横井庄一はなぜ28年間グアムに潜伏したのか|赤紙による召集から帰国後の生涯

横井庄一とは何者か 書物私論
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1972年1月24日、グアム島のジャングルで一人の日本兵が発見された。

男の名は横井庄一。

太平洋戦争中にグアム島へ送られ、日本の敗戦後もジャングルに身を隠し続けていた人物である。

横井が日本へ帰国したのは、終戦から約27年が経過した1972年2月2日だった。

帰国時に語った「恥ずかしながら、生きながらえておりました」という言葉は広く知られ、横井は一夜にして日本中の注目を集めた。

しかし、横井庄一は軍人になることを望み、自ら戦争へ向かった人物ではない。

もともとは洋服の仕立て職人であり、召集令状、いわゆる赤紙によって戦場へ送られた一人の市民だった。

なぜ横井庄一は28年間もグアム島に潜伏したのか。

仕立て職人として暮らしていた時代から召集、グアム島での生活、発見と帰国、結婚、参議院議員選挙への立候補、晩年、そして死後に開館した記念館まで、その生涯を時系列でたどる。

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横井庄一の経歴|仕立て職人から赤紙で召集された兵士へ

横井庄一は1915年3月31日、愛知県海部郡佐織村、現在の愛西市に生まれた。

1930年から豊橋市の洋服店で働き、洋服の仕立て職人として技術を身につけた。1936年からは名古屋市で洋服仕立業を営んでいる。

横井は軍人を生業としていた人物ではない。

1938年5月、最初の召集を受けて日中戦争に従軍したが、1939年3月には召集を解除され、日本へ戻った。

その後は再び名古屋で洋服仕立業を営んでいたが、1941年8月に二度目の召集を受け、満州へ派遣された。

満州からグアム島へ送られた横井庄一

1944年3月、横井庄一の所属部隊は、グアム島の防備にあたるため満州から移動した。

日本軍は太平洋戦争の開戦後、アメリカ領だったグアム島を占領し、「大宮島」と呼んでいた。

しかし、1944年7月、アメリカ軍がグアム島へ上陸する。

日本軍とアメリカ軍の戦力差は大きく、日本軍の組織的な抵抗は短期間で崩れていった。

横井たちはジャングルへ逃げ込み、移動しながら生き残る道を選ばざるを得なくなった。グアム島は同年8月までにアメリカ軍によって奪還され、横井の家族には戦死公報が届けられた。

