鶴見俊輔という人物を、一言で説明するのは難しい。
哲学者であり、評論家であり、『思想の科学』を創刊した編集者でもあった。
日本人の「転向」を研究する一方で、漫画や落語、大衆文化について論じ、1960年代には市民運動にも参加した。
1965年には小田実らとベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の結成に関わり、晩年には「九条の会」の呼びかけ人にもなっている。
しかし、鶴見俊輔を単純に「左派の思想家」「反戦運動家」と呼んでしまうと、その人物像のかなりの部分がこぼれ落ちる。
彼が生涯考え続けたのは、もっと根本的な問題だった。
人間は、巨大な組織や時代の空気のなかで、それでも自分の頭で考えることができるのか。
鶴見俊輔の思想を追っていくと、戦後日本そのものが見えてくる。
鶴見俊輔とは
鶴見俊輔は1922年、東京に生まれた。
父は政治家・作家の鶴見祐輔。母方の祖父は、台湾総督府民政長官や南満州鉄道初代総裁などを務めた後藤新平である。
姉の鶴見和子も、のちに社会学者として知られるようになる。
つまり鶴見俊輔は、戦前日本の政治・知識人社会の中心に近い家庭に生まれた人物だった。
ところが本人は、その世界に素直に適応したわけではない。
少年時代には学校になじめず、自身を後年「不良少年だった」と振り返っている。
そして15歳でアメリカへ渡った。
この早すぎる海外経験が、後の鶴見俊輔を決定づけることになる。
15歳でアメリカへ渡り、ハーバード大学で哲学を学ぶ
鶴見俊輔はアメリカでハーバード大学哲学科に進み、プラグマティズムを学んだ。
プラグマティズムとは、ごく簡単にいえば、思想や概念を抽象的な理論だけで考えるのではなく、
「それは実際にどう働くのか」
という結果や経験から考えていく哲学である。
鶴見はウィリアム・ジェイムズなどの思想を学び、1942年にハーバード大学を卒業した。
しかし、その頃には日米はすでに戦争状態に入っていた。
鶴見は敵性国人として拘束され、無政府主義者の疑いもかけられた。拘留中に卒業論文を書き上げ、その後、日米交換船で日本へ帰国している。
日本へ戻った鶴見を待っていたのは戦争だった。
バタビアで軍属として戦争を経験する
帰国後、鶴見俊輔は海軍軍属となり、当時日本軍の占領下にあったバタビア、現在のインドネシア・ジャカルタなどで勤務した。
アメリカで哲学を学んでいた青年が、今度は日本の戦争の内部に入ることになったのである。
この経験は、戦後の鶴見の思想を考えるうえで非常に重要である。
戦争が終わったあと、「戦争に反対だった」「自分は騙されていた」と言うだけなら簡単である。
しかし鶴見は、
なぜ人間は時代に従うのか。
なぜ思想家や知識人まで国家に順応するのか。
という問題を考え続けた。
それが後の「転向研究」へとつながっていく。
『思想の科学』を創刊
敗戦翌年の1946年、鶴見俊輔は都留重人、丸山眞男、姉の鶴見和子らと雑誌『思想の科学』を創刊した。
鶴見はその後、約50年にわたり同誌の編集と運営に深く関わることになる。『思想の科学』は1996年まで続いた。
ここで面白いのは、「思想」と呼ぶ範囲の広さである。
思想というと、哲学者や政治家が難しい言葉で語るものを想像しがちだ。
しかし鶴見は、普通の人々の日常生活、大衆文化、漫画、映画、歌、落語などにも目を向けた。
大学教授が書斎の中だけで思想を考えるのではない。
街の中にも、漫画の中にも、普通の人間の暮らしの中にも思想は存在する。
この視線が鶴見俊輔の大きな特徴だった。
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鶴見俊輔が考えた「転向」とは
鶴見俊輔の代表的な仕事の一つが「転向研究」である。
戦前、日本共産党員や社会主義者の中には、弾圧を受け、それまでの思想を放棄した人々が数多くいた。
それを単純に、
「信念を捨てた」
「裏切った」
と評価することもできる。
しかし鶴見らは、それだけでは終わらせなかった。
人間はなぜ転向するのか。
国家や社会から強烈な圧力を受けたとき、人間の思想はどう変化するのか。
転向した人間の中に、その後どのような思想が生まれたのか。
こうした問題を個々の人物の人生から考えた。
鶴見の『転向研究』では、林房雄、大宅壮一、埴谷雄高、近衛文麿、清水幾太郎、今村均、吉田満など、多種多様な人物が対象になっている。
これは戦前だけの問題ではない。
政党、会社、学校、宗教、世論。
人間が何らかの集団に所属する限り、「自分の考え」と「組織の考え」が衝突する瞬間は存在する。
だからこそ鶴見俊輔の転向論は、戦後何十年が過ぎても古びない。
漫画や落語まで「思想」として考えた
鶴見俊輔のもう一つの面白さは、大衆文化への関心である。
漫画について大量の文章を書き、映画、新聞小説、落語、流行歌なども研究対象にした。
筑摩書房からは後年、『鶴見俊輔全漫画論』が全2巻で刊行されている。
当時の大学の研究者からすれば、漫画は必ずしも正統な学問の研究対象ではなかった。
しかし鶴見は違った。
普通の人々が実際に読んでいるもの、見ているもの、楽しんでいるものから人間を考えた。
