赤軍派とは、1960年代末に共産主義者同盟、いわゆるブントから生まれた新左翼の一派である。
正式には「共産主義者同盟赤軍派」と呼ばれる。
赤軍派の名前を聞くと、日本赤軍、連合赤軍、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件などを思い浮かべる人が多いかもしれない。
しかし、ここで少し整理が必要になる。
よど号事件を起こしたのは日本赤軍ではない。
連合赤軍も、赤軍派そのものではない。
日本赤軍もまた、赤軍派の国外路線から生まれた別組織である。
つまり赤軍派とは、ひとつの組織が、のちに複数の過激な流れへ分かれていく源流だった。
一本の川が、途中で三つに裂ける。
その先に、北朝鮮へ向かったよど号グループがあり、中東へ向かった日本赤軍があり、国内で山岳ベース事件とあさま山荘事件へ向かった連合赤軍があった。
この記事では、その赤軍派とは何だったのかを整理していく。
赤軍派はどこから生まれたのか
赤軍派は、1969年に共産主義者同盟、いわゆる第二次ブントの内部から生まれた。
当時の日本では、大学闘争、ベトナム反戦運動、安保闘争などが重なり、学生運動が大きな熱を持っていた。新左翼各派は、既成左翼である日本共産党とは違う道を掲げ、より急進的な革命運動を目指していた。
その中でも赤軍派は、特に武装闘争へ傾いた集団だった。
赤軍派の特徴は、単なる学生運動の過激化ではなかった。
彼らは、国会前でデモをするだけでは革命は起きないと考えた。大学を占拠するだけでも足りない。日本国内だけで完結する運動でもない。
彼らは、世界革命、武装闘争、国際根拠地という言葉を使いながら、現実の社会から少しずつ離陸していった。
世界同時革命論という危うい熱
赤軍派を理解するうえで欠かせないのが、世界同時革命論である。
簡単に言えば、日本だけで革命を起こすのではなく、世界各地の革命運動と連動し、国境を越えて武装闘争を展開するという発想である。
この思想の中では、日本は孤立した島国ではない。
ベトナム戦争があり、パレスチナ解放闘争があり、世界各地で反帝国主義運動が起きている。ならば日本の革命運動も、その世界的な闘争の一部にならなければならない。
そういう理屈である。
ただし、問題はここからだった。
思想として世界を見渡すことと、実際に武装闘争へ進むことは違う。
赤軍派は、その境界線を踏み越えた。
日本で革命を起こすために、海外に拠点を作る。
日本へ戻ってくるために、日本を出る。
現実を変えるために、現実から遠ざかる。
そのねじれが、後の日本赤軍やよど号グループにつながっていく。
赤軍派は三つの流れに分かれた
赤軍派を理解するには、三つの流れに分けて見るとわかりやすい。
第一に、よど号グループ。
第二に、日本赤軍。
第三に、連合赤軍である。
赤軍派は、ひとつのまとまった組織として長く続いたというより、分裂し、逃走し、国外へ出て、他組織と結びつきながら、別々の組織や事件へ流れ込んでいった。
そのため、赤軍派を「ひとつの団体」として見るとわかりにくい。
むしろ赤軍派とは、1960年代末の新左翼運動が武装闘争へ振り切れたときに生まれた、危険な分岐点だったと見た方がよい。
よど号グループ|北朝鮮へ向かった赤軍派
赤軍派の流れから最初に大きな事件として現れたのが、1970年3月31日のよど号ハイジャック事件である。
この事件では、赤軍派のメンバー9人が、東京発福岡行きの日本航空351便、通称「よど号」をハイジャックし、北朝鮮へ向かった。
よど号グループは、北朝鮮を革命の根拠地にするつもりだった。そこから日本へ戻り、武装蜂起を起こす構想だったとされる。
だが、現実には彼らは北朝鮮に長く留まることになった。
「海外に根拠地を作り、そこから日本へ戻る」という構想は、思想の中では劇的だったかもしれない。しかし、現実には国外への長い逃避となった。
革命のための出国は、帰れない旅になった。
日本赤軍|中東へ向かった赤軍派
赤軍派のもうひとつの流れが、日本赤軍である。
日本赤軍は、重信房子らが中東へ渡り、パレスチナ解放人民戦線、PFLPと接触する中で生まれた。
警察庁資料では、重信房子がPFLPと接触し、その支援を受けて赤軍派の国際根拠地として「赤軍派アラブ支部」を設立し、後に国内の赤軍派と決別して独自の行動を取り始めたと説明されている。