日本では、横井庄一はすでに死亡した人物となっていた。

だが実際の横井は、グアム島のジャングルの中で生き続けていた。

仲間と始まったジャングルでの潜伏生活

横井庄一は、28年間のすべてを一人で過ごしたわけではない。

日本軍の敗北後も生き残った兵士たちは、いくつかの集団に分かれてジャングルを移動していた。

兵士の数は戦闘、病気、飢餓などによって減少し、最終的に横井を含む3人が行動をともにするようになった。

横井は志知幹夫、中畠悟という2人の戦友と約20年間暮らしたとされる。2人が亡くなった後、最後の約8年間は一人だけの生活となった。

潜伏生活では、食料を得ることだけでなく、現地住民やアメリカ軍に発見されないことも重要だった。

横井は村人が育てている作物や食料には手を出さず、ジャングルや川で得られるものによって生き延びた。

人の生活圏へ近づけば、食料を得られる可能性は高くなる。しかし同時に、発見される危険も高くなる。

横井の生活は、飢えを避けながら、人間からも逃げ続ける生活だった。

横井庄一は何を食べて生き延びたのか

横井庄一は、でんぷん質が多く主食にもなるパンノキの実を食料としていた。ほかにも、ソテツの実や川エビ、ネズミなど、ジャングルや川で得られるものを口にしていた。

パンノキやソテツの実、エビなどは乾燥させ、粉末にして保存した。竹筒に落とし蓋を付け、煙や虫が入らない貯蔵容器も作っていた。

火を起こすためには竹を利用し、一度できた火種は灰の中で慎重に保存した。

何もない場所で毎回火を起こすことは難しい。火を失わないことは、食料を加熱し、暗闇を照らし、生き延びるための重要な仕事だった。

地下壕を掘り、生活道具を作った横井庄一

横井庄一は、砲弾の部品を加工して小さなクワを作り、地面に地下壕を掘った。

壕は外から発見されにくいように作られ、出入り口だけでなく換気のための穴も設けられていた。

飯盒(はんごう)や水筒も、そのまま使用したわけではない。

水筒を切断して鍋や食器、フライパンへ作り替え、金属の切断面にはけがをしないよう縁取りまで施していた。

銃剣や鉄釘は工具に、薬莢(やっきょう)は縫い針や小物入れに変えられた。限られた物を壊れるまで使うのではなく、修理し、別の道具へ変えながら使い続けたのである。

そこには、単なるサバイバル能力だけではなく、仕立て職人として培った手仕事の感覚が表れている。

仕立て職人の技術で衣服を作る

横井庄一は、グアム島に自生するパゴの木から繊維を取り出し、手製の織機で布を織った。

その布を使い、半袖と半ズボン、長袖と長ズボンの衣服を作っている。

ボタン穴やベルト通しまで設けられた衣服は、単に体を覆うだけの布ではなかった。

一着を完成させるまでには、木から繊維を取り出す作業を含め、半年ほどかかったという。

横井は帰国後、服が完成した後よりも、作っているときの方が幸せだったという趣旨の言葉を残している。

一人で暮らす横井にとって、衣服を作る作業は生存の手段であると同時に、毎日を生きるための仕事でもあった。

横井庄一は本当に終戦を知らなかったのか

横井庄一は、長く「終戦を知らずに28年間潜伏していた日本兵」と説明されてきた。

実際に日本の降伏を正式に知らされる機会はなく、グアム島の奥地で日本軍から命令を受けることもなかった。

ただし、28年間の最後まで日本の敗戦をまったく知らなかったのかについては、慎重に考える必要がある。

横井が発見直後にグアム警察で受けた取り調べの記録では、発見の約20年前には戦争の終結を知っていたとされている。

一方、横井は自著の中で、日本軍が再びグアム島へ来ると信じていたとも、1960年代には日本が敗れたことを薄々感じていたとも書いている。

つまり、ある時点で日本の敗戦を推測していたとしても、それだけでジャングルから出られたわけではない。

横井は軍隊で、捕虜になることを恥とする価値観を教え込まれていた。帰国後も、降伏して捕虜となった兵士に対する複雑な感情を語っている。

戦争が終わったという情報と、自分が投降してよいという確信は別のものだった。

横井をジャングルにとどめていたのは、情報の不足だけではない。

敵に殺される恐怖、捕虜になることへの抵抗、戦死したことになっている故郷へ生きて帰る恥、そして長い潜伏生活の中で形成された警戒心が重なっていたと考えられる。

仲間の死後、最後の8年間を一人で過ごす

長く行動をともにしていた2人の仲間は、横井が発見される約8年前に亡くなった。

それ以降、横井は一人で地下壕に暮らした。

会話をする相手もいない。

病気やけがをしても助けを呼ぶことはできない。火が消えても、食料が尽きても、すべて自分一人で解決しなければならなかった。

さらに、横井は発見されることを恐れ、熟睡することもできなかったとされる。

28年間の潜伏生活は、空腹や暑さに耐えた記録だけではない。

人間が社会から切り離された状態で、毎日の仕事と生活の秩序を作り、自分自身を維持し続けた時間でもあった。

横井庄一はどのように発見されたのか

1972年1月24日、横井庄一はグアム島南部のタロフォフォのジャングルで、現地住民と遭遇した。

横井は抵抗したが、住民に取り押さえられた。

タロフォフォ村の事務所に保護された後、グアム警察へ移送され、事情聴取によって愛知県出身の横井庄一であることが判明した。

発見後はグアム島の病院へ入院し、日本から派遣された医師団の診察を受けた。

日本側とグアム側の医師による協議の結果、病院を転院するという形で日本へ帰国することになった。

28年ぶりの帰国と「恥ずかしながら」の言葉

1972年2月2日、横井庄一は特別機で羽田空港へ到着した。

帰国後の会見で、横井は「恥ずかしながら、生きながらえておりました」と語った。

戦地から生きて帰ることを恥とする軍隊教育を受けていた横井にとって、帰国は無条件に喜べる出来事ではなかった。

横井が口にした「恥ずかしながら」という言葉は、日本社会に強い印象を残し、その年の流行語となっり、「よっこいしょ」と横井庄一の名前を掛けた「よっこいしょういち」という言葉まで広まった。

