、北朝鮮による拉致の背景として、工作員による身分偽装、日本人化教育の必要、そして北朝鮮に匿われているよど号グループによる人材獲得などがあったとみられると説明している。

また、外務省は2006年版の外交青書で、よど号グループが欧州での拉致事案に関与していたことが、元妻らの証言によって明らかになっていると記している。

ここで、よど号事件の意味は変わる。

1970年の時点では、それは赤軍派によるハイジャック事件だった。

しかしその後、よど号グループは北朝鮮の中で生き続け、日本人拉致問題とも結びついていく。

事件は終わったのではない。

飛行機は平壌に着いた。

だが、事件そのものは、そこで別の形に変わって続いていった。

子供たちの帰国

よど号グループには、北朝鮮で生まれ育った子供たちがいた。

その子供たちの一部は、2000年代に入って日本へ帰国している。

警察庁は、よど号犯人の子女について、20人全員が帰国していると説明している。

帰国したのは、田宮高麿、小西隆裕、岡本武、若林盛亮、赤木志郎、魚本公博、田中義三、柴田泰弘らの子どもたちである。また、この20人には赤木志郎の妹の子どもも含まれるとされる。

子どもたちは事件の実行犯ではない。だが、親が起こしたよど号事件、北朝鮮での生活、そして日本への帰国という複雑な歴史を背負うことになった。

よど号事件のその後は、実行犯だけの話ではない。

家族まで巻き込んだ、長い長い戦後史の影である。

彼らは革命家だったのか、亡命者だったのか

よど号メンバーは、自分たちを革命家だと考えていた。

北朝鮮を根拠地にし、世界革命へ向かうつもりだった。

だが、現実にはどうだったのか。

彼らは革命を起こすことはできなかった。

日本に戻ることもできなかった。

北朝鮮の中で保護されながら、同時に自由でもない特殊な存在になっていった。

革命家というより、歴史の中に取り残された亡命者である。

しかも、その亡命生活は、日本人拉致問題というさらに重い問題と接続していった。

まとめ|よど号事件は、平壌到着で終わらなかった

よど号事件は、日本初のハイジャック事件として記憶されている。

だが、本当に重いのは、その後である。

田宮高麿は北朝鮮で死亡した。

田中義三と柴田泰弘は日本の司法に戻り、のちに死亡した。

岡本武や吉田金太郎にも死亡説がある。

小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎らは、現在も北朝鮮に残っているとみられる。

さらに、よど号グループは日本人拉致問題とも関係を指摘され、メンバー本人や妻たちが国際手配の対象となっている。

1970年、彼らは飛行機を奪って北朝鮮へ向かった。

だが、その先にあったのは革命の根拠地ではなかった。

そこにあったのは、帰ることも進むこともできない、半世紀以上にわたる歴史の行き止まりだった。

よど号グループのその後を、当事者側の言葉から知る一冊として、『「拉致疑惑」と帰国――ハイジャックから祖国へ』がある。

本書には、北朝鮮で今なお暮らすよど号メンバー6人全員の手記が収められている。彼らはなぜ今、日本への帰還を望むのか。そして、日本人拉致疑惑に対してどのように反論しているのか。鳥越俊太郎による現地取材や、平壌での座談会も収録されており、よど号グループ側の肉声を知る資料になっている。

もちろん、拉致疑惑をめぐっては日本政府・警察側の見解もあり、本書はあくまで当事者側の主張を含むものとして読む必要がある。それでも、よど号事件が平壌到着で終わらず、帰国問題と拉致疑惑をめぐる長い時間へ続いていったことを考えるうえで、避けて通れない一冊である。

▶Amazonで「拉致疑惑」と帰国――ハイジャックから祖国へを見る。

よど号事件そのものの経緯については、以下の記事で詳しく整理している。

あわせて、彼らが属していた赤軍派の思想と分裂。

その後にパレスチナへ向かった日本赤軍の流れを知ると、よど号グループの位置づけも見えやすくなる。

その当時、よど号メンバーだけが特別な思想を持っていたわけではない。新左翼運動の全体像については、こちらの記事で詳しく整理している。

タイトルとURLをコピーしました