その思想がもっともよく表れているものの一つが、「限界芸術」という考え方である。
「限界芸術」とは何か
鶴見俊輔は芸術を、美術館や劇場だけに存在するものとは考えなかった。
専門家による「純粋芸術」、商品として大量に提供される「大衆芸術」だけではなく、その境界の外側にも人間の表現活動が存在すると考えた。
日常生活の中で普通の人が行う表現である。
鶴見はそこに「限界芸術」という領域を見いだした。
後の研究では、限界芸術論は単なる芸術の分類ではなく、日常生活のなかで人間が自発性や自由を取り戻していく問題とも結びついていたと論じられている。
ここでも鶴見の視線は一貫している。
偉大な思想家だけを見るのではない。
偉大な芸術家だけを見るのでもない。
普通の人間が何を考え、何を読み、何をつくり、どう生きるのか。
そこから社会を見るのである。
1960年安保と「声なき声の会」
鶴見俊輔の思想は、書物の中だけにはとどまらなかった。
1960年の日米安全保障条約改定をめぐる安保闘争では、市民運動に参加する。
その一つが「声なき声の会」である。
当時の安保反対運動では政党、労働組合、学生組織が大きな力を持っていた。
しかし、そのどこにも属していない普通の市民もいた。
「声なき声の会」は、そうした組織に属さない市民が参加した運動だった。
鶴見自身も1960年、安保条約をめぐる政治状況に抗議して東京工業大学を辞職している。
ここから1965年のベ平連へ続く線が見えてくる。
小田実とベ平連へ
1965年、アメリカによる北ベトナム爆撃が本格化すると、日本でもベトナム戦争への反対運動が始まった。
その中から生まれたのがベ平連である。
正式名称は「ベトナムに平和を!市民連合」。
小田実、高畠通敏、鶴見俊輔らが中心となった。ベ平連成立には、それ以前の「声なき声の会」などの市民運動の蓄積があったことも確認されている。
ベ平連については、別記事で詳しくまとめている。
関連記事:ベ平連とは何だったのか
その中心人物として全国的に知られるようになったのが作家・小田実である。
関連記事:小田実とは何者だったのか|ベ平連を率いた作家、その生涯と思想
小田実が巨大な声で社会へ問いを投げかける人物だったとすれば、鶴見俊輔は、その運動の背後にある「普通の市民が自分で考え、自分で参加する」という思想を長年考えてきた人物だったともいえる。
ベ平連は鶴見俊輔の人生すべてではない。
むしろ、彼がそれ以前から考えてきた思想が社会運動として現れた一つの地点と考えた方が分かりやすい。
大学を二度辞めた哲学者
鶴見俊輔は大学教授という地位にも執着しなかった。
1960年には安保問題をめぐって東京工業大学を辞職。
その後、同志社大学教授となったが、大学紛争のなかで大学側が機動隊を導入したことに抗議し、1970年に同志社大学も辞職している。
思想について語るだけではなく、自分が所属している組織と自分の思想が衝突すれば、そこから離れる。
鶴見俊輔の「転向」への関心を考えると、この行動は興味深い。
自分自身もまた、
組織の中で人間はどう振る舞うのか
という問題から逃げなかったのである。
晩年まで戦争について考え続けた
鶴見俊輔はその後も、戦争、大衆文化、日本人の思想、市民運動について書き続けた。
『戦時期日本の精神史』では1931年から1945年までの日本社会を、「転向」「国体」「玉砕」「戦時下の日常生活」などさまざまな角度から考察した。
同書によって大佛次郎賞も受賞している。
2004年には大江健三郎らとともに「九条の会」の呼びかけ人となった。
15歳でアメリカへ渡り、戦争中には日本軍の軍属となり、敗戦後には日本人の転向を研究し、安保闘争、ベ平連を経て、晩年まで戦争と国家について考え続けた。
そして2015年、93歳で死去した。
鶴見俊輔を知るなら『期待と回想』
鶴見俊輔について一冊読むなら、自伝的著作『期待と回想』が入りやすい。
本人が少年時代からアメリカ留学、戦争、『思想の科学』、転向研究、ベ平連までを振り返った本である。
筑摩書房の文庫版は672ページとかなり厚い。
しかし、完成した思想体系を説明する哲学書というより、鶴見俊輔という一人の人間がどのように考えてきたのかを追う本なので、人物そのものに興味を持った人には向いている。
一方、鶴見独自の文化論に興味があるなら『限界芸術論』へ進むのもよい。
鶴見俊輔とは何者だったのか
鶴見俊輔は、巨大な哲学体系をつくった思想家ではない。
むしろ逆だった。
戦争中の軍属。
転向した知識人。
漫画を読む大衆。
デモに参加する名もない市民。
日常生活の中で何かを表現する普通の人々。
鶴見の視線は、いつも大きな歴史から少し外れた場所にいる人間へ向けられていた。
そこから、
国家とは何か。
思想とは何か。
人間は本当に自分の頭で考えることができるのか。
という問題を考え続けた。
だからこそ鶴見俊輔は、戦後日本を代表する思想家でありながら、どこか「思想家」という言葉だけでは収まりきらない。
哲学、漫画、戦争、転向、市民運動。
一見ばらばらに見える仕事をつないでいたのは、おそらく一つの問いだった。
普通の人間は、時代に飲み込まれずに生きることができるのか。
鶴見俊輔は、その問いを戦後70年にわたって考え続けた異色の哲学者だった。