戦後の豊かさに慣れつつあった日本社会は、約28年前の姿を残した横井を熱狂的に迎えた。

横井庄一は、一人の帰還兵であると同時に、昭和の大衆文化の登場人物にもなっていった。

横井本人が経験した孤独や恐怖と、テレビの中で作られた親しみやすい「横井さん」の間には、少なからず距離があったのではないだろうか。

帰国後は84日間入院した

横井庄一は羽田空港に到着した後、国立東京第一病院へ入院した。

入院期間は84日間に及んだ。

帰国直後の横井は興奮状態が続き、十分に眠ることができなかった。医師や看護師は、ジャングルで形成された生活習慣と警戒心が解けていく過程を見守った。

カルテには、眠らなくても死なないと語る横井の言葉や、結婚相手を紹介しようとする手紙や写真が次々と届いた様子も記録されている。

横井は食事や衣服だけでなく、人との距離、時間の感覚、睡眠の取り方まで、戦後社会の生活へ戻していかなければならなかった。

1972年4月25日、横井は故郷の名古屋へ戻った。

57歳で横井美保子と結婚する

帰国した1972年11月、横井庄一は京都市に住んでいた幡新美保子(はたしん・みほこ)と見合い結婚した。

横井は57歳、美保子は横井より12歳年下だった。

横井は出征前には仕立て職人として家庭を築く年齢に差しかかっていた。

しかし、召集と28年間の潜伏生活によって、その時間は失われた。

帰国後の結婚は、横井にとって初めて始まった戦後の家庭生活でもあった。

美保子はその後、横井の講演や取材に同行し、死後も横井が経験した戦争を伝える役割を担うことになる。

講演、テレビ出演、出版で世間を賑わせる

帰国後の横井庄一は、グアム島での生活経験を語るため、全国各地で講演を行った。

名古屋市は、帰国後の横井を「耐乏生活評論家」と紹介している。

横井はテレビ番組にも出演し、生活道具の作り方や、物を無駄にしない暮らしについて語った。

1974年には、自身のグアム島での戦況と潜伏生活をまとめた『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』を出版している。

横井の生活には、経済成長を続ける日本に対する逆向きのメッセージがあった。

大量に作り、大量に消費する社会へ、一つの飯盒や水筒を分解し、修理し、別の道具に変えて使い続けた人物が帰ってきたのである。

つまり、横井の経験は戦争の悲劇としてだけでなく、サバイバル術や節約術としても消費された。

代表的な書籍には、『無事がいちばん―不景気なんかこわくない』などがある。

1974年に参議院議員選挙へ立候補

1974年7月、横井庄一は第10回参議院議員通常選挙の全国区に、無所属で立候補した。

しかし、当選には至らなかった。

帰国からわずか2年後の国政選挙出馬だった。

横井の知名度は全国的だったが、ジャングルから帰還した人物としての人気と、政治家として選ばれることは同じではなかった。

同じ1974年3月には、小野田寛郎がフィリピンから帰国している。

横井に向けられていた社会の関心は、新たに現れた「最後の日本兵」へ移っていった。

横井庄一と小野田寛郎は、どちらも「終戦後もジャングルに残った日本兵」として並べられることが多い。

横井も小野田も、もともと軍人を職業としていた人物ではなかった。

しかし、軍隊に入ってからの経歴は大きく異なる。

横井は洋服の仕立て職人から召集され、グアム島で部隊が壊滅した後、生き延びるためにジャングルへ身を隠した。

一方の小野田は、入隊後に幹部候補生となり、陸軍予備士官学校と陸軍中野学校二俣分校で教育を受けた。その後、少尉としてフィリピンへ派遣され、遊撃戦を続ける任務を与えられている。

横井と小野田の違いは、単に職業軍人だったかどうかではない。軍隊で受けた教育と、戦後もジャングルに残った理由にあった。

関連記事:小野田寛郎少尉は本当に戦争終結を知らなかったのか?