つまり日本赤軍は、赤軍派の国外路線が中東で独立していったものだといえる。
日本赤軍は、1972年のテルアビブ・ロッド空港乱射事件をはじめ、国際テロ事件に関与していく。
ここでも赤軍派の思想は、奇妙な形で現実化した。
日本革命のために海外へ行く。
海外の解放闘争と連帯する。
国際的な武装闘争の一部になる。
理屈としては、赤軍派の世界同時革命論に沿っている。
しかし、その結果として起きたのは、多数の死傷者を出す国際テロだった。
世界とつながるという理想は、世界を舞台にした暴力へ変わった。
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連合赤軍|国内に残った赤軍派の末路
赤軍派の国内残存勢力は、やがて京浜安保共闘、つまり革命左派と合流し、連合赤軍を結成する。
この流れの先にあるのが、山岳ベース事件とあさま山荘事件である。
国内に残った赤軍派は、武装闘争を続けるために山へ入った。そこで革命左派と合流し、銃を持ち、訓練を行い、やがて内部の「総括」によるリンチ殺人へ進んでいく。
警察庁の資料でも、連合赤軍について、結成直後から「大量リンチ殺人」を行ったと記されている。
ここに、赤軍派のもうひとつの帰結がある。
よど号グループは北朝鮮へ向かった。
日本赤軍は中東へ向かった。
国内に残った者たちは山へ向かった。
どの道も、社会の中で大衆運動を広げる道ではなかった。
国外へ行く。
山へ入る。
仲間を裁く。
銃を持つ。
革命を目指したはずの運動は、社会から離れ、現実から離れ、最後には人間からも離れていった。
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塩見孝也という象徴
赤軍派を語るうえで、塩見孝也は避けて通れない。
塩見は赤軍派の議長であり、世界同時革命論や国際根拠地構想を象徴する人物だった。
ただし、塩見自身の人生は、赤軍派から分かれたメンバーたちとは少し違う。
重信房子は日本赤軍へ行き、中東を舞台にした。
よど号メンバーは北朝鮮へ行った。
連合赤軍のメンバーは山岳ベース事件とあさま山荘事件へ進んだ。
一方の塩見は、逮捕され、長い獄中生活を送ることになる。
塩見は「よど号」ハイジャックのプランナーとして1970年3月に爆発物取締り等の容疑で逮捕され、20年間を獄中で過ごした。
世界同時革命を唱えた議長は、世界へ出ていかなかったが、彼の理論に影響を受けた者たちは、北朝鮮へ、中東へ、山岳へ向かった。
しかし、その時、塩見自身は、獄中にいた。出所後も日本で過ごし、晩年は駐車場の管理人として人生を終えている。
この構図は、赤軍派という運動の奇妙さをよく表している。
赤軍派は何を残したのか
赤軍派が残したものは、成功した革命ではない。
むしろ、失敗の記録である。
よど号事件。
日本赤軍による国際テロ。
連合赤軍の山岳ベース事件。
あさま山荘事件。
それらは、赤軍派という源流から流れ出た先に起きた事件だった。
赤軍派を見なければ、その全体像は見えにくい。
そこには、時代の熱があった。
社会を変えたいという若者の衝動があった。
既成左翼への失望もあった。
国家や資本主義への怒りもあった。
だが、その熱は、人間を焼いた。
国外逃亡、テロ、内ゲバ、リンチ殺人、長期逃亡、獄中生活という形で、多くの人生を破壊していった。
赤軍派とは何だったのか。
それは、日本の新左翼史におけるひとつの過激な分岐点である。
そして同時に、思想が現実を見失ったとき、どこまで人間を遠くへ連れていってしまうのかを示す、重い記録でもある。
赤軍派そのものを知るうえでは、元赤軍派議長・塩見孝也による『赤軍派始末記・改訂版: 元議長が語る40年』が参考になる。赤軍派は、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループへと分かれていった源流であり、その中心にいた人物の証言には、当事者でなければ見えない時代の空気が残されている。
赤軍派から分かれた流れをさらに詳しく知りたい方は、以下の記事もあわせて読んでほしい。
新左翼の全体像については、以下の記事で詳しく整理している。