晩年は陶芸に取り組む

横井庄一は、講演や執筆活動を続ける一方、晩年には陶芸に取り組んだ。

土を成形し、自分の手で生活の中に残る物を作る陶芸は、仕立て職人だった横井の人生とも、グアム島で生活道具を作り続けた経験ともつながっている。

横井が晩年に作った陶器は、後に横井庄一記念館で展示された。

ジャングルでは、生きるために衣服や道具を作った。

帰国後は、生存のためではなく、自分の時間を過ごすために物を作った。

横井にとって陶芸は、戦争と切り離された手仕事だったのかもしれない。

横井庄一は1997年に82歳で死去

横井庄一は1997年9月22日、82歳で亡くなった。

帰国から約25年後のことだった。

28年間のジャングル生活だけを見ると、横井の人生の大半がグアム島にあったように感じられる。

しかし、横井は帰国後も結婚し、講演や執筆を続け、陶芸に取り組みながら四半世紀を生きた。

横井庄一の生涯は、1972年の帰国で終わったわけではない。

妻が自宅に横井庄一記念館を開館

横井庄一の死後、妻の美保子は、夫が経験した戦争を後世へ伝える活動を続けた。

2006年には名古屋市中川区にある自宅の一部を改装し、横井庄一記念館を開館した。

記念館では、横井が暮らした地下壕の模型、写真、帰国後の生活用品、晩年に制作した陶器などが展示された。

大規模な公立博物館ではない。

妻が夫と暮らした自宅を毎週日曜日に無料開放し、訪れた人に横井が経験した戦争について語る私設記念館だった。

横井庄一記念館は2022年に閉館

横井美保子は2022年5月、94歳で亡くなった。

館長を務めていた美保子の死後、横井庄一記念館は同年9月3日に閉館した。

記念館は現在、見学できる施設としては残っていない。

ただし、横井がグアム島で使用していた衣服や生活道具の多くは、名古屋市博物館に寄贈されている。

名古屋市博物館は「横井庄一生活資料」として64件92点を保存し、企画展や貸し出しなどを通して紹介している。

まとめ|横井庄一の戦争はいつ終わったのか

横井庄一は、戦争を続けることを望み、自らグアム島へ残った職業軍人ではない。

洋服の仕立て職人として暮らしていたところを赤紙で召集され、部隊の壊滅によってジャングルへ追い込まれた一人の市民だった。

日本の戦争は1945年に終わった。

しかし、横井が日本へ帰ったのは1972年である。

横井が途中で日本の敗戦を推測していたとしても、軍隊で植え付けられた価値観や捕虜になる恐怖は消えなかった。

国家は終戦を宣言できる。

だが、一人の人間の中に残された戦争まで、同じ日に終わらせることはできない。

帰国後の横井は結婚し、テレビに出演し、本を書き、参議院議員選挙に立候補し、陶芸に取り組んだ。

その人生を「28年間生き延びた日本兵」という一つの言葉だけで括ることはできない。

人生の前半には仕立て職人がいた。

中央には召集と戦争、ジャングルでの潜伏生活があった。

そして後半には、失われた時間を抱えたまま、新しい家庭と生活を築こうとした横井庄一がいた。

横井庄一の死後、その記憶は妻の美保子が開いた記念館に引き継がれた。

その記念館も、美保子の死によって閉館した。

横井庄一の物語は、本人の帰国や死によって終わったのではない。

戦争によって一人の仕立て職人から奪われた時間を、現在を生きる者がどのように受け止め、伝えていくのかという問題を残している。

明日への道 全報告グアム島孤独の28年』は、横井庄一本人が、グアム島での戦闘と潜伏生活をまとめた記録である。横井が何を考え、どのように生活を作ったのかを本人の言葉から知ることができる。


横井庄一と同じく、終戦後もジャングルに残った人物が小野田寛郎である。

ただし、小野田は陸軍中野学校で教育を受け、上官から作戦解除命令を受けるまで任務を続けた。横井庄一とは、潜伏生活を続けた理由も、その終わり方も異なっている。


ニューギニア戦線から帰国した後も、戦争責任を問い続けた人物が奥崎謙三である。

横井庄一が戦場から帰ることができなかった人物だとすれば、奥崎謙三は日本へ帰国した後も、自分の中に残った戦争を終わらせることができなかった人物だった。

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